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    <title>登城記｜タクジローの日本全国お城めぐり</title>
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    <updated>2008-08-18T07:44:52Z</updated>
    
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    <title>大和　柳本城（天理市）</title>
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    <published>2008-08-13T09:01:42Z</published>
    <updated>2008-08-18T07:44:52Z</updated>
    
    <summary>62-100</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="45nara" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>黒塚古墳を利用して築かれた城</h3>
<h3>別名</h3>
<p>柳本陣屋（江戸時代）</p>
<h3>所在地</h3>
<p>天理市柳本町１１１５他、柳本公園（黒塚古墳展示館の西側）<br />
黒塚古墳展示館：柳本町１１１８－２、電話０７４３－６７－３２１０</p>
<h3>形状</h3>
<p>平城（陣屋：江戸時代）</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：黒塚古墳、柳本小学校他<br />
遺構等：水堀、陣屋御殿（橿原神宮に移築）</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>３点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０８／１０</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>室町時代後期に、楊本（やなぎもと）氏が、黒塚古墳を大幅に改変して砦を築いたと言われる。
柳本は古くから興福寺の荘園となり楊本氏が荘官を勤めていた。<br />
その後、十市（といち）氏の支配する領地となり、元亀２年（１５７１）柳本城に付け城を用意した。<br />
天正３年（１５７５）には、松永久秀の手に帰し、甥の松永金吾が入城した。<br />
同５年（１５７７）１０月、松永久秀は織田信長に謀反を起こしたために攻められ、金吾は自刃し落城した。そして、天正８年（１５８０）
に信長により城は破却された。<br />
その後、元和２年（１６１６）には織田長益（有楽斎）の５男尚長が同地に陣屋を構え、明治４年（１８７１）
の廃藩置県まで２５５年間織田氏が当地を治めた。<br />
『黒塚古墳展示館展示資料より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>ここは、柳本城跡というよりも、「黒塚古墳」と言った方がはるかに知名度が高い。<br />
「黒塚古墳」と言えば、１９９７年に実施した発掘・調査で、後円部に見付かった竪穴式石室から３３面もの三角縁神獣鏡が出土したことで、
マスコミが大々的に取り上げ、邪馬台国が大和であることが証明されるのではと大騒ぎになったのを思い出す。<br />
さて、柳本城跡であるが、古墳の周囲３方を囲む水堀は、いずれもかなりの広さを誇る。北池（内堀）と菱池（外堀）
とは５ｍほどの比高差があり、その間はしっかりした土塁で区分けされている。<br />
戦国期の柳本城は、前方後円墳の後円部を中心に築かれていたのであろう。前方部との間を掘割（堀切）で分断していたようである。そして、
後円部頂上は大した高さではないが、見晴らしは良い。<br />
また、江戸期の陣屋時代には、陣屋の中心は現柳本小学校辺りで、御殿が建っていたようだが、今では陣屋の面影は全くない。<br />
（2008/08/10登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>黒塚古墳の図<font size="2">（現地説明板より）<br />
ここは、柳本城跡というよりも、「黒塚古墳」と言った方がはるかに知名度が高い。柳本城は、黒塚古墳を大幅に改変して砦を築いたと言われる。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180114375.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧後円部、　㊨前方部<font size="2">（後円部から撮影）<br />
１９９７年に実施した発掘・調査で、後円部に見付かった竪穴式石室から３３面もの三角縁神獣鏡が出土したことで、
マスコミが大々的に取り上げ、邪馬台国が大和であることが証明されるのではと大騒ぎになった。今では、石室は埋め戻され、
その箇所に写真付きの説明板が設置されている。発掘されるまでは、児童公園になっていてブランコや鉄棒等が設置されていたそうだ。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180117390.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180118156.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>後円部頂上から南東方向を①<br />
<font size="2">右奥には、陣屋跡に建つ柳本小学校が見える。また、江戸期の陣屋図によると、
下の方に見える土橋はなかったようで、両側の池が繋がり内堀となっている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180118921.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>後円部頂上から北西方向を②<br />
<font size="2">後円部は大して高くはないが、周りは平らな大和平野なので、どの方向も見晴らしは良い。下に見える池は外堀
（菱池）で、内堀とは段差があり５ｍ以上は低い。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180119734.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧前方部から後円部を、　㊨発掘された掘割（堀切）<font size="2">～現地説明板より～<br />
古墳のくびれ部付近（㊧）には、当然ながら今は埋め戻されているが、後円部と前方部を分断し、後円部を防御の要とするべく堀が掘られていた。
堀の上面の幅は６ｍ以上あり、深さは３ｍに達する。断面はＶ字状である。また、発掘調査では、後円部西側（左写真正面）で石垣を検出し、
軒丸瓦には織田家の家紋「木瓜紋」が確認されたそうだ。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180120687.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180121531.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>内堀<br />
<font size="2">写真は、古墳の南西から撮ったもので、内堀の広さは相当なものだ。正面奥の丘が後円部で、
左には前方部が一部見える。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180122343.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>内堀（北池）と外堀（菱池）間の土塁<br />
<font size="2">内堀（右側の池）と外堀とは段差があり、５ｍ以上低く、その間をしっかりした土塁で分けられている。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180122953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><br />
【柳本陣屋】<br />
柳本陣屋図<font size="2">（黒塚古墳展示館展示より）<br />
嘉永７年（１８５４）の陣屋図で、中央に御殿屋敷の敷地、左下には黒塚古墳と堀が描かれている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180123750.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>陣屋跡には小学校が<br />
<font size="2">江戸時代の陣屋の中心は現柳本小学校辺りであるが、今では陣屋の面影は全くない。<br />
また、桜井在住のかつての同僚Ｔ氏によると、以前（相当昔のこと）は、ここに立派な陣屋門が建っていたそうだが、
何処へ行ってしまったのだろう？<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180124562.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>陣屋御殿（玄関と大書院）<font size="2">　～黒塚古墳展示館展示写真より～<br />
橿原神宮の文華殿として移築されている。この建物は表向御殿で玄関一棟と大書院一棟からなり、公式行事に使われた。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080813T180125359.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>黒塚古墳を利用して築かれた城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>丹波　丸岡城（亀岡市）</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1136" title="丹波　丸岡城（亀岡市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1136</id>
    
    <published>2008-07-14T11:30:30Z</published>
    <updated>2008-07-17T13:32:28Z</updated>
    
    <summary>2-10-300</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="43kyoto" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>丹波八上城波多野氏の臣・福井氏の居城、明智光秀の丹波攻めにて落城</h3>
<h3>別名</h3>
<p>余部城（あまるべじょう）</p>
<h3>所在地</h3>
<p>京都府亀岡市余部町古城３９番地西岸寺<br />
電話：０７７１－２４－４７３８</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：西岸寺、市街地<br />
遺構等：石碑、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>０点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０７／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>この地は、古城と呼ばれる小高い平地で丸岡城（余部城）の城跡である。現在でも「古城」・「古城浦」・「政所」などの地名、
城跡周辺に寺院などの跡地が点在し「兵庫寺跡」・「宝蔵寺跡」・「庚申堂跡」・城の東麓に「元西岸寺」が残る。<br />
丸岡城が登場するのは、１５世紀の応仁・文明の乱のとき東軍の軍事的拠点としてである。<br />
戦国時代に入ると、天正（１５７３～９３）年間、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_332.html">八上城</a>の波多野氏が丹波をほぼ手中にし、
その傘下にあった福井因幡守貞政が、この城を守り地域権力の拠点的城として使われた。<br />
しかし、天正６年（１５７８）６月３日、織田信長の命を受けて丹波に進攻した明智光秀の軍勢が宇津根・雑水川・
安行山の三方から丸岡城を攻めて、落城した。<br />
さらに勢いに乗じた光秀は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_332.html">八上城</a>も攻め落として丹波を手中にし、
荒塚山に<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/43kyoto/post_179.html">亀山城</a>を築いた。
<br />
丸岡城の大手門は、この坂道あたりで天守閣は、西岸寺のあたりとされています。<br />
『現地説明板より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>丸岡城跡である西岸寺は、ＪＲ山陰本線亀岡駅近くの民家が密集する町の高台にある。<br />
従って、往時を偲ぶ雰囲気は全く無く、勿論遺構も残っていないが、城を築く立地条件がそれなりに良かったのは分かる。<br />
また、西岸寺の門の下に立派な石碑がたち、坂の一番上には説明板も設置されている。<br />
（2008/07/06登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>西岸寺（右上が門）と坂道<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080714T202957203.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>西岸寺の庭<br />
<font size="2">右の塀下は、切岸のようになって、石垣が積まれている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080714T203000125.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>丹波八上城波多野氏の臣・福井氏の居城、明智光秀の丹波攻めにて落城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>丹波　金山城（篠山市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_705.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1135" title="丹波　金山城（篠山市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1135</id>
    
    <published>2008-07-12T06:43:07Z</published>
    <updated>2008-07-17T13:31:50Z</updated>
    
