<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
    <title>登城記｜タクジローの日本全国お城めぐり</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/" />
    <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://castle.slowstandard.com/atom.xml" />
   <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2</id>
    <link rel="service.post" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2" title="登城記｜タクジローの日本全国お城めぐり" />
    <updated>2010-03-08T17:26:24Z</updated>
    
    <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type  3.2-ja-2</generator>
 
<entry>
    <title>伊勢　一身田寺内町（津市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_1008.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1547" title="伊勢　一身田寺内町（津市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1547</id>
    
    <published>2010-03-08T17:04:55Z</published>
    <updated>2010-03-08T17:26:24Z</updated>
    
    <summary>1-50-500</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="34mie" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>専修寺山門</p>
<h3>専修寺を中心とした城郭都市（環濠集落）</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>三重県津市一身田町２８１９（専修寺）<br />
専修寺：電話０５９－２３６－４０２５</p>
<h3>形状</h3>
<p>城郭都市（環濠集落）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：専修寺他<br />
遺構等：水堀、土塁、説明板ほか</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０１／２９</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>この町は、弥生文化の原始時代から小さな農業集落でしたが、１５世紀に専修寺（当時は無量壽院と言った）が建てられてからは、
それを中心として発展を始め、ことに１６世紀からは、町の周囲に環濠を作り、専修寺を中心とした宗教都市の様相を呈するようになりました。
こういう町を一般に寺内町と申しますが、一身田はその典型と言われています。<br />
濠（堀）は東西約５００ｍ、南北４００ｍで、町への入口は３つしかなく、橋のたもとに門があって、夜は閉じられ、
不審な者の侵入を許しませんでした。町には住民の自治が進行し、専修寺からは商業資金の融資が自由に受けられたので、商工業が活発となり、
町は繁栄しました。また濠の外には橋向という遊郭地域も生まれました。<br />
環濠は昔にくらべて幅が狭くはなっていますが、昔のままのところに残っており、町は静かなたたずまいを見せています。<br />
『現地説明板より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>一身田寺内町（いっしんでんじないちょう）は、専修寺（せんじゅじ）を中心に作られた典型的な城郭都市（環濠集落）で、
今もその様子がよく残っている。寺内町は、富田林など近畿地方を中心に、何箇所かで発達したようだが、これだけよく残っているのは、
この一身田寺内町だけだろう。<br />
周囲を取り巻く水堀跡も一部細くなっているところはあるもののよく残り、大正時代くらいから、
まるで時間が止まったかのような町の景観は安らぎを感じる。
昭和初期から戦後まもない頃に時代劇映画のロケ地として撮影が頻繁に行なわれたというのも納得できる。<br />
専修寺は真宗高田派の本山である。さすが本山だけに、こんな田舎（失礼）にあっても山門、太鼓門、御影堂、如来堂などの建築物が見事だ。
唐門も素晴らしいようだが、改修中で見られなかったのが残念だった。<br />
（２０１０／０１／２９訪れて）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>寺内町案内図（現地案内板より）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T021255500.jpg" />
</p>
<p>専修寺南面の土塀と山門<br />
<font size="2">山門は、宝永元年（１７０４）の建築。寺院の門としては最高の格式で、楼上には釈迦三尊仏を安置している。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020438875.jpg" />
</p>
<p>太鼓門<br />
<font size="2">東面に建ち、左右に長屋が付く四重の櫓門である。最上階に太鼓が吊り下げられ、町の人々に時刻を知らせる
「時の太鼓」が打たれたが、今は法要の時にしか打たれない。最初は二階建てであったが幕末に今の形になった。<br /></font>
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020441093.jpg" />
</p>
<p>御影堂<br />
<font size="2">寛文６年（１６６６）の建築で、親鸞聖人の木像が安置された７３９畳敷の全国でも屈指の大御堂である。
平成の大修理が終わり、５月には落成慶讃大法会があるそうだ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020441828.jpg" />
</p>
<p>如来堂<br />
<font size="2">寛延元年（１７４８）の建築でｍ「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来像が安置されている。この建物の現物は、
写真より遥かに見事なもので、御影堂にも負けないほどだ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020442640.jpg" />
</p>
<p>釘貫門<br />
<font size="2">この門から聖域であると区切られていたようで、南側には石橋が架けられ、北側は石畳が続く。釘貫門とは、
柱を立てて並べて横に貫を通しただけの簡単な門のことであり、町の入り口に設けた木戸のようなものを示すこともある。
現在はこの山門前の釘貫門だけが残るが、宝暦年間（１７５１～６３）の木版画には他に３ヶ所矢来（釘貫門）が描かれている。
<br /></font> <img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020443343.jpg" />
</p>
<p>㊧黒門跡、㊨環濠（毛無川）<br />
<font size="2">㊧伊勢方面の出入り口で、この門が寺内町の惣門にあたり、門の横には番所があった。尚、高田幼稚園の門が移築された黒門であるという風説があるが、違うそうだ。
㊨寺内町の周囲をめぐる堀の中で、南面は川を利用している。川の名前が何と「毛無川｝だ～」！<br /></font>
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020444062.jpg" />
 　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020445843.jpg" /></p>
<p>環濠（西面）<br />
<font size="2">日本で唯一ほぼ完全な形で現存する寺内町を囲む環濠で、東西４５０～５００ｍ、南北４００～４５０ｍある。
この西面の環濠は道路拡張のため少し狭くなっているが、土塁が残っている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020446718.jpg" />
</p>
<p>町並み<br />
<font size="2">まるで、大正時代くらいから時間が止まったかのような町の景観は安らぎを感じる。
昭和初期から戦後まもない頃に時代劇映画のロケ地として撮影が頻繁に行なわれたというのも納得できる。<br /></font>
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100309T020447515.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆　専修寺を中心とした城郭都市（環濠集落）</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>三河　田峯城（設楽町）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1007.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1546" title="三河　田峯城（設楽町）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1546</id>
    
    <published>2010-03-04T14:13:04Z</published>
    <updated>2010-03-04T14:26:16Z</updated>
    