    <summary>2-10-500</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="42hyogo" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>丹波制圧の為に明智光秀が波多野氏（八上城）と赤井氏（黒井城）の連携分断の為に築城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>兵庫県篠山市追入</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高５３７ｍ、比高差約３００ｍ）</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、土塁、石垣、竪堀、馬場、井戸、虎口、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>６点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０７／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>金山城（きんざんじょう）は、織田信長の命を受け丹波制圧にのりだした明智光秀が、天正６年（（１５７８）９月より同７年（１５７９）
１０月にかけて標高５３７ｍの頂上に築城した。<br />
天正６年（１５７８）２月、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_323.html">三木城</a>主別所長治が信長に背いたとき、
篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起した。<br />
光秀は、信長に征討を命じられ、同年３月に丹波へ侵攻した。<br />
秀治は居城<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_332.html">八上城</a>にて、
氷上郡にある<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>の赤井氏と連携し光秀に徹底抗戦を続けた。
<br />
光秀は天正３年（１５７５）に<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>を攻めた際、
秀治に背後から襲撃され、京へ命からがら逃げ帰った思い出があったので、この両者の連携を最も恐れた。<br />
そこで、光秀は、両者の連携を分断するために、多紀郡（現篠山市）と氷上郡の郡境にあり、
両郡を結ぶ交通の要衝であったこの地に金山城を築いた。<br />
これが功を奏したのか、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_332.html">八上城</a>は天正７年
（１５７９）６月ついに落城し、波多野氏は歴史の舞台から消え去った｡<br />
金山城は天正１０年（１５８２）頃には役目を終え、廃城になったと思われる。<br />
『現地（登山口＆本丸跡）説明板ほかより』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>金山城跡は、ハイキングコースになっており、４ヶ所ほどから登城口があるようだが、篠山市追入から登城した。<br />
国道１７６号線「新鐘ケ坂トンネル」を南（篠山市側）へ出て３００ｍほどの信号を西へ右折すると「追入神社」へと突き当たる。神社から南
（左）へ７０～８０ｍほどの所に登城口がある。<br />
登城口には案内板と「１２７０メートル」の表示が・・・・。ム～・・・。「先程登った<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>が１０５７ｍで３５分ほど掛かった・
・・。」ということは４０～４５分！？。<br />
気温は３４度。しかも湿気が高く、強烈な蒸し暑さで、先程の登城時に顔（薄い頭も）を拭いたタオルが汗で重い・・・・・・。
不安が胸をよぎる・・・。しかし、「まあ兎に角登ろう！！」<br />
（昨日と今日の登城は、京都時代の同僚Ｍさんに付き合ってもらっての登城だ。弱音を吐く訳にはいかない。何でもないという顔をして登城！！）
<br />
登城口から、ひたすら登ること３０分強で出丸の一つ園林寺跡へと出る。形の良い石垣が残っている。しかし、その石垣の上には、
瓦や廃材がゴロゴロ・・・・。何とも哀れな光景だ。<br />
そこから、石垣の脇を北へ進むと馬場跡へ出る。馬場の曲輪の虎口にも土塁が残り、虎口手前に石灯篭のような石と井戸のような石積みがあった。
馬場は直線１００ｍほどであろうか。<br />
その先が、「鬼の架け橋１５０ｍ」、「金山城跡１００ｍ」、「トンネル」への分かれ道になる。当然、まずは金山城跡へのルートを選ぶ。
<br />
本丸は、ほぼ東西に瓢箪の形をしており、東西４０ｍ強ある。北には<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>、
南には<a href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_332.html">八上城</a>の案内の標柱が。
尤も、私には、どの山がそれらの城址かは分からなかったが・・・（笑）。<br />
本丸下周囲は石垣があったようで、今も瓢箪の頭（西側）部分周囲下に所々残っている。特に、その南側の石垣がよく残っている。<br />
最後に、鬼の架け橋から下を眺めて下山した。鬼の架橋の向こう側は、怖いほどの絶壁だった。<br />
結局、本丸までは、予想通り４５分近くの汗だくの登城で、下山の時には、かなり膝にきた。そして、兎に角暑かったが、達成感が湧いて来た。
<br />
尤も、付き合ってくれたＭさんが、どう思ったかは知らないし、聞かないでいる。<br />
（2008/07/06登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>登城口<br />
<font size="2">神社から南（左）へ７０～８０ｍほどの所に登城口がある。登城口には案内板と「１２７０メートル」の表示が・
・・・ム～・・・！？。先程登った<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>が１０５７ｍで３５分ほど掛かった・
・・。ということは４０～４５分！？。気温は３４度。しかも湿気が高く、強烈な蒸し暑さで、先程の登城時に顔（薄い頭も）
を拭いたタオルが汗で重い・・・・・・。まあ、「兎に角登ろう！！」（昨日と今日の登城は、
会社時代の同僚Ｍさんに付き合ってもらっての登城だ。弱音を吐く訳にはいかない。何でもない顔をして登城！！）<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154217937.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>登城道<br />
<font size="2">ハイキングコースになっているだけあって、道はさすがによく整備されていて歩きやすい。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154223187.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154223921.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>園林寺跡石垣<br />
<font size="2">登城口から、ひたすら登ること３０分強で出丸の一つ園林寺跡へと出る。形の良い石垣が残っている。
写真手前の削平地も結構広い。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154225203.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>園林寺跡の瓦と廃材<br />
<font size="2">石垣の上には、瓦や廃材がゴロゴロ・・・・。何とも哀れな光景だ。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154226812.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>馬場曲輪虎口<br />
<font size="2">園林寺跡石垣の脇を北へ進むと馬場跡へ出る。馬場の曲輪の虎口にも土塁が残る。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154228500.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>石灯篭と井戸跡？<br />
<font size="2">馬場曲輪虎口の土塁下に石灯篭のような石と井戸のような石積みがあった。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154230875.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>馬場跡<br />
<font size="2">虎口を入ると、馬場が。馬場は直線１００ｍほどであろうか。
尾根を利用したもののようで両側が崖になっている。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154231671.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>分岐点<br />
<font size="2">馬場の先が、「鬼の架け橋１５０ｍ」、「金山城跡１００ｍ」、「トンネル」への分かれ道になる。
それにしても案内板が一杯！しかも、金山城への距離が「１００ｍ」と「１２０ｍ」の２種類がある。どっちが本当なの？。また、
トンネルって何？先程通って来た鐘ケ坂トンネルのこと？<br />
何はともあれ、まずは金山城跡へのルートを。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154232703.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>見張り台？<br />
<font size="2">分岐点を本丸へと登って行くと、途中、見張り台のような土塁上にこんな巨岩が。しかも割れていた。
説明がないので分からなかったが、見張り台に絡むもの？</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154233906.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>いよいよ本丸へ<br />
<font size="2">そして、登り始めて４０分強、ついに本丸が見えてきた。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154234718.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸全体<br />
<font size="2">本丸は、ほぼ東西に瓢箪の形をしており、東西４０ｍ強ある。写真左奥が、瓢箪の頭部分。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154235703.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸西（瓢箪の頭）部分<br />
<font size="2">本丸下周囲は石垣があったようで、今も瓢箪の頭（西側）部分周囲下に所々残っている。特に、
その南側の石垣がよく残っている。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154237078.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸から<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>（北方面）
を望む<br />
<font size="2">北には</font><a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html"><font size=
"2">黒井城</font></a><font size="2">の案内の標柱が。尤も、私にはどの山が<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>址かは分からなかったが・
・・（笑）。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T155725968.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸から<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_332.html">八上城</a>
（南方面）を望む<br />
<font size="2">南には</font><a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_332.html"><font size="2">八上城</font></a><font size="2">の案内の標柱が。
尤も、どの山が<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_332.html">八上城</a>址かは分からなかったが・
・・。おまけに、薄曇のため、写真にさえ写っていない。（笑）。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T155727484.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸西側の石垣<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154238281.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸南側の石垣<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154239421.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸西側から本丸を<br />
<font size="2">ここから眺めると、往時は、本丸は総石垣であったのではと思われる。道を手前へ降りてくると、
鬼の架橋へと出る。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154240953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>鬼の架橋<br />
<font size="2">岩の後ろは強烈な崖。まさに絶壁！！それにしても、微妙なバランスだ。鬼の架橋とは、よく名付けたものだ。
架橋の下から、崖下を見下ろす眺望は恐怖さえ感じる。この辺りは、巨大な岩が、転がっていて、写真左には、更に大きな岩が一杯！！
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154241609.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080712T154243140.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>丹波制圧の為に明智光秀が波多野氏（八上城）と赤井氏（黒井城）の連携分断の為に築城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>丹波　八幡山城（丹波市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_704.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1134" title="丹波　八幡山城（丹波市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1134</id>
    
    <published>2008-07-11T13:46:13Z</published>
    <updated>2008-07-17T13:31:11Z</updated>
    
    <summary>2-20-410</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="42hyogo" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>明智光秀により氷上郡（黒井城）攻略の橋頭堡として築城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>兵庫県丹波市柏原町柏原</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：柏原八幡神社、山林<br />
遺構等：曲輪、堀切</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>１点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０７／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>八幡山城は、天正６年（１５７８）明智光秀によって築城された。<br />
織田信長より丹波平定の命を受けた光秀は、金山城を築いて拠点としていたが、氷上郡（<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>）
攻略の橋頭堡として柏原八幡社殿を壊し、ここに新しく築城した。<br />
翌年には平定が終わり、天正１０年（１５８２）、羽柴秀吉が当時の<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_703.html">黒井城</a>主である堀尾茂助吉晴に命じて社殿を再建させた。
</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>八幡山城跡の曲輪の一つである八幡神社へは、神社の麓の無料駐車場に車を置いて登ることができる。<br />
苔むして、何とも趣きのある石垣下の石段を登って行くと神社境内へと出る。社殿の裏に三重塔があり、その裏手に、
今は道路になってしまっているが、大きな堀切があり、その北側の主郭と分けられている。<br />
主郭の方は、かなりの藪だ。この後、金山城へ登城したかったし、時間もあまりないし諦めた。<br />
しかし、神社の山の周り全てが、強烈な急崖（切岸）になっており、天然の要害地に、更に大きく手を加えられているのがよく分かり、
とても臨時の城とは思えなかった。さすが光秀だ。<br />
（2008/07/06登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>八幡神社への参道<br />
<font size="2">八幡神社への石段の参道は、非常に趣のある苔むした石垣が</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T224536125.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>社殿と三重塔<br />
<font size="2">石段を登り切ると神社境内へと出る。社殿の裏に三重塔が建っている。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T224542796.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T224545578.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>堀切<br />
<font size="2">三重塔の裏手は強烈な切岸になっており、今は道路になってしまっているが、大きな堀切になっていて、
その北側の主郭と分けられている。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T224547031.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>明智光秀により氷上郡（黒井城）攻略の橋頭堡として築城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>丹波　黒井城（丹波市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_703.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1133" title="丹波　黒井城（丹波市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1133</id>
    
    <published>2008-07-11T07:01:25Z</published>
    <updated>2008-07-17T13:30:35Z</updated>
    
    <summary>2-20-200</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="42hyogo" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>赤井（荻野）氏により大改修された要害堅固な巨大城塞、明智光秀により落城</h3>
<h3>別名</h3>
<p>保筑城、保月城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>兵庫県丹波市春日町黒井（黒井小学校の裏山）<br />
黒井小学校：春日町黒井２２０５、電話０７９５－７４－００３５</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高３５６ｍ、比高差約２２０ｍ）</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：山林【国指定史跡】<br />
遺構等：曲輪、石垣、土塁、櫓台、空堀、堀切、石碑、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>８点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０７／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>黒井城は、南北朝時代の建武２年（１３３５）春日部荘を領した赤松貞範（則村の次男）が、
はじめて山頂に城を築いたことからその歴史が始まる。<br />
その後、約２００年間数代の城主を経て、戦国動乱最中の天文２３年（１５５４）、城主の荻野秋清を赤井悪右衛門直正が刺殺して、城主となり、
荻野姓を名乗った。直正の勢威の拡大とともに、全面的に大改修の手を加えたのが現在の黒井城跡である。<br />
山頂の本城部分には、荒々しい野面積みの石垣を積み上げ、これを囲んで中腹には三段曲輪・太鼓の段・石踏の段・西の丸・
東出丸などの曲輪を配して防禦を固めている。<br />
さらに枢要な尾筋には千丈寺・龍が鼻・的場・百間馬場などの砦跡があり、また山中のいたる所に曲輪跡・土塁・
堀切などの防禦施設が埋もれていて、周囲約１０ｋｍにおよぶ猪ノ口山系全体が巨大な城塞となっている。<br />
天正３年（１５７５）明智光秀が攻め込んできたが、直正は奮戦して撃退した。しかし、天正７年（１５７９）８月、
さしも堅固を誇った黒井城も、丹波平定を急ぐ明智光秀の大軍の前に落城した。<br />
その後、光秀の家臣・斉藤利三が入城し、豊臣期には堀尾吉晴が入城した。<br />
天正１２年（１５８４）頃に一時、荻野氏の残党が籠城し、家の復活を画策したが失敗し、この直後に廃城となった。<br />
『「現地説明板」、「別冊歴史読本・激闘！戦国武将３３０傑（新人物往来社刊）」、「織豊系城郭見どころ事典・織豊期城郭研究会編
（新人物往来社刊）」他より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>黒井小学校の後背に聳える猪ノ口山（興禅寺の裏山でもある）が黒井城址である。登城口に駐車場があり、
城址碑とほとんど消えかけた縄張略図の付いた説明板が設置されている。<br />
登り始めるとすぐ、山への入口に金網の門扉が・・・。野生動物の防護柵である。<br />
そこから、ひたすら登ること２０分ほどで、「石踏の段跡」に出る。ここは５段ほどの段曲輪のようになっており、最上段に楼門が建っている。
多くの方からの寄進により、昭和３４年に建てられたものらしいが、説明板の字が薄くて読めない。その奥に、赤井氏の招魂碑もたっている。
<br />
そこからは、１０分ほどで頂上付近へと出る。景色が一変し、空が広くなる。ここが東曲輪である。
正面には三の丸の石垣がしっかりと残っていて、嬉しくなると同時にほっとする。<br />
三の丸へ登ると、今度は二の丸の石垣が見える。二の丸下の帯曲輪からは、本丸にかけて石垣がかなり良好に残っているのが見える。
<br />
二の丸に登ると、本丸の石垣が見える。この広々とした光景も素晴らしい。本丸と二の丸間には浅くなってしまってはいるが、
堀切が切られている。<br />
本丸には「保月城趾」の石碑がたっている。また、周りを見渡すと３６０度のパノラマが楽しめる。以前登城して感激した<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_288.html">竹田城</a>址から見下ろす風景を思い出した。
石垣に関しては、さすがに<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_288.html">竹田城</a>には及ばないが、
眺望は決して負けていない。実に素晴らしい！！残念ながら、薄曇でもうひとつはっきりとしないとは言え、梅雨真っ只中で、これだけの眺望だ。
ラッキー！！<br />
本丸の奥には西曲輪がある。東曲輪からこの西曲輪までが、頂上部に連郭式に続く曲輪群跡であり、黒井城址の最大の見どころであろう。
<br />
しかし、黒井城はこれだけではない。他にも多くの砦や曲輪を持つ巨大城塞群であるが、３４度という蒸し暑いさなかである。また、今日は、
他に登城したい山城もあるし、とても廻る気力は残っていなかった。<br />
（2008/07/06登城して）</p>
<h3>ギャララー</h3>
<p>黒井城全体図<br />
<font size="2">黒井城は、周囲約１０ｋｍにおよぶ猪ノ口山系全体が巨大な城塞となっている。今回は、石踏の段を通り、
略図の中の「本城部分」のみ登城した。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160038953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>黒井城址遠景<br />
<font size="2">黒井小学校横の道から撮影。中央奥の山が黒井城本城部分。この道を真っ直ぐ進むと登城口の駐車場へと出る。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160046500.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>登城口駐車場<br />
<font size="3"><font size="2">登城口に駐車場（石碑の後ろ）があり、
城址碑とほとんど消えかけた縄張略図の付いた説明板が設置されている。また、保月城址登山口と書かれた白い大きな標柱がたっている。
写真右の方にも急な石段があり、そこからも登城できるようだが、標柱のところの道を真っ直ぐ登って行った。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160048562.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>野生動物の防護柵<br />
<font size="2">登り始めるとすぐ、山への入口に金網の門扉が・・・。猪の絵が描かれている。野生動物の防護柵だ。どうも、
こういうのは、今にも出そうで苦手だ。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160049406.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>石踏の段①<br />
<font size="2">ひたすら登ること２０分ほどで、「石踏の段跡」に出る。ここは５段ほどの段曲輪のようになっており、
最上段に楼門が建っている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160050218.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>石踏の段②<br />
<font size="2">楼門は、多くの方からの寄進により、昭和３４年に建てられたものらしいが、説明板の字が薄くて読めない。
その奥には、赤井氏の招魂碑もたっている。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160050921.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160051640.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font size="4">【本城】</font><br />
東曲輪<br />
<font size="2">石踏の段からは、１０分ほどで頂上付近へと出る。景色が一変し、空が広くなる。ここが東曲輪である。
正面には三の丸の石垣がしっかりと残っていて、嬉しくなると同時にほっとする。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160052328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>三の丸<br />
<font size="2">三の丸へ登ると、今度は二の丸の仕切り土塁石垣が見える。<br /></font><img alt=
""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160053078.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸から本丸にかけての西側の石垣<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160054156.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸<br />
<font size="2">二の丸に登ると、本丸の石垣が見える。この広々とした光景も素晴らしい。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160055328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸・二の丸間の堀切<br />
<font size="2">本丸と二の丸間には浅くなってしまってはいるが、堀切が切られている。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160056046.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸<br />
<font size="2">本丸（奥）北西隅の方には保月城趾（写真奥）の石碑がたっている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160057609.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸西側の虎口<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160059328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸からの眺望<br />
<font size="2">本丸からは、３６０度のパノラマが楽しめる。以前登城して感激した</font><a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_288.html"><font size="2">竹田城</font></a><font size="2">址から見下ろす風景を思い出した。
石垣に関しては、さすがに</font><a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_288.html"><font size="2">竹田城</font></a><font size="2">には及ばないが、
眺望は決して負けていない。実に素晴らしい！！残念ながら、薄曇で、もうひとつはっきりとしないとは言え、梅雨真っ只中で、
これだけの眺望だ。「ラッキー！！」だと思うしかないだろう。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160100093.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>西曲輪<font size="2">（本丸上から撮影）</font><br />
<font size="2">本丸の奥には西曲輪がある。東曲輪からこの西曲輪までが、頂上部に連郭式に続く曲輪群（本城）跡であり、
黒井城址の最大の見どころであろう。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160101281.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧西曲輪から本丸を、㊨本丸北西隅にたつ城趾碑<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160102703.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160103390.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸から二の丸・三の丸にかけて<font size="2">（西曲輪から撮影）</font><br />
<font size="2">㊧は、本城の東側を、㊨は西側を。本丸も含めて、西側には石垣がよく残っているが、東側には見当たらない。
草に埋もれているのか？、崩れてしまっているのか？或いは、元々無かったのであろうか？</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160104453.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080711T160105109.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>赤井（荻野）氏により大改修された要害堅固な巨大城塞、明智光秀により落城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>丹波　黒井下館（丹波市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/42hyogo/post_702.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1132" title="丹波　黒井下館（丹波市）" />
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    <published>2008-07-10T08:06:10Z</published>
    <updated>2008-07-17T13:29:28Z</updated>
    
    <summary>2-20-210</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="42hyogo" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>黒井城の下館、春日局生誕の地でもある</h3>
<h3>別名</h3>
<p>斉藤屋敷</p>
<h3>所在地</h3>
<p>兵庫県丹波市春日町黒井２２６３興禅寺<br />
興禅寺：電話０７９５－７４－００１９</p>
<h3>形状</h3>
<p>館</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：興禅寺【国指定史跡】<br />
遺構等：石垣、ねり塀、水堀（七間濠）、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>３点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０７／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>戦国時代、興禅寺一帯は、後背の山城・黒井城の下館であったが、天正７年（１５７９）８月、明智光秀の丹波攻めで落城した。
<br />
その戦後処理と西丹波一円の統治のために、光秀の重臣斉藤利三が入った。<br />
この年の暮、母お安との間に生まれたのがお福（後の春日局）である。<br />
『現地説明板より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>水堀と高石垣・白のねり塀、そして楼閣等の建物の景観は、まさに小型城郭そのもので、様になっている。<br />
（2008/07/06訪れて）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>興禅寺正門<font size="2">（門の前に春日局出生の地の石碑が）</font><font size=
"2"><br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T170551968.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>ねり塀と楼閣等<br />
<font size="2">実に豪華な建物群で、まさに城郭そのものと言った光景だ</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T170553750.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>興禅寺から後背の黒井城址を<br />
<font size="2">後ろの山から僅かに顔を出している高い山が黒井城址頂上部</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T170554437.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>黒井城の下館、春日局生誕の地でもある</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　田中城（高島市）</title>
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    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1131</id>
    
    <published>2008-07-10T04:52:03Z</published>
    <updated>2008-07-17T13:28:34Z</updated>
    