    <summary>3-60-100</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="31aichi" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>大手門跡前から本丸に建つ御殿を見上げる</p>
<h3>山家三方衆・田峯菅沼氏の城、長篠合戦後に敗走する勝頼の入城を拒む</h3>
<h3>別名</h3>
<p>蛇頭城、竜の城、田嶺城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>愛知県北設楽郡設楽町田峯<br />
【行き方】<br />
新城方面から北上し、県道３８９号線へ入り「稲目トンネル」を抜けると、すぐに田峯橋がある。橋を渡ったら左（西）へ曲がり、すぐまた右へ
（案内板有）。あとは、九十九折の細い道を登って行く。<br />
国道２５７号線で北上してきた場合は、「田峯信号」を南へと県道３８９号線に入り、２００ｍほど南下すると右手に案内板があるので、
それに従って右折し、登っていく。</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高約５００ｍ）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：城址公園<br />
遺構等：再現？（御殿・櫓・城門・厩）、曲輪、空堀、石碑、説明板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#98FB98">★★</font>☆☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／１１</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>三河の北部山岳地帯には、「山家三方衆（やまがさんぽうしゅう）」と呼ばれる豪族が蟠踞していた。田峯城の菅沼氏、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_119.html">長篠城</a>の菅沼氏、
作手の<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_872.html">亀山城</a>の奥平氏の３氏である。
３家は幾重にも姻戚を結んで固い団結を誇っていた。<br />
菅沼氏は南設楽郡作手村菅沼に興った豪族で、菅沼定成のときに田峯に城郭を構えた。以後、田峯菅沼氏は今川氏に属したが、
定継のときに今川氏親が没すると、享禄２年（１５２９）<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_120.html">安祥</a>の松平清康に従った。
その清康も「守山崩れ」で家臣に殺されたのを機に三河は織田氏の侵攻するところとなり、定継は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_872.html">亀山城</a>の奥平定勝らと共に織田氏に気脈を通じた。
<br />
その後、桶狭間合戦後の永禄４年（１５６１）、定継の子定忠は徳川家康の麾下に入った。<br />
しかし、元亀２年（１５７１）武田信玄の勢力が三河に伸びてくると武田方に属した。そして、同年、信玄が<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1005.html">大野田城</a>を攻めた時から、
同３年の三方ケ原合戦、それに続く天正元年（１５７３）の<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1004.html">野田城</a>攻め、
同３年の長篠合戦に至るまで武田方として三河侵攻に加わった。<br />
しかし、長篠の合戦の大敗で、勝頼とともに敗走し、田峯城に入ろうとしたが、留守居役の叔父定直等の叛逆にあい、入城できず、
尾根伝いに山越えをして武節城へ入った。定忠は、勝頼を甲斐に見送った後、武節城に立て籠もっていたが、
奥平氏に攻められて信濃国伊那郡に落ち延びていった。復讐を誓った定忠は天正４年（１５７６）７月１４日、
田峯城に夜襲をかけて謀反の一族９６人を惨殺した。<br />
天正１０年（１５８２）勝頼が天目山で死ぬと、同年５月、定忠も信濃国伊那知久平において牛久保城主・牧野康成と戦い討死した。
<br />
その後、道目記城（どうめぎじょう）城主で定直の嫡子定利が、宗家菅沼氏の遺領を継いだが、天正１８年（１５９０）家康の関東入国に際して、
上野国<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/17gunma/post_489.html">吉井</a>２万石へ移封となったので、
その頃に田峯城も廃城となったのであろう。<br />
『「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」、「日本城郭大系９」、「田峯城パンフレット」等参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>田峯城は、山深い奥三河の標高約５００ｍの丘陵上にある。日本城郭大系には比高５０ｍとあるが、
山麓からは明らかに１５０ｍ以上はある。<br />
車で、細い九十九折の道を登っていく時は、対向車に遭わないように願いながら運転していった。昔は、当然車もないし、こんな山道を歩いて
（馬かもしれないが）登ったのだ。強者（勝頼）も敗者となり、こんなところを登って、やっと城に着いたものの、城には入れてもらえず、
さらに山奥の武節城まで落ち延びて行ったのだ。惨めな想いだっただろうなあ。<br />
さて、新城から山間部へ入って行くに従って、雨が強くなるだけでなく、益々、霧も濃くなって、田峯城址へ着いた時には、
近くの写真もろくに撮れないほどであった。待っていても晴れる気配はないので、雨と濃霧の中の城めぐりとなった。<br />
城址は綺麗に整備されてというか、されすぎている？が、駐車場脇から、
見える段曲輪や空堀と本丸跡に再現された御殿の光景はなかなかのものだ。ただ、あまりの濃霧でぼんやりとしか見えなかったのが残念だった。
<br />
本丸跡に本丸御殿をはじめ、本丸大手門と枡形虎口、搦手門、厩、物見台などが、それらしく再現されていて、それはそれで良いのだが、
これらは本来あった場所に再現されたものなのだろうか、どうも疑わしいが・・・？<br />
（２０１０／０２／１１登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張絵図<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231246718.jpg" />
</p>
<p>大手門跡の手前の空堀と木橋<br />
<font size="2">橋を渡ったところに大手門があったと考えられる。空堀には木橋が架けられ、事ある時には、橋をはずし、
ここで敵の侵入を防いで戦闘態勢をとったと考えられる。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231249140.jpg" />
</p>
<p><strong>【曲輪群】<br /></strong><font size="2">田峯城は、
段曲輪によって構成された城郭である。</font><br />
㊧表曲輪、㊨無名曲輪<br />
<font size="2">㊧橋を渡り、大手門をくぐり大手曲輪を通って入って行くと表曲輪へ出る。表曲輪は、田峯城入口に近く（表側）
にあることから称されている。㊨無名曲輪は、少し斜面になっている。言い伝えなどに名前が出てこない曲輪のため、このように称される。
<br /></font> <img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231250046.jpg" />
 　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231250843.jpg" /></p>
<p>㊧井戸曲輪、㊨蔵屋敷<br />
<font size="2">㊧井戸跡もなく、掘っても水の出ない地形ではないため、天水を貯える設備があったようである。
㊨蔵があった場所で、当時この蔵には、食物や武器などが保管されていたと考えられる。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231251671.jpg" />
 　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231252390.jpg" /></p>
<p>㊧畷曲輪（あぜくるわ）。㊨道寿曲輪（どうじゅくるわ）<br />
<font size="2">㊧狭い面積の曲輪であることから、その意を示す畷の字が使われたと考えられる。
㊨５代目城主菅沼定忠とともに長篠合戦に出陣した家老城所道寿の屋敷跡であったようである。<br /></font>
<font size="3"><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231253156.jpg" />
 　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231253875.jpg" /></font></p>
<p><strong>【本丸跡】<br /></strong><font size="2">本丸には「御殿」のほか、「厩」、
「物見台」、「本丸大手門」を当時の建築方法で再現した。</font><br />
御殿<br />
<font size="2">一層入母屋書院造、切妻中門、切妻色台、柿葺唐破風付き、板葺き</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231254734.jpg" />
</p>
<p>本丸大手門<br />
<font size="2">板葺きの棟門で再現されているが、本丸大手門の場所は、空堀のところにあった大手門とは別に、
元々この場所にあったのだろうか？</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231255828.jpg" />
</p>
<p>本丸大手門枡形虎口<br />
<font size="2">大手門の後ろに廻ってみると、枡形虎口になっている。これは、往時の完全な遺構なのだろうか？
虎口から山裾へ下りて行く道があったが、柵で、ここから外へ出られないようになっているのが残念だった。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231256609.jpg" />
 　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231257515.jpg" /></p>
<p>搦手門<br />
<font size="2">空堀に架かる橋を渡り、大手門跡を通って、道なりに登って来ると搦手門へ到達するのも、
何か変な感じがするが・・・？</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231258250.jpg" />
</p>
<p>物見台<br />
<font size="2">天気が良ければ、この上に登ると素晴らしい眺望で、２００ｍ下の豊川も見下ろすことが出来るらしいが・・・。
この霧では・・・ザンネンムネン！</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231259000.jpg" />
</p>
<p>厩と供養搭<br />
<font size="2">切妻一層の板葺きで再現</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T231300203.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#98FB98">★★</font>☆☆☆　山家三方衆・田峯菅沼氏の城、
長篠合戦後に敗走する勝頼の入城を拒む</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>三河　岡崎信康本陣（新城市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1006.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1545" title="三河　岡崎信康本陣（新城市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1545</id>
    
    <published>2010-03-04T05:19:46Z</published>
    <updated>2010-03-04T05:29:48Z</updated>
    
    <summary>3-50-250</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="31aichi" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>信康本陣跡の松尾神社への石段、鳥居の右脇に小さな石碑</p>
<h3>設楽ケ原合戦で家康の嫡男信康が布陣</h3>
<h3>別名</h3>
<p>松尾山陣所</p>
<h3>所在地</h3>
<p>愛知県新城市富永字松尾<br />
【行き方】<br />
国道１５１号（バイパス）「冨永新知信号」を北へと県道４３８号へ入り、５００ｍ程北上すると道路沿い左手の小山に「岡崎信康本陣地」
の看板があり、ここが本陣跡の松尾山である。</p>
<h3>形状</h3>
<p>陣城</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：松尾神社、山林<br />
遺構等：石碑、看板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#98FB98">－－－－－</font></p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／１１</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>岡崎（松平）信康は徳川家康の嫡男である。設楽ケ原の戦いのときは、１７歳で参戦し、松尾山に布陣した。家康の本陣の後方で、
信長が本陣を置いた茶臼山の南側となる。</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>田峯城址に向かって運転して行ったら、たまたま左手に「岡崎信康本陣地」の看板が見えたので寄ってみた。<br />
鳥居の手前脇に「岡崎信康本陣」と刻まれた小さな石碑が立っている。鳥居をくぐり石段を登っていくと松尾神社が祀られた広い削平地へ出る。
明確な遺構等は確認できないが、周囲は結構急崖になっており雰囲気はある。<br />
いつか、長篠設楽ケ原の合戦時の、武田方と織田方の陣地を全て見て廻りたいと思う。<br />
（２０１０／０２／１１訪れて）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>松尾山と看板<br />
<font size="2">田峯城址に向かって運転して行ったら、たまたま左手に「岡崎信康本陣地」
の大きな看板が目に付いたので寄ってみた。<br /></font><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T141933515.jpg" />　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T141935843.jpg" /></p>
<p>㊧松尾神社、㊨切岸？<br />
<font size="2">鳥居をくぐり石段を登っていくと松尾神社が祀られた広い削平地へ出る。祠の裏は、
奥の方へと非常に広い削平地となっており、かなりの大人数を収容できたと思われる。㊨明確な遺構等は確認できないが、
周囲は結構急崖になっており雰囲気はある。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T141936734.jpg" />
　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T141937437.jpg" /></p>
<p>鳥居強右衛門が狼煙をあげた雁峰山<br />
<font size="2">信康本陣跡を見てから、田峯城址へと運転して行くと、左手に「強右衛門がのろしをあげし雁峰山」
とかかれた看板が。写真奥の山のようだ。ちょっと興味を持ったが「これより山道約２，０００ｍ登」とあったので断念。
「それにしても強右衛門は長篠城から川を泳いで脱出後、こんな高い山の上まで登って狼煙を！」と思うとねえ・・・・・。恐れ入りました（汗）
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T141938140.jpg" />
</p>
<p>橋詰殿戦場（馬場美濃守信春戦死の地）<br />
<font size="2">田峯城址へ向かい、さらに北へと進んで行くと「橋詰殿戦場（馬場信春戦死の地）」が。
設楽ケ原の戦いで武田軍は惨敗、総崩れとなり、殿（しんがり）をつとめた馬場信春は、敗走する主君勝頼を助けながら勇敢に戦い、
勝頼が落ち延びていく姿を見届けたあと、この地で最後の戦いをし、自ら敵に首を与えたと伝えられる。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100304T141938875.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#98FB98">－－－－－</font>　設楽ケ原合戦で家康の嫡男信康が布陣</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>三河　大野田城（新城市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1005.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1544" title="三河　大野田城（新城市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1544</id>
    
    <published>2010-03-03T04:11:25Z</published>
    <updated>2010-03-03T04:14:27Z</updated>
    