    <summary>5-80-110</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>織田信長が越前の朝倉氏攻めの途次に逗留した城</h3>
<h3>別名</h3>
<p>上寺城（うえでらじょう）</p>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県高島市安曇川（あどがわ）町田中</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城（標高２２１ｍ、比高差６０ｍ）</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：天守台、曲輪、土塁、空堀、竪堀、堀切、見張台、武者隠し、土橋、石碑、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>６点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０７／０５</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>田中城は泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端に築かれている。<br />
この地には、古代、山岳寺院・松蓋寺が建っていた。田中城は、戦国時代、その廃寺跡に、
近江佐々木一族の流れをくむ高島七頭の一つで田中郷領主であった田中氏により築かれたと思われる。<br />
『信長公記』によると、元亀元年（１５７０）４月、織田信長の軍勢が越前の朝倉義景攻略の途次、田中城に逗留したとあり、
この軍勢には豊臣秀吉、徳川家康もいた。<br />
その後、浅井長政の勢力下となったが、元亀４年（１５７３）、信長により攻略され、明智光秀の支配を受け終焉を迎えたが、
田中氏の流れをくむ田中吉政は秀吉、家康に相次いで仕えた。<br />
吉政は、天正１６年（１５８８）には<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_11.html">近江八幡山城</a>３万石を領した。
ついで<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_124.html">三河岡崎城</a>５万７千石をもらい、
隠居料として４万石を加え、豊臣家直料３万石の代官に任じられるなど厚遇された。<br />
関ヶ原合戦では、徳川方に与して、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/32gifu/post_135.html">岐阜城</a>を攻撃、
また<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_319.html">佐和山城</a>攻略にも参戦し、
石田三成を捕えた。<br />
戦後、その功績により<a href=
"http://castle.slowstandard.com/70kyusyu/71fukuoka/post_355.html">筑後柳川城</a>３２万石に封じられた。
<br />
『「現地説明板」、「別冊歴史読本。激闘！戦国武将３３０傑（新人物往来社刊）」他より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>城跡は整備され、順路案内板があったので、それに従って廻った。<br />
まずは、城址碑から右手へ進むと竹薮の中に屋敷跡の土塁が現れる。これがなかなか綺麗で結構絵になる。<br />
次に、階段を５分程登り、城内へと入って行くと、非常に多くの曲輪があり、段曲輪になっている。また、土塁、堀切、武者隠し等もあり、
下の方には怖くなるほど深い空堀もある。ただ、武者隠しは、案内板に「武者隠し」とあるが、「どう隠れるようになっていたのか」
は皆目見当がつかず、私には、ただの段曲輪にしか見えなかった（苦笑）。<br />
天守台跡西側下には空堀と土塁があり、天守台跡へは、その堀底道を登って行く。この空堀と土塁もなかなかのものだ。<br />
天守台跡からの眺望は南東方面だけが開けている。天守台北西側には土塁があり、「こんな大きな石、投げたら肩を壊すのでは？」
と思われるような「つぶて石」が残っている。<br />
田中城は、登城前に想定していたよりも大きな城郭で、遺構もよく残っていて見応え充分なのだが、縄張図なしでの登城だったので、
全体像が今ひとつ掴み切れなかった。<br />
（2008/07/05登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>田中城縄張略図（現地説明板より）<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135111968.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>①登城口<br />
<font size="2">城跡は整備され、順路案内板（写真右中央）がある。順路に従い、右へと・・・。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135122843.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>②屋敷跡・土塁<br />
<font size="2">竹薮の中に屋敷跡の土塁が現れるが、これがなかなか綺麗で結構絵になる。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135124312.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>③曲輪・土塁<br />
<font size="2">ここら辺りの曲輪が一番広いようで、しっかりした土塁も残っている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135128453.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>空堀<br />
<font size="2">上写真の曲輪下には何段もの段曲輪があり、その下には、写真では見辛いが、怖いほど深い大規模な空堀がある。
全くの人工的なものではなく、自然の谷を利用して掘ったものだろう。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135129125.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>④武者隠し<br />
<font size="2">写真中央やや左に「武者隠し」との案内板が設置されているが、、「どう隠れるようになっていたのか」
は皆目見当がつかない。私には、ただの段曲輪にしか見えなかった。</font><font size="3"><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135131328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>⑤堀切<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135133437.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>⑥観音堂への石段と⑦観音堂<br />
<font size="2">観音堂は、元亀３年（１５７２）
に織田信長の兵火によって焼失した高島七ヶ寺の一つ松蓋寺の一堂宇であるとのこと。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135134078.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135136765.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>⑧松蓋寺跡<br />
<font size="2">観音堂の一段上にほぼ方形の削平地があった。ほとんど消えかけたような字で「松蓋寺跡」と書かれた標柱
（写真中央やや左）が設置されていたが、城があった頃には、ここも重要な曲輪の一つであっただろう。</font><font size=
"3"><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135138609.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>⑨天守台跡西側の空堀（堀底道）と土塁を下から見上げる<br />
<font size="2">左側土塁の外側は絶壁になっている。写真右側土塁上が天守台跡である。天守台へは、この堀底道を登って行く。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135139359.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>⑨天守台跡西側の空堀（堀底道）と土塁を上から見下ろす<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135140015.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>⑩天守北西の土塁上の「つぶて石」<br />
<font size="2">「こんな大きな石を投げたら、肩を壊すのでは？！」と誰しも思いますよねえ！</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135142015.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>⑪天守跡<br />
<font size="2">天守台跡の北西部には３ｍほどの高さの土塁がある。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135143937.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>天守台跡からの南東方面の眺望<br />
<font size="2">天守台跡からは南東方面だけが開かれているが、あいにくの天候で、
町並みと田園風景がうっすらと見えるだけであった。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080710T135146484.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>織田信長が越前の朝倉氏攻めの途次に逗留した城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　宇佐山城（大津市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_700.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1130" title="近江　宇佐山城（大津市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1130</id>
    
    <published>2008-07-09T08:06:40Z</published>
    <updated>2008-07-17T13:27:43Z</updated>
    
    <summary>3-80-910</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>京と近江を結ぶ道路封鎖を目的に森可成によって築かれた山城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県大津市錦織（宇佐八幡社の裏山）</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高３３５ｍ）</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>５点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０７／０５</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>宇佐山城は、永禄１３年（１５７０）３月、織田信長が、京都と大津を結ぶ道路封鎖を目的として、森可成によって築かれた。
<br />
将軍足利義昭が信長包囲戦線の結成を呼びかけ、それに呼応して兵を挙げた朝倉義景とそれに同盟した浅井長政は、同年（元亀と改元、１５７０）
）６月２８日の「姉川の合戦」にて敗れたが、再起の機会を窺がっていた。<br />
その後、８月中頃、三好勢が義昭に呼応し、摂津に陣を構えた。また、石山本願寺の顕如も門徒に蜂起を呼び掛け、
伊勢長島で一向一揆が蜂起した。<br />
信長が、それらの制圧に力をとられている隙を突いて、浅井・朝倉連合軍が３万の大軍を率いて、同年（１５７０）９月１６日、
大津坂本口に打って出た。<br />
宇佐山城の織田信治・森可成らは、わずか千人足らずの手勢で城から打って出て、激しい戦闘の結果、信治・可成らは戦死した。浅井・
朝倉勢は宇佐山城まで攻め攻め登ったが、城兵はよく防戦して、落城は免れた。<br />
後に、明智光秀が一時守備したが、比叡山焼き討ち後の、元亀３年（１５７２）、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_550.html">坂本城</a>完成とともに廃城となった。
<br />
『「別冊歴史読本５・織田信長、天下布武への道（新人物往来社刊）」、「織豊系城郭見どころ事典・織豊期城郭研究会編（新人物往来社刊）」
他参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>宇佐八幡宮の裏山（宇佐山）に築かれた山城が宇佐山城である。<br />
宇佐八幡宮までは、結構急傾斜でデコボコの道ではあるが、車で登って行くことが出来る。<br />
登城口は、八幡宮の少し手前にある案内板の所から、山中へ入って行くが、最初は道らしき道がなく、不安になってくるが、
しばらく登って行くと、それなりに道らしき獣道へと出る。山頂の本丸へは、
要所要所の木々に結ばれたビニール紐を目印にひたすら登ること２０分ほどで到着。<br />
本丸跡は、ＮＨＫと民放のテレビアンテナの中継基地となっており、ほぼ全域を建物で占領されていて幻滅！！<br />
本丸の南側にも、一段低くなった、狭い削平地があるが、これが二の丸であろうか？ここもアンテナが占拠していて、またまたガクッ！！。
<br />
しかし、本丸下を、曲輪沿いに裏手へ回ると石垣が随所が残っている。特に、二の丸下東南から南側にかけての石垣は比較的良好に残っている。
この石垣が、この城の最大且つ唯一の見どころと言えるのかも・・・。<br />
（2008/07/05登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>登城口<br />
<font size="2">宇佐八幡宮の少し手前にある案内板の所から、山中へ入って行くが、写真のように案内の矢印がどうも微妙！
最初、写真左の道を登って行ったら、宇佐八幡宮の社殿へと出た。再度、戻って、右の山中へと入って行った。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170614187.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170615078.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>登城道①<br />
<font size="2">山中へ入ったものの、最初は写真のように道らしき道がなく、不安になってくる。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170615671.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>登城道②<br />
<font size="2">しばらく登って行くと、それなりに道らしき獣道へと出る。山頂の本丸までは、
要所要所の木々に結ばれたビニール紐を目印にひたすら登る。ビニール紐は、本当に要所にのみで、見落としやすいので要注意！
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170616421.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170618468.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧本丸への階段、㊨本丸跡はテレビアンテナの中継基地<br />
<font size="2">㊧登城口からひたすら登ること約２０分。本丸への階段へと出る。階段下を左へ廻ると石垣の所へ出る。
㊨本丸跡は、ＮＨＫと民放のテレビアンテナの中継基地となっており、ほぼ全域を建物で占領されていて幻滅！！<br /></font>
<font size="3"><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170619156.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170620234.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>二の丸？<br />
<font size="2">本丸の南側にも、一段低くなった、狭い削平地があるが、これが二の丸であろうか？
ここもアンテナが占拠していて、またまたガクッ！！。左側に写る土塁下には浅いものの、堀切のように少し窪みがある。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170622796.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸東南下に残る石垣<br />
<font size="2">本丸への階段を降り、曲輪沿いに裏手へ回ると石垣が随所が残っている。特に、
二の丸下東南から南側にかけての石垣は比較的良好に残っている。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170623484.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸南下に残る石垣<br />
<font size="2">この石垣が、この城の「最大」且つ「唯一」の見どころと言えるのかも・・・。<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080709T170624328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>]]>
        <![CDATA[<p>京と近江を結ぶ道路封鎖を目的に森可成によって築かれた山城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>相模　小田原城（小田原市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_59.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=97" title="相模　小田原城（小田原市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2005://2.97</id>
    
    <published>2008-06-29T09:46:08Z</published>
    <updated>2008-06-29T09:55:59Z</updated>
    