    <summary>3-45-202</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="31aichi" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>城址全景</p>
<h3>野田城の出城として大修築した城、後に信玄に攻められ落城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>愛知県新城市野田字幹徳<br />
【行き方】<br />
県道３９２号線「中市場信号」から約１５０ｍ西へ進むと溜池（中市場池）があり、道端に説明板が立っている。
溜池の向こう側の森が城跡である。説明板の脇に駐車可能</p>
<h3>形状</h3>
<p>平城</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：雑木林<br />
遺構等：曲輪、土塁、空堀、標柱、説明板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#98FB98">★</font>☆☆☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／１１</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>大野田城は建武の新政の頃、富永氏の出城で、後の応永年間（１３９４～１４２７）の頃は城所浄古斎の砦であった。<br />
永禄３年（１５６０）、今川義元が桶狭間で討死すると、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1004.html">野田城</a>の菅沼定盈は今川から離れて徳川家康についたため、
義元の子今川氏真は怒って、永禄４年に菅沼定盈を攻めた。定盈は衆寡敵せず、一旦は和議を結んで<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1004.html">野田城</a>を明け渡したが、
翌５年再度<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1004.html">野田城</a>を奪い返した。
<br />
この戦いで野田城が大破したので修復のため、定盈は浄小斎の旧砦を利用して本丸とし、更に二の丸、三の丸を北側に拡大して、
その名も大野田城とした。<br />
元亀２年（１５７１）武田信玄は足助城（別名：真弓山城）を陥れ、作手からこの城を攻め、定盈は城に火を放って豊川を渡り、西郷（豊橋市）
へ退却し廃城となった。<br />
現在も本丸の土塁や空堀の跡はよく残り、中市場池は明治の頃、本丸を切り崩して造られた農業用の溜池である。<br />
『現地説明板より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>現在、大野田城址の北は湿地帯、東は池、西と南は水田となっている。往時は、周囲を沼に守られた、
それなりに要害の地であったのだろう。<br />
城址は雑木林となり、曲輪内はかなりの藪状態で全貌が掴み難いが、土塁で囲まれた曲輪の中は、かなり広く、
仕切り土塁のような土盛りで３～４つの曲輪に区画されているようだった。<br />
城の南北の空堀は、藪になってはいるが、はっきりと確認できる。<br />
あまり見どころも見つけないまま、雨の勢いが益々強くなってきたので、早々に引き揚げた（苦笑）<br />
（２０１０／０２／１１登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>曲輪<br />
<font size="2">城址は雑木林となり、曲輪内はかなりの藪状態で全貌が掴み難いが、土塁で囲まれた曲輪の中は、かなり広く、
仕切り土塁のような土盛りで３～４つの曲輪に区画されているようだった。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T131110000.jpg" />
</p>
<p>曲輪北側の空堀<br />
<font size="2">曲輪の南北両側の空堀は、はっきりと確認できた。南側の空堀には何とか入って行けたが、
この北側の空堀は降参（汗）</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T131112796.jpg" />
</p>
<p>曲輪南側の空堀<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T131113984.jpg" />
</p>
<p>標柱<br />
<font size="2">城址の標柱が何ともややこしい場所に設置されている。城址の南東（池の南西）にあたり、南側空堀（上写真）
の東先端部の土塁端に立っている。おまけに城址銘が書かれているのが反対側である。右写真は、池の岸（空堀底の端）
へ下りて行って撮ったものである。それにしても、何故こんな場所に設置したんだろう？地元の人でも、ほとんど気が付かないだろう（苦笑）
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T131115062.jpg" />
　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T131116078.jpg" /></p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#98FB98">★</font>☆☆☆☆　野田城の出城として大修築した城、
後に信玄に攻められ落城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>三河　野田城（新城市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1004.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1543" title="三河　野田城（新城市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1543</id>
    
    <published>2010-03-02T16:11:25Z</published>
    <updated>2010-03-02T17:15:28Z</updated>
    
    <summary>3-45-200</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="31aichi" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>本丸北西の折れのある空堀と稲荷社の祠が建つ櫓台</p>
<h3>武田信玄が三方ケ原合戦で大勝後に包囲攻撃して落とした最後の城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>愛知県新城市豊島本城<br />
【行き方】<br />
国道１５１号「川田信号」を北東へ入り、７００ｍ程進んで右折する（道路に案内有）。少し行くと左手は林となり、
さらに少し進むと左手に説明板が２基設置されている。その脇が登城口である。駐車場はないが、道も割り合い広く、
車もほとんど通らないようだったので、道路隅に駐車した。</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城（丘城）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、土塁、櫓台、空堀、土橋、井戸、石碑、説明板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／１１</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>野田城は、永正２年（１５０５）、田峯菅沼氏から菅沼定則が富永荘の地頭富永直郷の後継として入り、館を築いたのが始まりと云われる。
以後、野田菅沼氏は今川氏に属していたが、菅沼定盈のとき、永禄３年（１５６０）今川義元が桶狭間で討死すると松平元康（後の徳川家康）
に寝返った。怒った今川氏真は、野田城を攻め、一旦は奪い返したが、まもなく奪い返された。以後、
定盈は家康の幕下として遠江などへ従軍している。<br />
元亀３年（１５７２）の暮れに、三方ケ原合戦で家康を一蹴した武田信玄は、翌天正元年（１５７３）正月に野田城を包囲攻撃した。
<br />
武田軍の来攻を受けて定盈は、家康からの援将松平忠正と共に必死に防戦した。武田軍の軍勢は３万余で、
それに対して城兵は僅か３００余であったと伝わる。<br />
小さいながらも要害の野田城を攻めあぐねた武田軍は、甲州金山の坑夫を投入し、本丸と二の丸の間を掘り崩して遮断した。
やむなく城兵は二の丸、三の丸を捨てて本丸に立て籠もった。すると武田軍は本丸の下まで穴を掘り、城内の井戸の水を抜いてしまった。
戦意旺盛な城兵の士気も衰え、籠城すること２０日余、遂に定盈は降伏を決意し、自分と忠正の自害を条件に城兵の命を乞うた。<br />
信玄は、一旦はそれを許したが、城兵が落ち延びた後、両人が切腹という段になると、武田の兵がいきなり二人を捕らえてしまった。その後、
信玄は家康の許に使者を送り、この二人と、家康方に抑えられている山家三方衆の人質との交換を申し出て、双方の人質交換がされた。
<br />
野田城を攻略したものの、信玄の病いが悪化したため、上洛の企図はそこで頓挫し、甲府へ引き揚げることになった。そして、その途中、
信州の駒場で信玄は息を引き取った。時に天正元年４月１２日、享年５３歳であった。<br />
『「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」、「日本城郭大系９」より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>野田城は、本丸・二の丸・三の丸からなる連郭式平山城で、現在、その形態は残っているが、本丸跡を除き、雑木林と化している。
三の丸跡の北側を国道１５１号線、さらに南側の侍屋敷跡にはＪＲ飯田線が走り、周囲の様子は様変わりしているものの、中世城郭の面影はある。
<br />
現在確認できる各曲輪は、ほぼ一直線上にあり、各曲輪は二の丸と三の丸の間に微妙な段差が見受けられるものの、ほとんど高低差がなく、
本丸と二の丸間のみ空堀で断ち切られ土橋が架かっている。<br />
二の丸から本丸への土橋を渡った右側に「野田城址」の石碑が建ち、左側の一段高くなった所に祠が祀られている。祠下の土塁からみて、
往時は櫓があったと思われる。<br />
説明板の図を見て、武田軍が坑道を掘ったという跡を捜したが確認することはできなかった。そして、それにより水を抜いたという井戸が、
本丸南西部にあったが、随分立派な井戸だった。<br />
（２０１０／０２／１１登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>野田城平面図<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T011109390.jpg" />
</p>
<p>本丸空堀（土橋の南側）<br />
<font size="2">説明板の脇から二の丸へ入って行くと、すぐ右手にこの深い空堀が見える。幅約７ｍ、
深さ約６ｍほどあるだろう。この空堀は、道端（説明板の横）からも見える。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T011112859.jpg" />
</p>
<p>土橋<br />
<font size="2">本丸と二の丸間は空堀で断ち切られ、土橋が架かっている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T011113640.jpg" />
</p>
<p>本丸空堀（土橋の北側）<br />
<font size="2">右上が稲荷社の祠が建つ櫓台で、強力な横矢の折れとなっている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T011114468.jpg" />
</p>
<p>本丸土塁<br />
<font size="2">本丸の西側には土塁があり、北側（奥写真）は幅が広く稲荷社の祠が建っている。
往時は櫓が建てられていたのであろう。南側（写真手前）には「野田城址」と刻まれた石碑が立っている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T011115453.jpg" />
</p>
<p>水抜きの井戸<br />
<font size="2">本丸跡南西には、武田軍の金掘り衆が本丸の下まで穴を掘り、水をぬいてしまったという井戸がある。
結構大きな井戸である。井戸の中を覗いてみたが、勿論、水はなかったというか、埋まっていた。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T011116546.jpg" />
</p>
<p>本丸東側の空堀<br />
<font size="2">本丸の先端部（東）にも空堀があった。左の道を下りると侍屋敷へと。<br /></font>
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T011117296.jpg" />
</p>
<p>二の丸と三の丸を仕切る段差？？<br />
<font size="2">三の丸と二の丸の間辺りに土塁と堀の名残のようなものを見付けたが、これが遺構かどうかの確信は全くない
（苦笑）　また、強烈な藪と化した二の丸跡にも何箇所か微妙な段差を見付けたが・・・（笑）<br /></font>
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100303T011118093.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color=
"#00FF00">★★★</font>☆☆　武田信玄が三方ケ原合戦で大勝後に包囲攻撃して落とした最後の城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>三河　一宮砦（豊川市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/31aichi/post_1003.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1542" title="三河　一宮砦（豊川市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1542</id>
    
    <published>2010-03-02T08:20:16Z</published>
    <updated>2010-03-02T08:25:03Z</updated>
    
    <summary>3-20-300</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="31aichi" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>枡形虎口前に立つ石碑</p>
<h3>徳川家康の武勇談「一宮の後詰め」の砦</h3>
<h3>別名</h3>
<p>一宮城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>愛知県豊川市一宮字宮前、砥鹿神社から南西約１５０ｍの竹林<br />
【行き方】<br />
東名高速「豊川インター」から国道１５１号を北上し「砥鹿神社信号」を右折し、２００ｍほど進むと左手に砥鹿神社があり、
右手に神社の駐車場がある。この神社駐車場から南西へ１５０ｍ程行った左手に石碑と説明板があり、ここが城跡。</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城（崖城）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：竹薮<br />
遺構等：曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#98FB98">★★</font>☆☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／１１</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>永禄３年（１５６０）の桶狭間の戦いが終わった後、松平氏（松平元康、後の徳川家康）と今川氏（今川氏真）の間で、
三河の地をめぐって攻防が激しくなった。<br />
永禄７年（１５６２）、氏真は牛久保城に着陣して、元康（家康）の家臣本多百助信俊等が守る一宮砦を大軍で包囲した。<br />
元康（家康）は、１０分の１の小勢でその攻囲を突破して砦に入り、翌朝には岡崎に帰還したという（三河風土記）。この間、
氏真は終始兵を動かさず、傍観していたと伝えられる。<br />
これが、後世まで家康の武勇談の一つとして「一宮の後詰め」と称されたものである。<br />
『「現地説明板」、「日本城郭大系９」より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>一宮砦は、往古は砦の南東側に豊川が流れていた河岸段丘砦で、今も砦跡の南東部は急崖になり、その下には小川が流れている。
<br />
往時は複数の曲輪を配していたようだが、今は主郭部とそれを囲む土塁の一部や主郭の南北両側の空堀跡だけが雑木林や竹薮の中に残されている。
<br />
また、石碑と説明板が設置されている脇が城跡への入口で、内枡形の虎口土塁が残っている。<br />
（２０１０／０２／１１登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>内枡形虎口土塁<br />
<font size="2">内枡形の遺構は、愛知県内では数少ないそうだ。約４ｍ四方の小さい枡形で、
長い歳月を経て土塁も低くなっているが、ほぼ完全に近い状態で残っており、この砦の遺構の最大の特徴といえる。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100302T172005546.jpg" />
</p>
<p>主郭南側の空堀<br />
<font size="2">主郭の南北両側は空堀で断ち切られている。この南側の空堀は、上部幅約４ｍ、深さは主郭（左側）
上から約３ｍほどと小規模ではあるが、良好な状態で残っている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100302T172008500.jpg" />
</p>
<p>主郭北側の空堀<br />
<font size="2">主郭の北側は、深い谷が段丘の下まで落ちていっているが、空堀跡であろう。主郭（左）側は、
かなり削られているようであるが、堀の幅は７ｍほどある。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100302T172009828.jpg" />
</p>
<p>主郭南東側は急崖（砦内から）<br />
<font size="2">主郭南東側には</font><font size="2">低い土塁があり、その外側は急崖になっている。
下を流れる小川との比高差は１０ｍ弱といったところだろうか。また、この土塁、あまりにも低いので、竹薮整備のためのものかも？
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100302T172011078.jpg" />
</p>
<p>主郭南東部面（砦の下から）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100302T172011828.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#98FB98">★★</font>☆☆☆　徳川家康の武勇談「一宮の後詰め」の砦</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>伊勢　松坂城（松阪市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_89.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=264" title="伊勢　松坂城（松阪市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2006://2.264</id>
    
    <published>2010-03-01T07:23:00Z</published>
    <updated>2010-03-01T07:26:40Z</updated>
    