    <summary>2-70-100</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="12kanagawa" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>戦国史上最大の城域面積を誇る巨大城郭</h3>
<h3>別名</h3>
<p>小峯城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>神奈川県小田原市城内ほか</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現況；小田原城址公園、市街地他<br />
遺構等：【近世】復元天守、復元銅門、復元常磐木門、水堀<br />
　　　　　【中世】空堀総構え（そうがまえ）の一部：大堀切、土塁、郭跡他</p>
<p><strong>【国指定史跡】</strong><br />
指定日：昭和１３年８月８日、追加指定：昭和３４年５月２９日、５２年５月４日<br />
指定理由：中世最大の城郭であり江戸時代の縄張りとともにその遺構がよく残っており貴重<br />
面積：２２万８９２㎡<br />
資料館：小田原城天守閣の中に関係資料を展示</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>７点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>１９９２／０６／２５<br />
２００４／０６／３０<br />
２００８／０６／２５</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した１５世紀中頃のことと考えられている。<br />
１５世紀末の延徳３年（１４９１、諸説あり）、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_105.html">駿河興国寺城</a>主の北条早雲
（伊勢新九郎長氏）は、伊豆国内の内紛に乗じて<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_111.html">堀越公方館</a>の足利茶々丸を攻め滅ぼした。
その後、諸豪族を従え、伊豆一国を手中に収め、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_100.html">伊豆韮山城</a>を拠点とした。
<br />
次に早雲は相模をターゲットにしたが、相模には名将の誉れ高い大森氏頼が難攻不落の小田原城に拠っており、
さすがの早雲も手をこまねいていた。<br />
しかし、明応３年（１４９４）８月、氏頼が病没し、氏頼の子藤頼が跡を継いだ。藤頼は父氏頼と較べると凡将で早雲にはくみしやすかった。
そして、明応４年（１４９５）､早雲は、鹿狩りと称して、ひそかに箱根山中に兵をしのばせて、
小田原城に夜襲をかけ城を乗っ取ることに成功した。<br />
以後、小田原城は相模全土掌握の為の有力な橋頭堡となり、のちには後北条氏の関東制覇のための一大根拠地として機能する。
早雲は韮山城から動かなかったが、早雲の子氏綱は小田原城を本拠とし、氏綱-氏康-氏政と後北条氏は版図を広げ、
ついには関八州の覇者となった。<br />
その間、小田原城は拡張を続け、ついには城下町全体を内部に持ち、総郭に囲まれる日本城郭史にも類例のない大城郭都市へと変貌していった。
上杉謙信も武田信玄もこの城を攻めあぐね、撤退を余儀なくさせられている。まさしく難攻不落の堅城であり、この城さえあれば、
怖いものなしであった。その過信が秀吉をあなどり、２０万の大軍を引き寄せることになる。<br />
天正１８年（１５９０）豊臣秀吉率いる大軍が押し寄せたときには、小田原城は日本史上最大規模の面積を持つ巨城となり、
その頃の外郭線は総延長１２ｋｍともいわれる。<br />
秀吉は、小田原城を攻めるにあたって、３ｋｍほど東南の石垣山の山上に密かに城を築き、完成したところで木を切り払った。
小田原側から見れば、一夜にして城が出現したかのようで北条方は我が目を疑うことになる。いわゆる「<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_58.html">石垣山一夜城</a>」
である。<br />
ここを拠点に悠然と腰を据えた秀吉はすでに北条氏の想像をはるかに超えた存在であった。結局、長い籠城と小田原評定の末、
後北条氏は５代氏直をもって滅亡する。<br />
徳川家康が関東に入ると、三河以来の譜代の家臣大久保忠世を小田原城主とする。江戸時代に入ると、大久保氏はいったん改易されるが、阿部、
稲葉という譜代の重臣を経て、再び大久保氏が１０万石で再封され、明治維新に至った。<br />
この間、後北条氏時代の壮大な総郭は、幕府を不安にさせると見えて、破壊され、城の規模は三の丸以内に縮小された。<br />
明治３年（１８７０）に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正１２年（１９２３）
の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまった。<br />
昭和３５年（１９６０）に天守閣が復元、次いで昭和４６年（１９７１）には常盤木門、平成９年（１９９７）には銅門が復元された。
<br />
『「日本百名城・中山良昭著（朝日文庫刊）」、「日本の名城・古城もの知り事典（主婦と生活社刊）」、「小田原城内パンフレット・
小田原城関係略年表）」他参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>小田原城は、江戸時代の「近世小田原城」とそこをも含む後北条氏の巨大城郭都市「中世小田原城址」が混在している。<br />
近世小田原城は、天守閣・櫓門（常磐木門・銅門）、平櫓が復元され、今も馬出門枡形の整備工事の最中で（2008/06/25現在）、
江戸時代の姿が蘇りつつある。<br />
近世小田原城も悪くはないが、小田原城といえば、やはり後北条氏の中世小田原城であろう。中世小田原城の本丸は、東海道線や新幹線を挟んで、
近世小田原城の反対側の八幡山にある。<br />
ほとんどが破壊され、市街地の中にに埋没してしまっているとはいえ、所々に遺構が残り、
中でも小峯御鐘ノ台周辺の大堀切と土塁は実に見応えがある。その深さたるや、土塁上から１２ｍもあるというから恐れ入る。
よくぞ残っていてくれたものだ。<br />
このような土塁と空堀が城郭（城下町）の周囲をめぐっていたんだと想像するだけで嬉しくなってくると同時に、
関東の覇者後北条氏の実力を思い知らされた。<br />
（1992/6/25、2008/06/25登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p><font color="#FFFF00">【近世小田原城】</font><br />
小田原城址公園案内図　　　　　　　～クリックにて拡大画面に～<br />
<font size="2">現在の城址公園は、ほぼ本丸、二の丸である。かつては大手門から三の丸に入り、さらに馬出曲輪に入り、
銅門を経て二の丸に、さらに常盤木門から本丸に入った。</font><br />
<a href=
"http://Castle.slowstandard.com/photos/main_pic/odawara-ezudai.jpg">
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183008109.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></a></p>
<p>馬出門枡形復元イメージ図（現地工事案内板より）　２００８／０６／２５<br />
<font size="2">小田原市では、「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」を定め、
江戸時代の曲輪の配置を明確にすることを目標に、小田原城の整備を進めている。この整備事業の一環として、
馬出門一帯の復元工事を行っている。馬出門が復元されると、住吉橋・銅（あかがね）門と合わせて、この一帯に江戸時代の姿が蘇る。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183011000.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>御茶壷曲輪<br />
<font size="2">御茶壷曲輪は南と西側を土塁に囲まれている。写真奥は銅門。<br /></font><img alt=
""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183011718.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>銅（あかがね）門　～平成９年復元～<br />
<font size="2">二の丸の正門にあたる。渡櫓門と内仕切門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持つ。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183012406.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>銅門枡形内から渡櫓門を<br />
<font size="2">渡櫓門は、その名の由来となった銅板の装飾が映える。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183013156.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸東堀<br />
<font size="2">本丸東堀跡は菖蒲園になっている。また、土塁斜面一面には紫陽花が。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183013921.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>常盤木門を本丸東堀手前（東側）から<br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183016171.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>常盤木門　～昭和４６年復興～<br />
<font size="2">本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていた。周囲の多聞櫓と渡櫓を配した枡形門の構造を持ち、
傍にある巨松になぞらえてその名が付けられたという。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183016921.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>天守閣<br />
<font size="2">江戸時代に造られた雛形や引き図を基に、大久保氏時代の三層四階の天守閣が昭和３５年に復興した。尚、
天守は後北条氏時代の二重のものが、寛永１０年（１６３３）に地震で倒壊したので、三重にして再建されたが、これも元禄１６年（１７０３）
の地震で炎上した。３度目の天守は、明治維新まで残ったが、明治３年（１８７０）に取り壊された。江戸城でさえ、
２度目の焼失後は再建されなかったのに、２度も再建された天守は珍しい。東海道を見張る物見としての役目が重視され、
特別に許されたのであろう。「日本百名城・中山良昭著（朝日文庫刊）参照」<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183017781.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>天守閣上から石垣山を<br />
<font size="2">こんなすぐ目の前の山上に、総石垣の城郭が突然現れたら、誰しも驚くよねえ。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183018578.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /><br />
<br />
<br />
<font color="#FFFF00">【中世小田原城】</font><br />
<font size="2">近世小田原城も悪くはないが、小田原城といえば、やはり後北条氏の中世小田原城であろう。
中世小田原城の本丸は、東海道線や新幹線を挟んで、近世小田原城の反対側の八幡山にある。<br /></font>八幡山
（後北条氏時代の本丸）<br />
<font size="2">右正面の山。こちらより、急崖で堅固な感じがするね。それにしても、
小田原も随分山の上まで家や学校が建っているよねえ。若いとはいえ、毎日の通学は大変そうだ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183020140.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>小田原駅前（新幹線口）の北条早雲像<br />
<font size="2">小田原城と言えば「北条氏」、「北条氏」と言えば、やっぱり、箱根を越えてやって来たこの人「北条早雲」
でしょう。</font><br />
<img alt="北条早雲像"
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060617T161804015.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>八幡曲輪跡<br />
<font size="2">小田原駅（新幹線側）の近くにある「城山中学校入口信号」のところに、この「八幡曲輪碑」がたっている。
近世では「八幡曲輪」と呼ばれた武家屋敷地で、東西に延びる坂道には中堅武士の屋敷があった。後北条氏時代には、
この上の城山が中核であった。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183020781.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183021531.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>小峯御鐘ノ台周辺の遺構の図　　～クリックにて拡大画面に～<br />
<font size="2">ほとんどが破壊され、市街地の中にに埋没してしまっているとはいえ、所々に遺構が残り、中でも
「小峯御鐘ノ台の大堀切と土塁」は実に見応えがある。小峯御鐘ノ台大堀切は、東堀と、現在道路になっている中堀、そして、
その西側にある西堀の３本の堀切全体の名称である。この堀切は、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断し、敵の攻撃を防御したもので、
後北条氏時代末期に構築されたもので、小田原城の西側を防衛する最も重要な場所であったと考えられる。<br /></font>
<a href=
"http://Castle.slowstandard.com/photos/main_pic/odawara-komineezudai.jpg">
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183022328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></a></p>
<p>小峯御鐘ノ台大堀切東堀の土塁①<br />
<font size="2">このような大規模な土塁と空堀が城郭（城下町）の周囲をめぐっていたんだと想像するだけで嬉しくなってきて、
ついつい何枚も写真を撮ってしまった、それらの何枚かを紹介。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183023078.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>小峯御鐘ノ台大堀切東堀の土塁②<br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183024281.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>小峯御鐘ノ台大堀切東堀①<br />
<font size="2">この見事な大堀切。ついつい見とれてしまった。この東堀は、幅が約２０～３０ｍ、
深さは土塁の頂上から約１２ｍ、堀の法面は５０度という急勾配だというから恐れ入る。空堀としては全国的にも最大規模のものといえる。
発掘調査によれば、障子堀や土橋状の掘り残し部分のほか、横矢が設けられていることが確認されたとのことである。まさに、「北条氏の城だ」
と嬉しくなってくる。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183025078.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>小峯御鐘ノ台大堀切東堀②<br />
<font size="2">これだけの見事な大堀切が残っているとは想像だにしていなかった。この写真は、
堀底近くから撮ったものであるが、「素晴らしい」と勝手に満足！！</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183025843.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>小峯御鐘ノ台大堀切東堀③<br />
<font size="2">この折りのある土塁と空堀も見応え充分だ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080629T183026546.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>戦国史上最大の城域面積を誇る巨大城郭</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>相模　石垣山城（小田原市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_58.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=96" title="相模　石垣山城（小田原市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2005://2.96</id>
    
    <published>2008-06-27T13:25:47Z</published>
    <updated>2008-06-27T13:26:07Z</updated>
    
    <summary>2-70-200</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="12kanagawa" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>小田原城攻略のために築かれた天下人・秀吉の巨大山城</h3>
<h3>別名</h3>
<p>石垣山一夜城、太閤一夜城、笠懸山城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>神奈川県小田原市早川</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（陣城）<br />
標高２６１．５ｍ、比高２２７ｍ（小田原城本丸から）</p>
<h3>現況・遺構</h3>
<p>現状：国指定史跡、一夜城歴史公園（山林）<br />
遺構等：天守台、曲輪、土塁、石垣、空堀、井戸跡、門跡、石碑、説明板</p>
<p><strong>【国指定史跡】</strong><br />
指定日：昭和３４年５月１３日<br />
指定理由：天正１８年の小田原戦役当時の形態の大半が残っており、桃山時代初期の石垣の城として重要<br />
面積：５万２，１９６㎡<br />
資料館：なし</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>９点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００２／０３／１０<br />
２００８／０６／２５</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>九州平定を終えた豊臣秀吉は天正１７年（１５８９）北条氏討伐を決定し、翌天正１８年（１５９０）３月１日、
大軍を動員して京都を発った。３月２９日には北条方の箱根の押さえである<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_116.html">山中城</a>をわずか２時間ほどの攻防で落城させ、
難なく箱根を越えることが出来た。４月６日には箱根湯本に達し、湯本早雲寺に当座の本陣を置き、
翌日には２２万の兵力を持って北条氏の居城<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_59.html">小田原城</a>を取り囲んだ。
同時に、この頃から笠懸山に石垣山城の築城を開始し、諸大名から石工の穴太衆（あのうしゅう）を出させるなどして普請を進め、
同年６月２６日には城が一応完成し、秀吉は本陣を石垣山城に移した。秀吉は、完成と同時に一夜のうちに周囲の山林を切り払ったため、
北条方からは一夜のうちに城が出現したように見えて､一夜城とも呼ばれる由来になった。その城は関東で初めての総石垣で、天守閣・本丸・
二の丸をも備えた城で、聚楽第や<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/41oosaka/post_163.html">大阪城</a>に匹敵するものであった。
<br />
秀吉は、この城に滞在していた１００日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せた。また、
自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうように勧めたと云われている。<br />
また、この城は関東で最初に造られた石垣の城である。<br />
この城の出現によって士気の下がった北条氏は７月５日に当主北条氏直が降伏して戦いに幕を閉じた。石垣山城は、
徳川家康の家臣で<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_59.html">小田原城主</a>となった大久保忠世の手に渡ったが、
 <a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_59.html">小田原</a>落城後、
陣城としての役割は終わり、廃城となった。<br />
しかし､城跡は江戸時代を通じて小田原藩の管理下に置かれ保存されていたが関東大震災により石垣の大部分が崩壊した。<br />
『参考：「日本の名城・古城もの知り辞典（主婦と生活社刊）」、「日本の史跡７近世近代(同朋社刊）」』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>一夜城なんてとんでもない。大変な規模の本格的な城で､同じく陣城の<a href=
"http://castle.slowstandard.com/70kyusyu/72saga/post_233.html">名護屋城</a>と同様､
秀吉の派手好みでスケールの大きさと酔狂をつくづく感じる。<br />
いたる所に築かれた石垣とそこらじゅうに散乱している石や本丸・二の丸・西曲輪・南曲輪など非常に広い曲輪跡等々が､
往時の大規模な城の情景を、まざまざと思い浮かばせてくれる。最初から一夜城ではなく､本格的な城跡を見に来たつもりでも､
そのスケールの大きさには驚く。<br />
この城址の最大の見所は、何と言っても全山に張り巡らされた石垣であろう。<br />
南曲輪下から西曲輪下にかけて長く続く石垣は、かなり崩れ落ちてはいるが、どちらの石垣もかなりの高さをほこり、充分見応えがある。本丸下
（二の丸側）の高石垣も、やはりかなり崩れてはいるが見事なものである。<br />
中でも印象的なのは井戸曲輪の石垣である。こんな大掛かりな井戸曲輪跡や井戸石垣は、他には類を見ないであろう。<br />
また、南曲輪へと向かう道は、崩れた石垣の石がごろごろ転がっていて、まさに「滅びの美」を堪能できる。この城址を見て廻るなら、
綺麗に整備された遊歩道を登るのではなく、途中説明板のある前を左折して、本来の城道である南曲輪経由での登城をお薦めする。<br />
（2002/03/10、2008/06/25登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張略図<br />
<font size="2">城の縄張は、南北に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、
南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されている。この他、
本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群がある。現在、遺構が確認できる範囲は、出城から北曲輪までで、南北の延長は約５５０ｍ、
東西の最大幅は２７５ｍある。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221108265.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（東）登城口<br />
<font size="2">城道は、この南曲輪から本丸本丸へ至る東口ルート（右の遊歩道を少し登った所の説明板前を左折）
と井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートの２筋があった（上の略図参照）。写真左奥の石垣は南曲輪の石垣。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221112328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南曲輪下の石垣<br />
<font size="2">駐車場のすぐ前に見えるこの南曲輪下の石垣は、かなり崩れ落ちてはいるものの、角も何とか残り見応え充分だ。
角は、まだ算木積みではなかったようだ。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221113046.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南曲輪下から西曲輪下に続く石垣<br />
<font size="2">上写真の南曲輪角の石垣から長～く続く西曲輪下の石垣は実に見応えがある。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221114421.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南曲輪への道<br />
<font size="2">南曲輪へと向かう道は、崩れた石垣の石がごろごろ転がっていて、まさに「滅びの美」を堪能できる。
石垣山城址を見て廻るなら、綺麗に整備された遊歩道を登るのではなく、この本来の城道である南曲輪経由での登城をお薦めする。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221115562.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南曲輪<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221116671.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南曲輪から本丸方面及び西曲輪方面への道<br />
<font size="2">突き当たりを右へ行くと本丸方面、左へ行くと西の丸へ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221118281.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>西曲輪<br />
<font size="2">西曲輪は、かなりの広さである。正面のこんもりした丘（森）の上が天守台で、
その下には崩れた天守台石垣が転がっている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221119234.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸<br />
<font size="2">本丸は、非常にひろい。写真奥が天守台。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221119937.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸物見台から眼下の小田原城を<br />
<font size="2">前年ながら、梅雨の合間の晴れとは言いながらも、靄がひどく眺望はもう一つ。それでも小田原城へは、
わずか３ｋｍ、ズームアップすろと何とか写った。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221120796.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>天守台<br />
<font size="2">本丸よりやや高いだけで、天守台上に来てみると何てことはない。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221121546.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸枡形鍵折れの虎口門跡<br />
<font size="2">枡形虎口をいくつも造る城郭構造は、まさに秀吉の特徴である。他にも一杯あったが、これでも、
ここが最も良好に？残っている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221122375.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸下（二の丸側）の石垣<br />
<font size="2">本丸下（二の丸側）の高石垣も、やはりかなり崩れてはいるが見事なものである。
関東大震災の前に登城してみたかった！！</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221123140.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸<br />
<font size="2">二の丸は、非常に広く、今は芝生が敷かれ、市民（ファミリー）達の憩いの広場になっている、
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221123750.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸から本丸を<br />
<font size="2">二の丸から本丸を仰ぎ見ると、この城が如何に大規模で本格的な城であったかを実感する。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221125140.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸の櫓台跡<br />
<font size="2">二の丸北側の方に櫓台跡が。この裏側に井戸曲輪への道（もう一つの城道）がある。
<br /></font> <img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221126640.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸最北の展望台から小田原城を<br />
<font size="2">二の丸の北端に展望台がある。ここからも眼下に小田原城がよく見えた。ようするに、
城のほとんどの所から見下ろすことが出来たということだね。北条氏もガックリくるわなあ！</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221127750.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧井戸曲輪、㊨井戸跡<br />
<font size="2">井戸曲輪の石垣は実にインパクトがある。こんな大掛かりな井戸曲輪跡や井戸石垣に出会ったことは、
他には未だにない。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221128359.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T221129421.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>小田原城攻略のために築かれた天下人・秀吉の巨大山城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>武蔵　伝源経基館（鴻巣市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/10kanto/13saitama/post_699.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1129" title="武蔵　伝源経基館（鴻巣市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1129</id>
    
    <published>2008-06-27T07:52:54Z</published>
    <updated>2008-06-27T08:04:01Z</updated>
    