    <summary>1-60-100</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="34mie" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>遠見櫓下から本丸北東面の高石垣を</p>
<h3>蒲生氏郷の築城、江戸期は紀州徳川家の領地となり城代が置かれた</h3>
<h3>別名</h3>
<p>四五百城・鶴城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>三重県松阪市殿町</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：松阪公園<br />
遺構等：曲輪、石垣、井戸、堀、移築門、御城番屋敷（同心長屋）２棟、石碑、説明板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#FF0000">★★★★★</font></p>
<h3>訪城日</h3>
<p>１９９６／０４／０７<br />
２０１０／０２／０８</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>松坂城を築いたのは、戦国の麒麟児とも称される青年武将蒲生氏郷である。<br />
氏郷は少年時代に織田信長のもとで人質となったが、伊勢平定の合戦で働きを認められて、信長の部将として頭角を現していった。<br />
天正１２年（１５８４）、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_739.html">松ケ島城</a>
（松阪市松ケ島町）１２万３千石でに封じられた氏郷は、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_739.html">松ケ島城</a>が手狭なことから、
四五百（よいお）の森と呼ばれた標高３０ｍほどの小山に目を付け、ここに新たに新城を築城した。また、吉祥の木である「松」と、
秀吉の居城大坂城から「坂」の一字を拝領して「松坂城」と命名した。松坂城は、全体を堀で囲み、中心部を階段状にして、最高所に天守を置き、
これを囲むように、本丸、きたい丸を置き、この南側に二の丸、隠居丸を置いて、それぞれを堅固な高石垣で囲んでいる。その石垣は、
野面積みの石垣の堅固さでは日本の城郭の中でも５指に入ると云われている。<br />
また、城下町の建設にも力を注ぎ、松ヶ島の町民を強制的に移住させるとともに近江日野の商人も松坂に移し、楽市楽座の制度を定め、
城下の繁栄をはかった。<br />
築城間もない天正１８年（１５９０）、氏郷は小田原の陣での戦功によって、９２万石の太守となって<a href=
"http://castle.slowstandard.com/00hokkaidotohoku/07fukushima/post_28.html">会津黒川城
（のちの会津若松城）</a>に移った。しかし、これは氏郷の才を恐れた豊臣秀吉が天下を望めない辺境の地に追いやったものとされる。
<br />
翌年、服部一忠が３万５千石で入ったが、一忠は「豊臣秀次事件」に連座してその罪を秀吉に問われ、文禄４年（１５９５）切腹自害した。同年、
古田重勝が３万４千石で近江日野（滋賀県日野町）から入ったが、重勝の跡を継いだ弟の重治は、元和５年（１６１９）石見浜田（島根県浜田市）
に転封となった。<br />
以後は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/46wakayama/post_153.html">紀州藩</a>徳川家の領地となったが、
城は破壊されることなく、城代が置かれ陣屋として明治まで存続された。<br />
『「日本百名城・中山良昭著（朝日文庫刊）」、「蒲生氏郷・佐竹申伍著（ＰＨＰ文庫刊）」参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>松坂城（まつさかじょう）は四五百森（よいおのもり）の丘陵を切り通して、東丘と西丘に分断し、東丘を城地とし、
西丘は自然のままの森として八幡宮を勧請して城の鎮守とした。<br />
東丘に築かれた城は、本丸・二の丸・隠居丸・稀代丸から構成され、それぞれの曲輪には高石垣を築いている。また、平坦地を三の丸とし、
外郭に堀をめぐらせていた。<br />
現在、松坂城跡は松阪公園となり、往時の建物はなく石垣が残るだけだが、この石垣が実に見事である。<br />
山頂部の２段になった本丸を中心に二重、三重に重なった高石垣は何処をとっても、何処から見ても見応え満点である。<br />
また、各曲輪への複雑な虎口（門）跡の石垣や石段が、これまた実に素晴らしい。<br />
まず、城跡への登城道は表門跡と裏門跡の２ヶ所だけであるが、どちらも見事な構えをしている。<br />
そして、何よりも好きなのは、裏門跡から二の丸跡を経て中御門跡・本丸跡下段・本丸跡上段へと続く道だ。この、ごく短い距離を進む道は、
縄張が複雑であるというだけでなく、高石垣と石段の光景が実にかっこいい。<br />
今回の登城では、単なる蒲生氏郷びいきからではなく、松坂城跡の素晴らしさを再認識した。<br />
（２０１０／０２／０８登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張略図（現地説明板より）　　　　　～クリックにて拡大画面に～<br />
<a href=
"http://Castle.slowstandard.com/photos/main_pic/matuzaka-ezudai.jpg">
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162549640.jpg" />
</a></p>
<p>大手口から登城<br />
<font size="2">大手道を通り、表門に向かい登城する。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162550390.jpg" />
</p>
<p>表門跡<br />
<font size="2">表門から見上げる本丸の高石垣が見事だ。本丸下には何故か「松坂城跡」ではなく「松阪城跡」
と刻まれた石碑が立っている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162551156.jpg" />
</p>
<p>月見櫓<br />
<font size="2">本丸石垣に沿って左手へ向かうと、右上に本丸下の段の東角にある月見櫓の石垣が見える。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162552296.jpg" />
</p>
<p>二の丸から本丸下の段の石垣を<br />
<font size="2">月見櫓の下を通り二の丸へ出ると、本丸下の段の長～く続く高石垣が見えてくる。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162553093.jpg" />
</p>
<p>搦手口<br />
<font size="2">一旦、搦手口へ廻り、裏門方面を眺める。右上には、櫓が建っていたであろう。その石垣がなんともかっこよい。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162553843.jpg" />
</p>
<p>裏門跡<br />
<font size="2">再度、裏門から登城する。この高石垣に囲まれた光景が見事だ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162554828.jpg" />
</p>
<p>裏門脇の櫓台上から本丸下の段の高石垣を<br />
<font size="2">裏門脇の櫓台上に登り、先ほどの本丸下の段の高石垣を。左が太鼓櫓石垣、右端が月見櫓石垣である。木が、
少し邪魔だが、何とも云えずかっこいい。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162555640.jpg" />
</p>
<p>【中御門を通って本丸へ】<br />
<font size="2">中御門跡・本丸跡下段・本丸跡上段へと続く。このごく短い距離を進む道は、
縄張が複雑であるというだけでなく、高石垣と石段の光景が実にかっこいい。</font></p>
<p>まずは、右手に太鼓櫓石垣を見て<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162556484.jpg" />
</p>
<p>中御門跡①<br />
<font size="2">この屈折した登城道と、周りの石垣とのコラボがｇｏｏｄ！</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162557312.jpg" />
</p>
<p>中御門跡②<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162558015.jpg" />
</p>
<p>本丸下の段<br />
<font size="2">裏門から登り始めて、何度も曲がってきてやっと本丸下の段へ出る。正面奥が月見櫓跡。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162558687.jpg" />
</p>
<p>さらに石段を<br />
<font size="2">本丸下の段から、さらに折れ曲がった石段の道を登ってやっと天守のある本丸上の段へ着くのだ。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162559468.jpg" />
</p>
<p>本丸上の段（金の間櫓跡から撮影）<br />
<font size="2">本丸上の段は周囲を石塁で囲まれている。西角に天守台（左奥）と敵見櫓台、東角には金の間櫓跡
（写真の手前になる）がある。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162600625.jpg" />
</p>
<p>本丸上の段（天守台から撮影）<br />
<font size="2">正面奥が金の間櫓台。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162601421.jpg" />
</p>
<p>天守台（本丸上から）<br />
<font size="2">本丸上から撮ったものでが、上から見ると、あまり絵にならないですね！？</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162602171.jpg" />
</p>
<p>天守台と敵見櫓台<br />
<font size="2">本丸の西下にある稀代丸から撮ったもの。左が敵見櫓台で、右が天守台。天守台の右の方に、石段があり、
天守台へ登れるようになっている。この折れ曲がって登る石段、少し崩れていて、逆に印象深かったので下の段に写真を。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162603218.jpg" />
</p>
<p>天守台の石段<br />
<font size="2">天守台の上から撮ったものであるが、何故か、この石段が妙に気に入った。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162604203.jpg" />
</p>
<p>稀代丸<br />
<font size="2">稀代丸は、梅林になっているが、まだ季節的に少し早かったので、蕾がちらほらだったが、
満開に頃に来たら綺麗なことだろう。松坂城は、長期戦に備えて、城内に竹薮と梅林があった。竹薮は防御とともに槍や弓矢に使うため、
梅林は食糧用のものであった。現在でも、梅林は、桜とともに名所になっている。<br /></font><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162605000.jpg" /></p>
<p>稀代丸西面の横矢のかかった石垣<br />
<font size="2">角櫓台の上から撮ったものであるが、この横矢のかかった石垣が見事だ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162605765.jpg" />
</p>
<p>助左衛門御門跡<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162606531.jpg" />
</p>
<p>井戸<br />
<font size="2">歴史民俗資料館の前にある曲輪跡に残る井戸で、城内でも最古に属する井戸である。松阪公園内には。
この井戸と、本丸上段部と隠居丸庭園内の３ヶ所に江戸時代以来の井戸が現存する。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162608546.jpg" />
</p>
<p>二の丸石垣<br />
<font size="2">松坂城の高石垣は、本丸石垣だけでなく二の丸の高石垣も素晴らしい。左写真は、二の丸東面の石垣で、
右写真は二の丸南面の石垣である。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162609375.jpg" />
　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162610781.jpg" /></p>
<p>隠居丸～裏門～二の丸にかけての高石垣<br />
<font size="2">この隠居丸～裏門～二の丸にかけて長く続く高石垣は見応え満点だ。奥の木がなかったら、
もっとよく見えるのだが・・・。</font><font size="3"><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162611515.jpg" />
</font></p>
<p>【武家屋敷（御城番長屋）】<br />
<font size="2">武家屋敷は、紀州藩士の組屋敷として建てられ、御城番屋敷と呼ばれた。
武家屋敷が長屋になっている例は全国的にも極めて珍しく、松阪を代表する景観である。現在も住居として使われているその建物は、
生垣の奥に控えた旧武家らしい佇まいを現在に至っても保っている。</font><br />
（二の丸上から）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162612265.jpg" />
</p>
<p>（城側から）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162612984.jpg" />
</p>
<p>（武家屋敷から裏門方面を眺める）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100301T162615812.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#FF0000">★★★★★</font>　蒲生氏郷の築城、
江戸期は紀州徳川家の領地となり城代が置かれた</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>伊勢　津城（津市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_136.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=255" title="伊勢　津城（津市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2006://2.255</id>
    
    <published>2010-02-28T09:50:29Z</published>
    <updated>2010-02-28T09:57:36Z</updated>
    
    <summary>1-50-100</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="34mie" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>模擬三階櫓</p>
<h3>築城の名手・藤堂高虎が大修築して入城した津藩３２万石の城</h3>
<h3>別名</h3>
<p>安濃津城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>三重県津市丸之内</p>
<h3>形状</h3>
<p>平城</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：本丸と西の丸は公園<br />
遺構等：本丸丑寅櫓跡に模擬三重櫓、本丸南西隅に大･小天守台、本丸と西の丸の石垣が現存、北･西側の堀が現存、
西の丸跡に藩校有造館の入徳門を移築、その他に曲輪跡</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００２／０４／３０<br />
２０１０／０２／０８</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>津は古くは安濃津と呼ばれ、港であり、政治、軍事の中心地でもあり鎌倉時代には長野氏が拠り、永禄年間に長野氏の一族・
細野藤敦が城を築いたのが始まりとされる。<br />
長野氏当主は、北畠具教の子具藤であった。具藤には力はなく、細野藤敦が睨みを利かせていた。永禄１１年（１５６８）
織田軍は藤教の城を攻めたが落とせなかった。そこで、信長は縁者を使い藤教を説得し、具藤と藤教の仲を裂き、
信長の北伊勢攻略責任者の滝川一益の子を信長養子にして、藤教の跡継ぎにしたという。<br />
こうして、安濃津城に弟の織田信包を入れた。信包は城を拡張整備して、五層の天守を築き、１５万石を領した。城は、元亀年間
（１５７０～１５７３）には着工したが、兄信長に従い各地を転戦していたため、完成は天正８年（１５８０）になった。<br />
信包は信長の死後秀吉に仕えたが、「朝鮮の役」で秀吉の機嫌を損ね、文禄３年（１５９４）丹波柏原に減封となり、
替わって冨田知信が５万石で入った。<br />
子の信高の時に、「関が原の戦」を迎えることとなった。信高は石田三成と仲が悪く徳川家康に味方し東軍に属した。伊勢は、
三成らの西軍にとって、喉から手が出るほど欲しい場所で、そのため、前哨戦で毛利秀元に激しく攻められ津城は落城したが、
西軍足止めの功により、２万石加増された。<br />
慶長１３年（１６０８）富田信高は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/60shikoku/63ehime/post_402.html">伊予宇和島</a>へ１２万石で転封となり、
 <a href=
"http://castle.slowstandard.com/60shikoku/63ehime/post_398.html">伊予今治</a>から藤堂高虎が伊賀伊勢２２万石
（後に１０万石加増）の領主として入った。元来５万石程度の城に３２万石の大名が入り、それも築城名人の藤堂高虎である。
一挙に数倍の城に築き直してもよさそうだが、実際には、当初は支城（後に本城とする・当初の本城は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_144.html">伊賀上野城</a>）
とし、有事の際には<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_144.html">伊賀上野城</a>を使うことにして、
津城には大きな改修を施すことはなかった。また、織田氏時代にあった五層の天守閣も再建しなかった。<br />
藤堂氏は、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_741.html">久居藤堂</a>・
 <a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_868.html">名張藤堂</a>と支藩を置き、
 <a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/34mie/post_144.html">伊賀上野城</a>に城代を置いて領内治世を行った。
藤堂氏は、江戸時代を通じて津城を動くことなく１１代２６３年で明治維新を迎えた。<br />
『「日本の名城・古城もの知り事典（主婦と生活社刊）」、「日本百名城・中山良昭著（朝日文庫刊）」参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>築城の名人･藤堂高虎が築いた城にしては非常に小規模であり、その上、内堀も埋め立てられて、
往時と較べると幅が狭くなっているとのことであるが、その石垣は結構高く、水堀に映えてなかなかのものである。<br />
現在は、本丸と西の丸部分だけが残り、公園として整備されている。本丸内は近代的な洋風庭園になっている。
南西隅には天守台も残っているがこの天守台は階段がなく登ることが出来ない。西の丸は日本庭園でここには藩校の「入徳門」が移築されている。
<br />
全体的に、市街地のど真ん中にあるわりにはよく遺構が残っている方であろう。それなりに見て廻って満足出来る城址である。<br />
（２００２/０４／３０，２０１０／０２／０８に訪城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張図（現地説明板より）　　～クリックにて拡大画面に～<br />
<a href=
"http://Castle.slowstandard.com/photos/main_pic/tu-ezudai.jpg"><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185033312.jpg" />
</a></p>
<p>天守台<br />
<font size="2">本丸南西隅にあるが、石段等がなくて、登ることができない。
写真右に途中まで登る石段が付いているんだけどねえ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185034203.jpg" />
</p>
<p>明治初め頃の本丸北石垣上に建つ「丑寅三重櫓（手前）」と「戌亥櫓（奥）」<br />
<font size="2">説明板にあった写真を撮ったものであるが、今は、次段のように石垣と内堀が残るのみ。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185034953.jpg" />
</p>
<p>本丸北側の石垣と内堀<br />
<font size="2">往時は、上写真のように三重櫓が２基も。また、水堀も説明板の図（最上段の図）を見ると、
埋め立てられて３分の１ほどの幅になっているようで。今でも結構立派な堀だから、往時の堀は見事なものであっただろう。
</font><br />
&nbsp;<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185036281.jpg" /></p>
<p>本丸模擬三重櫓<br />
<font size="2">ここは丑寅三重櫓続多聞櫓のあった所で、外観も史実に沿ったものではない。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185037015.jpg" />
</p>
<p>月見櫓跡<br />
<font size="2">本丸南東隅にある。往時は手前な水堀で囲まれていたんだけど・・・。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185038281.jpg" />
</p>
<p>本丸埋門<br />
<font size="2">本丸南面の天守台の近くに位置する。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185039031.jpg" />
</p>
<p>本丸跡に建つ藤堂高虎像<br />
<font size="2">本丸埋門を入って右前方、天守台の近く</font><font size="2">北東に建っている。
<br /></font> <img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185039796.jpg" />
</p>
<p>西の丸枡形門跡<br />
<font size="2">西の丸南西隅にあり、往時は玉櫓と二階門があった。<br /></font><img border=
"0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185040625.jpg" /></p>
<p>藩校有造館の入徳門（西の丸跡に移築）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185041937.jpg" />
</p>
<p>西の丸北側から本丸北側にかけての水堀<br />
<font size="2">非常に広いが、これでも往時の半分以下だ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T185042671.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆　築城の名手・
藤堂高虎が大修築して入城した津藩３２万石の城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　安土城（安土町）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_145.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=224" title="近江　安土城（安土町）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2006://2.224</id>
    
    <published>2010-02-28T07:48:56Z</published>
    <updated>2010-02-28T07:54:18Z</updated>
    
    <summary>2-40-100</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>真っ直ぐに伸びる大手道</p>
<h3>信長が日本城郭史に大変革をもたらした天守の出現</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県蒲生郡安土町豊浦</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高：１９９ｍ、比高差：１１２ｍ）</p>
<h3>現状・遺構</h3>
<p>天守曲輪跡に天守台（礎石が現存）、本丸御殿跡、二の丸跡に信長廟（秀吉が築造）、天守台・本丸・二の丸の石塁、黒金門枡形の石垣、
聰見寺の現存三重塔・現存仁王門・本堂跡地</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#FF0000">★★★★★</font></p>
<h3>訪城日</h3>
<p>１９８９／１１／１１<br />
１９９０／０８／２７<br />
１９９７／０８／０２<br />
２００４／１１／２７<br />
２００５／０６／０４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>天正４年（１５７６）織田信長が丹羽長秀を普請奉行に命じて築城を始め、天正７年（１５７９）には、
山頂に５層７階の豪壮華麗な大天守が完成。<br />
天正１０年（１５８２）、本能寺の変で信長･信忠父子が討たれ、山崎の合戦の後に焼失している。<br />
焼失の原因は、この頃安土城にいた明智秀満（光秀の女婿）が山崎敗戦の報に触れ、城に放火して坂本城に避難したとも、
秀満退避後に入城した織田信雄（信長の次男）が火を放った、或いは、一揆の手による等々、諸説があるが、真相は不明である。</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>近世城郭の礎となった城であり、まさに信長の城郭建築の集大成とも云える城であろう。私が、城址に興味を持ったのも、
1989/11/11の琵琶湖旅行の途中にたまたま近くを通り、登城したのがはじまりである。始めて登城したときのことは、
今でも鮮明に憶えている。百々橋口から登り始めたが、両側には石がゴロゴロ転がっていた。また、よく見ると石垣らしきものが、
茫々に生えている草の間から垣間見える。そして、摠見寺の三重の塔の所から眼下に見える琵琶湖と広々と拡がる平野を見て、「信長も、
ここから見える全てが自分のものだ！　天下は俺のものだ！」また、「秀吉も、信長がここから見えることを計算ずくで、今浜（長浜）
から延々と続く土産物持参の長蛇の行列で登城したんだろうな」等と妄想をしたものである。そして天守閣跡にある礎石や、
大手道を降りていく時に見た秀吉や利家等の屋敷跡やボランティアの方が木の根っこの絡みついた石の周りを古代遺跡を掘るように丁寧にヘラで掘り起こしているのを見て、
「滅びの美」を感じた。<br />
（1989/11/11に初めて登城して）</p>
<p><br />
その後、何度も登城したが、１９９７／０８／０２に３回目の登城した時に、大手道を見て、
あまりにも綺麗に整備されているのには驚きとともに失望も感じた。<br />
確かに正確に復元されてはいるが、初めて見た時の、あの「滅びの美」とは、あまりにもかけ離れていたからである。<br />
とは云いながら、整備された大手道は素晴らしいものであり、まさに信長のすごさ（権力等々も含め）を見る思いであり、
これはこれでいいのかなと思い直した。<br />
こうなれば、天主閣はともかくとして、さらに正確な復元を進め、他の登城道からも登れるようにしてほしいものである。本当に、
何度来てみても素晴らしい。尚、登城道は、大手道・百々橋口・松源院・搦手・七曲道があるらしいが、安土山は摠見寺と個人の持ち山で、
山内を自由に歩き回ることは出来ない。登り口は大手道と百々橋口に限られている。<br />
<br />
私が、城好きになった原点の城である。<br />
最近、随分、復元整備され、入城料（拝観料というらしい）までとっていると聞いた。近くの城址へ登城したので、
折角だから山麓まで行ってみたら、山麓の、石垣が見事に復元されていた。<br />
また、安土駅の信長像の写真を撮り、城郭資料館へも寄り、２０分の１で再現？されたという天守閣の模型も。<br />
（２０１０／０２／０７）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>安土城山麓<br />
<font size="2">山麓の石垣が見事に復元整備されていた。（２０１０／０２／０７）</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T164915250.jpg" />
</p>
<p>登城口（正面石段が大手道）<br />
<font size="2">この手前に料金所があり、入城料（拝観料というらしい）５００円をとるのだ。信長さんも、築城後に、
町の人間から見学料をとってお披露目をしたそうだから止むを得ない？？（２０１０／０２／０７）</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T164916140.jpg" />
</p>
<p>伝前田利家邸跡<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105905578.jpg" />
</p>
<p>伝豊臣秀吉邸跡<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105906390.jpg" />
</p>
<p>大手道の上の方からの眺望　　～クリックにて拡大画面に～<br />
<a href=
"http://Castle.slowstandard.com/photos/main_pic/azuti-akikesiki.jpg">
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105907046.jpg" />
</a></p>
<p>信長の足跡と云われる石？<br />
<font size="2">そんな訳がなく、釈迦の足跡といわれる仏足石である。この石は石垣を作る際に墓石，
石仏及び石塔などと一緒に、石材として用いられたものであると考えられている。<br /></font><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105907578.jpg" /></p>
<p>黒金門付近の虎口<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105908203.jpg" />
</p>
<p>二の丸<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105908734.jpg" />
</p>
<p>信長廟<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105909250.jpg" />
</p>
<p>本丸御殿跡<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105912062.jpg" />
</p>
<p>天守曲輪の石垣<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105913859.jpg" />
</p>
<p>天守閣の礎石と周囲をめぐる石塁<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105914734.jpg" />
</p>
<p>摠見寺の三重塔<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105915312.jpg" />
</p>
<p>摠見寺跡からの眺望<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105917734.jpg" />
</p>
<p>摠見寺の仁王門<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20060128T105919203.jpg" />
</p>
<p>㊧安土駅前に立つ「信長像」、㊨駅近くの城郭資料館内の安土城模型<br />
<font size="2">安土駅前には信長の銅像、駅の反対側には城郭資料館、駅前の案内所も安土城天守を模した建物で、
安土駅は信長一色だ。せっかくだから、観音寺城もすぐ近くにあるのだから、少し宣伝したらいいのに。それにしても、安土城は、
こんな姿をしていたの？再現というよりイメージ像でしょうか。多くの点が分かっていないというのが本当のところだと思うんだけど。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T164917000.jpg" />
 　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T164917640.jpg" /></p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#FF0000">★★★★★</font>　信長が日本城郭史に大変革をもたらした天守の出現</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　佐生城（東近江市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_1002.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1541" title="近江　佐生城（東近江市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1541</id>
    