    <summary>1-10-700</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="13saitama" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>清和源氏の始祖源経基の営所跡とされる</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>埼玉県鴻巣市大間、鴻巣高校グラウンドの南西に隣接<br />
鴻巣高校：大間１０２０、電話０４８－５４１－０２３４</p>
<h3>形状</h3>
<p>館</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：県指定史跡<br />
遺構等：曲輪、土塁、堀、石碑、標柱</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>４点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０６／２４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>源経基は１０世紀前半に、武蔵国介として中央から赴任してきた。天慶２年（９３９）、経基が上司の武蔵国権守・
興世王と足立郡に巡検に入るときに、郡司武蔵武芝と紛争が起き、興世王は周辺の財物や収穫物を没収した。<br />
これを伝え聞いた平将門は、この紛争の調停者として武蔵国へ進出した。将門の武力を警戒した経基は、比企郡狭服山に籠ったが、
興世王は将門の調停に応じることになった。<br />
しかし、武芝の手勢の一部が経基の営所を囲み、圧力をかけるという不測の事態が発生し、調停は失敗した。このとき経基は、将門・
武芝軍が攻撃してきたと誤解し、営所を脱出、京都へ帰り、将門に謀反の企みありと調停に訴えた。<br />
その後、国司と在地土着勢力との騒乱は小康状態を保つが、
新たに着任した正任の武蔵国守百済王貞連と権守興世王とのいさかいに平将門が関係し、やがて将門の国家（国司）
への反逆は関東全域に広がっていく。<br />
やがて、経基は、将門追討の副将軍となり、武略に長じるようになり、清和源氏の始祖にふさわしい武将となった。<br />
経基の騒動の舞台となった「比企郡狭服山」、「営所」の位置については諸説があり、はっきりしないが、これを此処に比定する説があり、
名称が「伝源経基館跡」となっている。。<br />
『中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館編（さきたま出版会刊）より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>伝源経基館は、台地の緩斜面にあり、東西約９５ｍ、南北約８５ｍのほぼ方形の館である。<br />
曲輪の３方（東南北）は堀と土塁で囲まれている。<br />
東辺の両隅は、堀と土塁に折りがあり、館の防御効果を高める形式になっている。北西隅の土塁は幅広で一段高く物見台風となっており、
この土塁上に「六孫王経基城址」その石碑がたっている。<br />
西側は落差をもって、水田となっている低地に続いているが、この辺りは後世になって破壊されたのであろうか？
水田が往時は沼地であったとしてもあまりにも高低差が少なく、防御が弱いように感じるけど！？<br />
登城前には失礼だが、全く期待していなかったのに、まさか全体がこれだけ良好に残っているとは・・・（嬉）。<br />
でも、私の個人的勝手な感想ですが、「経基って、清和源氏の始祖とは言いながらも、平将門との確執を思うと、嫌な奴ですね！？」
<br />
（2008/06/24登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>南側の堀と土塁<br />
<font size="2">伝源経基館跡は鴻巣高校グラウンドの南西に隣接している。この館跡の南東隅に駐車スペース（写真手前左側）
があり３～４台ほど置ける。右側の土塁が南東隅の土塁で、左側が南側堀跡で、奥の方の途中まで残っている。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165222109.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南東隅<br />
<font size="2">南側（上写真左側）から撮ったもの。左土塁は南東隅の土塁で、折れが入っているのが分かる。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165225750.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南東隅土塁と標柱<br />
<font size="2">正面の南東隅</font><font size="2">土塁奥が曲輪跡。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165226390.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>東側の堀と土塁<br />
<font size="2">左側土塁上が曲輪。右側は鴻巣高校グラウンド。堀の中を散策して進むことが出来る。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165228140.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>北東隅<br />
<font size="2">北東隅は南東隅よりも折れがよく入り、防御上の工夫が見られる。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165230203.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>曲輪北側の土塁<br />
<font size="2">土塁の上から撮ったもの。写真奥が西側で、物見台風の高くて、幅広くい土塁になっている。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165231093.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧北西隅の土塁、㊨石碑<br />
<font size="2">北西隅の土塁は、幅広で、一段高く物見台風となっており、この土塁上に「六孫王経基城址」
その石碑がたっている。逆光で撮りにくかった。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165231953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165232578.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>曲輪跡<br />
<font size="2">伝源経基館は、東西約９５ｍ、南北約８５ｍのほぼ方形の館である。曲輪の３方（東南北）
は堀と土塁で囲まれている。尚、土塁の高さや幅は、一定ではなく、所々高くて幅広い所がある。北西隅だけでなく、
いくつか櫓が建っていたのであろうか？<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165233187.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>曲輪西側<br />
<font size="2">西側は落差をもって、水田となっている低地に続いているが、この辺りは後世になって破壊されたのであろうか？
水田が往時は沼地であったとしてもあまりにも高低差が少なく、防御が弱いように感じるけど！？<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T165235593.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>清和源氏の始祖源経基の営所跡とされる</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>武蔵　小代氏館（東松山市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/10kanto/13saitama/post_698.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1128" title="武蔵　小代氏館（東松山市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1128</id>
    
    <published>2008-06-27T06:36:08Z</published>
    <updated>2008-06-27T07:59:27Z</updated>
    
    <summary>1-57-190</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="13saitama" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>武蔵七党・児玉党の小代氏の館</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>埼玉県東松山市大字正代、青蓮寺周辺<br />
青蓮寺：正代８５１、電話０４９３－３５－０３７５</p>
<h3>形状</h3>
<p>館</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：青蓮寺<br />
遺構等：銘板石塔婆、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>０点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０６／２４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>小代（しょうだい）氏は、武蔵七党の児玉党の入西遠弘が、小代郷に居住して小代を名乗ったことに始まる。<br />
遠弘の子行平は、源義経に従い木曽義仲勢を京都から追放し、さらに一ノ谷合戦、奥州合戦などでも功績をあげ、建久元年（１１９０）
の頼朝上洛の際には随兵を勤めるほどの武士であった。<br />
行平は、建仁３年（１２０３）の比企氏の乱で北条時政邸の防衛にあたった功績により、越後青木郷・中河保、
安芸壬生荘の地頭職を与えられるなど。武蔵国以外にも所領を広げている。<br />
その後、行平は、甥の俊平を養子に迎え、本領小代郷を俊平に譲り渡した。<br />
小代重俊は俊平の子である。重俊は、子の重康の宝治合戦（三浦氏の謀反）における勲功により、肥後野原荘（荒尾市）の地頭に補任された。
しかし、重俊はその地は地頭代に任せ、本領小代郷にとどまり続けていた。<br />
文永８年（１２７１）、蒙古襲来に備えるため、また、領内の争いを治めるため、幕府より、重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、
小代氏一族は野原荘へ移り住んだ。<br />
小代氏は、その後三百数十年にわたり、その地で勢力を誇った。<br />
『「現地説明板」、「中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館編（さきたま出版会刊）」より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>青蓮寺周辺が小代氏の館跡で、寺の周囲に土塁や堀が残っているとされる。廻って見たが、境内に案内板や銘板石塔婆があるだけで、
遺構らしきものは見当たらなかった。<br />
ただ、寺は高台にあり、裏側は絶壁になっており、いかにも領主の館にふさわしい場所ではあるかも。<br />
（2008/06/24訪れて）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>弘安四年銘板石塔婆<br />
<font size="2">弘安４年（１２８１）７月１日銘の板碑で、高さ２ｍを越す。これは、小代重俊の人徳を慕い、
供養のために一族が建立したとされる。また、弘安４年は蒙古の再襲来を受けた年であり、先祖の供養と合わせて一族の武運長久を願って、
小代に残った庶子家の小代一族によって建立されたと考えられる。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T153554046.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080627T153555359.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　</p>]]>
        <![CDATA[<p>武蔵七党・児玉党の小代氏の館</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>武蔵　伝足利基氏館（東松山市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/10kanto/13saitama/post_697.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1127" title="武蔵　伝足利基氏館（東松山市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2008://2.1127</id>
    
    <published>2008-06-26T14:22:55Z</published>
    <updated>2008-06-26T17:07:43Z</updated>
    
    <summary>1-57-160</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="13saitama" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>初代鎌倉公方足利基氏が岩殿山合戦で本陣を置いたとされる館</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>埼玉県東松山市大字岩殿（高坂ＣＣの西側）</p>
<h3>形状</h3>
<p>館</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現状：山林、宅地他<br />
遺構等：曲輪、土塁、堀、標柱、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>３点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００８／０６／２４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>足利基氏は、室町幕府が関東を支配するための出先機関として開いた鎌倉府最初の公方で、足利尊氏の次男である。<br />
基氏は、支配権を次第に高め、その権力を背景に畠山国清を討ち、基氏の幼少時代から執事をしていた上杉憲顕を関東管領にし、
越後守護職に任命した。それにともない、越後守護職を追われた下野の豪族芳賀禅可は、一族の宇都宮氏綱と謀って、上杉憲顕と敵対した。
<br />
芳賀氏討伐に鎌倉を出た足利基氏は、貞治２年・天平１８年（１３６３）に岩殿山で合戦を行い勝利した。この時に布陣したのが、この場所で、
本陣が置かれた可能性が高いと言われている。<br />
しかし、基氏は長期の滞在はせず、すぐに下野に陣を進めている。そのため、この館は合戦の時に基氏が築いたものでなく、
地元豪族が造った館を陣地として利用したものと思われる。<br />
一方、この館は丘陵西斜面に築かれ、東西１８０ｍ、南北８０ｍもの規模を有し、稜線に大規模な土塁と空堀を築き、
さらに丘陵を横切るように土塁・空堀を配置する平面長方形の館に属するもので、土塁は上幅３～４ｍ、高さ２～３ｍ、空堀は上幅１０ｍ、
深さ２～３ｍの箱薬研堀となった大規模なものであり、岩殿山合戦が行われた時代の１４世紀後半は、
小規模な堀に囲まれた方形館の存在が知られるのみで、このような大規模な土塁・
空堀で囲まれた城郭が出現するのは１５世紀に入ってからと考えられていることもあり、この城郭の位置付けはできないとする説もある。
<br />
『「現地説明板」、「中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館編（さきたま出版会刊）」参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>「伝足利基氏館」は、高坂ＣＣの西斜面にある。東武東上線高坂駅から岩殿方面へ真っ直ぐに伸びた道を西進すると、バス停
「こども自然動物公園」の４００ｍほど手前右側上に「足利基氏館」の案内板が見えるので、そこを右折し５００ｍほど行くと、右側に
「足利基氏の塁跡」の標柱が現れる。<br />
道が狭いので、さらに２～３００ｍほど行った所に、坂上田村麻呂の伝説が残る「弁天池（鳴かずの池）」があり、その前に空地があるので、
そこに駐車するとよい。<br />
登城前は、遺構はほとんど残っていないものと全く期待していなかったが、土塁や空堀の遺構がよく残り、
また高坂ＣＣの西斜面には削平地になった曲輪跡のような雰囲気の林もあり、何か得したような気がした。<br />
それにしても高坂ＣＣといえば、今までに１０回以上プレーしたことがあるが、この館跡がこんな近くにあるとは、全然知らなかったなあ！？
<br />
（2008/06/24登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>基氏館跡実測図<br />
<font size="2">館は丘陵西斜面に築かれ、東西１８０ｍ、南北８０ｍもの規模を有し、稜線に大規模な土塁と空堀を築き、
さらに丘陵を横切るように土塁・空堀を配置する平面長方形の館に属するもので、土塁は上幅３～４ｍ、高さ２～３ｍ、空堀は上幅１０ｍ、
深さ２～３ｍの箱薬研堀となった大規模なものである。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232237453.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>基氏館東側の空堀跡<br />
<font size="2">高坂の方から来ると、最初に<font size="3">「足利基氏の塁跡」
と書かれた標柱の立つこの</font>堀跡へと出る。堀の左側を奥へ進むと左側に説明板が設置されている。説明板の図からみると、
正面奥の少し高くなった所が物見台であろうか？</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232239625.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>物見台？<br />
<font size="2">説明板の図からいくと、写真奥の高くなった所が物見台ということになるが、
そこには池のように少し水が溜まっていたが、どうなんだろう？？</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232240359.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>基氏館西側の土塁<br />
<font size="2">東側堀跡から西へ１５０ｍほど行くと、一軒の家の、この土塁に出会った。家の方がいたので尋ねると、
この土塁が奥の森の中へと繋がる土塁跡とのことだった。こんなに、良好な形で残っているとは思ってもいなかったので得した気分になった。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232240953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>基氏館西側の土塁と空堀<br />
<font size="2">上写真の土塁外側（西側）から撮影したもので、土塁の外側（左）は空堀跡で、土塁・空堀共に、
奥の森の中まで続いている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232241625.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>森の中に空堀跡が<br />
<font size="2">上写真の土塁の上を森の中に入り、左側（西側）下を見ると、この空堀（写真左側）がはっきりと残っていた。
写真では分かり辛いのが残念だ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232243000.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>曲輪跡？<br />
<font size="2">森の中は、強烈な藪になっているが、斜面を削り、ほぼ削平地になっているようで、
曲輪跡なのではと思われるような雰囲気があったが、果たして・・・？</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232243671.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>坂上田村麻呂の伝説が残る「弁天池（鳴かずの池）」<br />
<font size="2">昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、首を埋めた所にこの弁天池ができたと言われ、
カエルが住みつかないところから「鳴かずの池」と呼ばれたと言い伝えられているとのことであるが、池にはやたらと大きな「おたまじゃくし」
が居たが、カエルにまで成長しないのだろうか？（苦笑）<br /></font><font size="3"><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232244328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>基氏館全景<font size="2"><br />
弁天池脇から撮ったものである。中央に、館西側の土塁が見え、その向こう側が館跡である。尚、車は。写真の道の手前左側に空地があるので、
そこに停めるとよい。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T232245484.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]>
        <![CDATA[<p>初代鎌倉公方足利基氏が岩殿山合戦で本陣を置いたとされる館</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>武蔵　松山城（吉見町）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/10kanto/13saitama/post_47.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=85" title="武蔵　松山城（吉見町）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2005://2.85</id>
    