    <published>2010-02-28T05:55:39Z</published>
    <updated>2010-02-28T05:58:54Z</updated>
    
    <summary>2-80-050</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>南西角の算木積みの高石垣</p>
<h3>六角氏重臣後藤氏の城、観音寺城防衛の出城か</h3>
<h3>別名</h3>
<p>佐野山城、佐生日吉城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県東近江市佐生町、五個荘日吉町<br />
【行き方】<br />
佐生城への、一番分かり易い登城道は「能登川ひばり保育園」の南にある上山天神社の鳥居の奥の道から「北向岩屋十一面観音」
へ至る急斜面で九十九折の登山道を７００ｍほど車で登ると「十一面観音」の石段下に駐車場がある。ここに「佐生日吉城３７０ｍ」
の案内板がある。ここからは、ほとんど下り坂である。</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高１５８ｍ）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、石垣、竪堀、堀切、土橋、石碑</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#98FB98">★★</font>☆☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／０７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>佐生城（さそうじょう）は観音寺城が構えられた繖山（きぬがさやま）の北方に派生する佐生山山頂に築かれている。<br />
城主は、佐々木六角氏の重臣で、東近江市中羽田に居館を構えていた後藤氏であった。<br />
後藤氏は、新藤氏とともに「佐々木の双藤」と称される重臣であり、六角義賢（承禎）から家督を継いだ義治が、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_177.html">観音寺城</a>内で後藤賢豊を謀殺したことにはじまる、
観音寺騒動でも知られる。<br />
佐生城は、後藤氏の居館から１２ｋｍも離れており、詰の城とは言い難く、後藤氏が城主というよりも、
守備大将として城を預かっていたと考えられる。<br />
つまり佐生城は、和田山城や箕作山城とともに、北方からの進撃に対して、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_177.html">観音寺城</a>防衛戦略の一角として後藤氏が築いた城であったと思われる。
佐生城が小規模な単郭構造の城であったにも関わらず高石垣を築いている点でも、ここが総石垣造りの<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_177.html">観音寺城</a>の出城的機能を担っていたことを裏付けている。
<br />
『「近江の山城・中井均著（サンライズ出版刊）」、「日本城郭大系１１」等参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>佐生城（さそうじょう）は、東西約６０ｍ、南北約４０ｍの三角形をした基本的には単郭構造の小規模な城郭であるが、
南面の高さ２ｍ～４ｍ、長さ５０ｍ近い石垣は見事である。<br />
特に、西端部は、屈曲して横矢がかかるようになっており、隅石には巨石が用いられた算木積みの本格的な石垣である。
この石垣だけでも必見である。<br />
東側は虎口となり、この両側にも石垣が残っている。石垣が築かれているのは、南東面だけなのか、北側側面へ廻ってみたが確認できなかった。
<br />
主郭内は低い土塁で囲まれた浅いすり鉢状になっており、中央に「後藤但馬守城址」の石碑が立っている。<br />
（２０１０／０２／０７登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>登城口<br />
<font size="2">「北向岩屋十一面観音」の石段下に駐車場がある。ここに「佐生日吉城跡３７０ｍ、佐生集落８６５ｍ」
の案内板がある。ここからは、ほとんど下り坂である。<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145517093.jpg" />
</font></p>
<p>巨岩の関所？<br />
<font size="2">登城口から下り坂を歩き始めて４分ほど経つと、天然の虎口のような巨岩が現われる、
さらに１～２分ほど下ると、またまた巨岩の虎口？が現われる。この西尾根には、堀切など一切なく、唯一この巨岩が防衛施設？　下り坂なので、
逆に、敵にここに詰められたらひとたまりもない感じだ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145520218.jpg" />
　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145521531.jpg" /></p>
<p>突然、石垣が<br />
<font size="2">さらに尾根を下って行く。あまりにも下り坂ばかりなので心配になってくる頃（上２つ目の巨岩から約４分）、
突然、目の前に石垣が現われ、ホッとする。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145522421.jpg" />
</p>
<p>算木積みの石垣<br />
<font size="2">石垣に近寄って見て見ると、角の部分はバラツキはあるが、巨石を用いた算木積みの本格的な石垣である。
高さも４ｍ近くあり、高石垣といえるだろう。右奥（南面）を見ると、石垣は長～く続いている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145523265.jpg" />
</p>
<p>石垣の長さは５０ｍ近い<br />
<font size="2">南面の石垣は、５０ｍ近くも続き、西部分は５ｍほどの切岸の上に築かれている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145524265.jpg" />
</p>
<p>南面の石垣を東から<br />
<font size="2">南面石垣は、西部分が切岸の上に築かれているのに対して、東部分は犬走り？の上に直接築かれている。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145525125.jpg" />
</p>
<p>東側の虎口<br />
<font size="2">郭への虎口は（写真の右の方）、東側にも開けており、その両側にも石垣が残っている。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145525859.jpg" />
</p>
<p>東面の石垣<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145526671.jpg" />
</p>
<p>副郭<br />
<font size="2">基本的に単郭の城郭であるが、東側虎口の前方（東）も曲輪のようで、狭いながらも削平地になっている。
この写真は、東側虎口上から撮ったもの。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145527437.jpg" />
</p>
<p>主郭と主郭中央に立つ石碑<br />
<font size="2">主郭内は低い土塁で囲まれた浅いすり鉢状になっており、「後藤但馬守城址」の石碑が立っている。
<br /></font> <img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145528343.jpg" />
　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T145529031.jpg" /></p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#98FB98">★★</font>☆☆☆　六角氏重臣後藤氏の城、観音寺城防衛の出城か</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　山崎山城（彦根市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_1001.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1540" title="近江　山崎山城（彦根市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1540</id>
    
    <published>2010-02-27T15:25:31Z</published>
    <updated>2010-02-27T15:29:33Z</updated>
    
    <summary>2-10-800</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>山頂部最東端の石垣</p>
<h3>信長が整備した下街道の監視の役割を担う城か</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県彦根市稲里町、清崎町、賀田山町<br />
【行き方】<br />
県道２０５号「賀田山町信号」から２００ｍ程西進して宇曽川に架かる「新大山橋」を渡る。渡ってすぐを右折し、
宇曽川沿いに２００ｍ程北上し、最初の路地を左折する。２００ｍ程西進すると左手に登城口があり、専用駐車場と説明板がある。</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（比高約５０ｍ）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：城址公園<br />
遺構等：曲輪、石垣、土塁、虎口、説明板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#98FB98">★</font>☆☆☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／０７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>山崎山城は、在地土豪の山崎氏の居城と伝えられる。山崎氏は、六角氏の庶流で山崎山周辺の勢力を維持していた。<br />
後に、浅井氏に付いたが、織田信長の近江侵攻後は、これに従っている。<br />
織豊政権下でも存続し、摂津三田に移封されたが、近世まで至った。<br />
城は、安土城の築城後に信長が整備した下街道（現在の県道２号線、通称朝鮮人街道）を見下ろす丘陵地にある。信長の政策の下で、安土・
佐和山の中継点、且つ下街道の監視の役割を担っていたと考えられる。<br />
『「近江の山城・中井均著（サンライズ出版刊）」、「現地説明板」他参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>昨夜来からの大雪と深酒による体調を考慮して、朝一番は、公園として整備されたと聞いた山崎山城へ登城することにした。<br />
２０ｃｍ近くの積雪であったが、登り口から道が綺麗に整備されているので、難なく頂上の削平地まで登ることができた。<br />
ところが、登ってビックリ！　削平地があるだけで城址とは思えないような光景。<br />
本物とは思えないような、僅かな石垣等はあるものの、縄張は勿論、遺構などもどうなっているのかよく分からない。
東面や北面で検出された石垣も大半が埋められてしまったそうだ。<br />
城址公園というより、単に眺望の良い公園といった感じだ。<br />
積雪で埋もれていたり、また雪で滑るので危険なため、端の方へは行けず、廻りきれなかったこともあるかもしれないが、
公園の整備の仕方に大きな問題があるようだ。<br />
（２０１０／０２／０７登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>平面図（現地説明板より）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002508823.jpg" />
</p>
<p>登城口<br />
<font size="2">昨夜からの大雪で、およそ２０ｃｍの積雪も、道が整備されているようだから大丈夫だろう。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002511838.jpg" />
</p>
<p>山頂部へ<br />
<font size="2">登城口から登ること約８分で、山頂部最東端の石垣が見えてくる。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002512494.jpg" />
</p>
<p>最東端部の石垣<br />
<font size="2">最初に、この石垣を見た時、まさか遺構とは思わなかった（苦笑）</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002513338.jpg" />
</p>
<p>山頂部の曲輪を<br />
<font size="2">山頂部は、ただの平坦地。これを見て、誰も城址だとは思わないだろう！？</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002514182.jpg" />
</p>
<p>山頂部東端から北東方面の眺望<br />
<font size="2">城址は兎も角、山頂からの眺望は素晴らしい。伊吹山もよく見える。勿論、
彦根城や佐和山城もよく見えるはずだが、目の悪い私にはよく分からなかった（汗）<br />
私には、とても下街道の監視の役目は務まらず、当時なら信長に打ち首にされそうだ（笑）</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002514932.jpg" />
</p>
<p>西端の櫓跡<br />
<font size="2">この位置は尾根最高部の一郭にあたり、
敵の侵入を防ぐため尾根を防ぐように構築された約１２ｍ四方のコの字状をした石垣が２・３段残されています。この遺構は、
枡のような四角い形（枡形）をしていたことから、築城時には櫓があったのではないかと考えられます。（説明板より）
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002516057.jpg" />
</p>
<p>櫓跡から南西方向を<br />
<font size="2">南西方向には観音寺城と安土城が見える。多分、写真の山が、それだと思うが・・・？
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002516760.jpg" />
</p>
<p>西尾根は<br />
<font size="2">山崎山城は、南北は急崖に、東は宇曽川へ向かって急激に落ち込んでおり、尾根続きは西尾根だけである。
櫓台のすぐ下は、尾根の両側に竪堀が設けられて堀切のようになっている。その先にも、何らかの遺構はあるのだろうけど、
給水タンクが建設されてしまっている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002517448.jpg" />
</p>
<p>竪堀<br />
<font size="2">約２ｍと大変浅い竪堀であるが、説明板によると、最高部の第一郭の石垣との高低差は約４ｍあるので、
少ない労力で防衛力を高められるよう、この山の地形特性を最大に生かしているんだそうです。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002520651.jpg" />
</p>
<p>西尾根から櫓跡を<br />
<font size="2">櫓台のこちら側からも石垣が検出されたそうだが、大半が埋め戻されたようで往時の様子が分からないが、
少なくとも、写真のように土橋を渡って櫓台を直登することはなかっただろう（笑）</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100228T002521963.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#98FB98">★</font>☆☆☆☆　信長が整備した下街道の監視の役割を担う城か</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　水口岡山城（甲賀市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_1000.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1539" title="近江　水口岡山城（甲賀市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1539</id>
    