    <published>2008-06-26T09:30:29Z</published>
    <updated>2008-06-26T17:07:03Z</updated>
    
    <summary>1-60-100</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="13saitama" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<h3>上杉氏と後北条氏が奪い合った関東の要衝</h3>
<h3>別名</h3>
<p>白米城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>埼玉県比企郡吉見町南吉見（吉見百穴の南）</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城（比高：４０m程）</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>現況：山林（国指定史跡）<br />
遺構等：曲輪、土塁、空堀、竪堀、石碑、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>８点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００２／０９／２７<br />
２００８／０６／２４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえいわれるが、山内上杉氏・
扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背景とした１５世紀後半という考え方が有力である。但し、この頃の文献資料は極めて乏しく詳細は不明である。
武蔵松山城が歴史に登場するのは、公方足利氏、山内・扇谷両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる後北条氏が興隆する時期と言える。
<br />
天文年間（１５３２～５５）以降の文献資料は豊富で、その中には、山内上杉氏、扇谷上杉氏、後北条氏、甲斐の武田氏、
越後上杉氏の名も見られる。<br />
松山城は関東の覇権をめぐり競い合った後北条氏と上杉氏との勢力接点上に位置していた。そのため、
両軍が松山城をめぐって激しい攻防戦を繰り返し、記録に現れただけでも、松山城は７度も落城の憂き目をみている。<br />
有名なのは、天文年間（１５３２～５５）から永禄年間（１５５８～６９）にかけての上杉氏、武田氏、後北条氏の松山城を巡っての攻防である。
<br />
戦国時代の城主は、山内上杉氏の重臣上田氏であった。しかし、天文１５年（１５４６）の川越夜戦で山内上杉氏が大敗を喫したのち、
後北条氏に寝返ってしまい、以後、松山城は後北条氏の城として機能し、城の守りは、引き続き上田氏に任されている。<br />
永禄４年（１５６１）、上杉謙信は９万ともいわれる大軍を率い松山城に押し寄せ城を落とした。<br />
謙信が越後へ帰ったのちの永禄 ５年（１５６２）、後北条勢は３万の兵をもって攻撃をかけたが城は落とせなかった。
そこで後北条氏は当時同盟関係にあった武田氏の援軍を得て５万数千の連合軍を結成し、再度、松山城を厳重に包囲したが、
一向に落ちる気配のない松山城を見た武田信玄が、甲斐より金堀衆を呼び、地下に穴を掘って戦意を喪失させて、降伏に持ち込んだ。
<br />
尤も、この地下坑道作戦は、城内の貯水池にぶつかって水が噴出したり、城方がそれと気づいて地下から逆襲に出た為失敗に終わり、結局、
城を完全に包囲して水源を断つという常套手段が功を奏したという話もある。<br />
また、新田次郎の「武田信玄」では、北条勢とともに松山城を囲んでいた武田信廉が吉見百穴を見て、
城に穴を掘って攻めることを思いついたとなっている。<br />
その後は、北条氏 の手に帰していたが、天正１８年（１５９０）の 豊臣秀吉 による小田原征伐の際に、前田利家、
上杉景勝らの大軍勢に攻撃され落城した。<br />
同年に 徳川家康 が関東へ移封されると、一門の松平家広 が城主となるが、関ヶ原の合戦の翌慶長６年（１６０１）に城主松平忠頼
（家広の弟） が、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_101.html">遠江浜松</a>へ転封されたのを最後に廃城された。
<br />
『「日本の名城・古城もの知り事典（主婦と生活社刊）」、「吉見百穴資料館印刷物」参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>武田信玄・上杉謙信・北条氏康の戦国時代の三名傑全てが関係し、多くの小説に頻繁に出てくる城で、非常に大きな興味を持って登城した。
特に、新田次郎の「武田信玄」の中の、吉見百穴を見て松山城に穴を掘って攻める箇所は印象深い。<br />
城山はすぐに分かったが登り口がなかなか見つからなかった。すごく深く切れ込んだ堀切らしいのがあったが、そこからは登れそうにない。
やっと通りがかりの人に聞いて、三の丸側から登城した。土塁や空堀などの保存は余計な手が加えられず、実に見応えがある。<br />
本丸からの下城は別の道を降りた。こちらの方が一般的な登城道らしい。また、機会があったら、縄張図を見ながら歩きたい城である。
<br />
（2002/09/27登城して）<br />
<br />
近くの「百穴温泉」というのに行ったが、風呂はともかく、施設のあまりの古さと汚さに閉口した。（投資は当然のこと、
掃除もろくにしていないんじゃないかと思われる）<br />
（2006年2月）<br />
<br />
ほぼ６年ぶりに登城した。今回は、遠来の友Ｔさんと地元埼玉のＮさんとの登城である。<br />
相変わらず、素晴らしい空堀だ（変わる訳がないから当然だが）。<br />
この城址の見所は、何と言っても、各曲輪間の至る所に掘られた、大規模な空堀であろう。その折りがよく入った空堀は、何度見ても、
いつまで見ていても飽きない。ついつい写真の撮りまくり！<br />
（2008/06/24登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張図<font size="2">（吉見百穴資料館パンフレットより）</font>
　　　　～クリックにて拡大画面に～<br />
<font size="2">西から東に向かって、本曲輪・二ノ曲輪・春日曲輪・三ノ曲輪が一直線に並び、それらを取り囲みながら惣曲輪・
兵糧曲輪をはじめ大小様々な腰曲輪が配されている。曲輪の周囲には大規模な空堀と切り落としがある。</font><br />
<a href=
"http://castle.slowstandard.com/photos/main_pic/mmatuyama-ezudai.jpg">
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182342718.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></a></p>
<p>全景<br />
<font size="2">市野川手前（西側）から撮影。比高差約４０ｍほどと、それほど高い山ではないが西側から南・
東側にかけては切立った崖の要害の地である。左側に見える崖の辺りに岩室観音堂と切り通しがある。また、写真の左方向に有名な吉見百穴
（ひゃくあな）がある。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182345609.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧岩室観音堂、㊨切り通し（竪堀？）<br />
<font size="2">㊧岩室観音のはじまりは弘仁年中（８１０～８２４）と言われているが、確かな記録は残っていない。
天正１８年（１５９０）の豊臣秀吉による小田原征伐の際の松山城攻防戦で石田三成の士卒によって焼失してしまい、
現在のお堂は江戸時代の寛文年間（１６６１～７３）に再建された懸け造り様式である。<br />
㊨観音堂の奥に切通しがある。堀切或いは竪堀のようで、見るからに急坂であるが、案内図を見ると登って行けそうであったが、先日来の雨で、
上のほうから水が流れ落ちてきていたので、登って行くのを断念した。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182346875.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182348000.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>信玄の地下行動作戦の穴？？<br />
<font size="2">岩室観音堂の横の崖に、こんな穴が一杯あった。一瞬、「信玄の地下坑道作戦の穴？」なんて思った（期待した）
けど、やっぱり違いますよねえ？これも吉見百穴と同様、古代の墓の跡ですかねえ？説明が全くないので・・・。<br /></font>
<font size="3"><img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182348703.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>本曲輪と笹曲輪間の堀底道<br />
<font size="2">左土塁上が本曲輪、右土塁上が笹曲輪</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182350031.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>笹曲輪<br />
<font size="2">㊧は笹曲輪上から撮影。三角形の形をした曲輪で、先の方がやや高くなっており、
物見台的な櫓か何かあったのだろうか？㊨は、本曲輪上から撮影したもので、手前に上写真の堀底道が。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182350781.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182351953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本曲輪<br />
<font size="2">本曲輪は不整形であるが、ほぼ東西４５ｍ、南北４５ｍの広がりを持っている。曲輪のやや北側（写真奥）
に１ｍほどの高さの土塁が残っている。また、以前は、神社でも建っていたのであろう。コンクリート製の土台のみが・・・。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182352593.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本曲輪物見櫓跡<br />
<font size="2">本曲輪の東北部には、曲輪から突出した物見櫓が設けられていた。その跡に、
高さ３ｍほどの立派な石碑が立っている。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182353843.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182354437.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本曲輪・二の曲輪間の空堀<br />
<font size="2">この空堀は、大規模で実に見応えがある。この写真は本曲輪上から撮ったものである。また、
表紙写真は堀底から撮ったもの。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20080626T182355093.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本曲輪物見櫓下の空堀<br />
<font size="2">左