    <published>2010-02-27T07:27:09Z</published>
    <updated>2010-02-27T07:37:12Z</updated>
    
    <summary>4-20-010</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>本丸北面に一部残る石垣と本丸切岸</p>
<h3>甲賀破儀後、甲賀郡支配の拠点として中村一氏により築かれた城</h3>
<h3>別名</h3>
<p>水口城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県甲賀市水口町（古城山）<br />
【行き方】<br />
水口小学校の西１００ｍ（国道３０７号線沿い）に専用駐車場（古城山の西麓になる）がある。そこから古城山へ登る道があり、
石碑と説明板が立っている。登城口は、他に城山中学校の南側にもあるが駐車場はない。<br />
水口小学校：水口町本町１－２－１、電話０７４８－６２－０１２１</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高２８３ｍ、比高約１００ｍ）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：県立自然公園郷土の森<br />
遺構等：曲輪、土塁、石垣、虎口、堀切、空堀、竪堀、石碑、説明板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>戦国時代、甲賀郡は甲賀郡中惣と呼ばれる同盟体が形成されていた。郡中惣は織田信長の侵攻によって弱体化し、天正１３年（１５８５）
羽柴秀吉により解体されてしまった（甲賀破儀）。<br />
その後、甲賀郡に領地を与えられたのは、秀吉の腹心で、甲賀武士・滝氏の一族出身とも云われる中村一氏である。<br />
一氏は、秀吉の命を受け、甲賀郡の支配拠点として、古城山（大岡山）に本格的な城を築いた、これが水口岡山城であり、
往時は単に水口城と呼ばれていた。<br />
築城にあたっては、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_988.html">三雲城</a>
（湖南市）、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_549.html">大溝城</a>
（高島市）、矢川神社別当寺教覚坊・円乗坊（甲賀市甲南町）等から資材が運ばれたと云われる。<br />
天正１８年（１５９０）、一氏は小田原の役の戦功により<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_107.html">駿府城</a>
（静岡市）に転封され、代わって増田長盛が入城、さらに文禄４年（１５９５）には長束正家が入城した。
長盛も正家も豊臣家五奉行を務めた人物であり、この地が豊臣政権にとって重要な地と認められていたのであろう。<br />
慶長５年（１６００）の関ヶ原合戦で、正家は西軍に与して敗れ、帰城したが、甲賀武士池田備中守に攻められ落城した。城は東軍に接収され、
やがて廃城となった。<br />
寛永１１年（１６３４）、水口岡山城の西方約１ｋｍの位置に徳川氏によって<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_526.html">水口城</a>が築かれたが、
この時に、水口岡山城から石垣が搬出されたと云われる。<br />
『「近江の山城・中井均著（サンライズ出版刊）」、「現地説明板」、「日本城郭大系１１」等参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>水口岡山城は野洲川右岸の独立丘陵古城山に位置する山城で、今は「県立自然公園郷土の森」
として綺麗に整備され散策しやすくなっているが、その整備のやり方は城址としては？？<br />
縄張は、東西に延びた尾根を削平し、主郭を中心に西側に西郭が、東側に二郭・三郭・四郭が連郭式に繋がり、それぞれが堀切で遮断されている。
主郭から三郭の下にかけては通路状の帯郭がある。主郭の南側山腹には高低差を利用した枡形虎口がある。<br />
城山の周囲は急峻な断崖になっているが、不規則に竪堀が設けられ、さらに郭の側面は削られて急傾斜の切岸となっている。<br />
また主郭は総石垣であったと考えられているが、それを裏付けるように北面には石垣が一部残存している。<br />
このように、水口岡山城址は、中世の城郭では多用されたが、織豊期から近世にかけて、次第に淘汰されていった堀切や竪堀が多く残ると同時に、
石垣や技巧的な虎口や天守台と考えられる遺構が共存する。中世城郭から近世城郭への過渡期の城と言えるであろう。<br />
（２０１０／０２／０６登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張図（現地説明板より）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T163226119.jpg" />
</p>
<p>登城口<br />
<font size="2">国道３０７号線沿いにある専用駐車場に車を停めて、古城山の西麓から登城する。
ここには石碑と説明板が設置されている。益々雪がはげしく降り始め、気温もどんどん下がり１℃。
同行のＭａっさんもマフラーまでつけて寒さ対策はバッチリ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162645713.jpg" />
</p>
<p>西郭<br />
<font size="2">整備された道を登り始めて１５分ほどで、西郭へ着くと、正面に主郭が見えてくる。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162648291.jpg" />
</p>
<p>主郭と西郭間の堀切<br />
<font size="2">遊歩道整備で土橋が架けられ、主郭側の切岸部分は改変されているそうだ。主郭側は堀底から１０ｍほどある。
<br /></font> <img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162649073.jpg" />
</p>
<p>石垣見学コース<br />
<font size="2">上写真の階段を登って行くと、左手に「石垣見学コース」なんてのが現われる。
主郭帯曲輪を通って行くようだが、取り敢えずは、主郭を目指して、真っ直ぐ登って行く。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162649979.jpg" />
</p>
<p>本丸櫓跡？ｏｒ天守台？<br />
<font size="2">階段を登りきると主郭である。主郭入口（最西端）には「展望広場」と書かれた模擬冠木門が建ち。
左手が少し高くなっている。紀念碑の横に２０～３０ｃｍほどの白い小さな杭が立ち、「伝本丸櫓跡・天守とする説あり」とあった。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162650885.jpg" />
</p>
<p>主郭<br />
<font size="2">主郭は、東西１２０ｍ×南北２５ｍほどの非常に細長い郭であるが、かなり改変されていそうだ。
<br /></font> <img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162651635.jpg" />
</p>
<p>伝天守台跡<br />
<font size="2">主郭の最東端もやや高くなった土壇が残り、ここにも白くて小さな杭に「伝天守」とあった。
それにしてもチャチな案内板だ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162652385.jpg" />
</p>
<p>主郭北面（北西部）の石垣<br />
<font size="2">一旦、先ほどの「石垣見学コース」と書かれた模擬冠木門に戻り、帯曲輪を通って、北側へ廻った。
切り取った木の枝と雪に隠れた石垣を発見。それにしても、こんなところに木の枝を置きっ放しにするとは（怒）<br />
僅かに残った石垣は兎も角、ここから眺める主郭の切岸（ＴＯＰ写真参照）は見事で、明らかに近世の城郭の形をしている。往時は、
高石垣が築かれていたのだろう。ここにも「本丸石垣跡」と書かれた、例のチャチな白い杭が草に隠れて立っていた。<br />
本来は、ここから主郭下の細い帯曲輪を通って東の方へ行けるようだったが、木の枝が邪魔なのと雪で滑りやすいようだったので、
主郭上を通って行った。<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162653104.jpg" />
</font></p>
<p>主郭北面（北東部）の石垣<br />
<font size="2">こちらの石垣は、よ～く注意をして見ないと見逃すほどだ。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162654026.jpg" />
</p>
<p>主郭と二郭間の空堀<br />
<font size="2">この空堀は、実に綺麗に残っている。ただ、幅が２０ｍ以上もある空堀なのに深さは５ｍほどしかないが、
往時は水堀になっていたのだろうか？最も、二郭や主郭上との高低差は１０ｍほどあるようなので大丈夫？</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162654901.jpg" />
</p>
<p>二郭<br />
<font size="2">南北３０～３５ｍ、東西４０～５０ｍほどの広さがある。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162655635.jpg" />
</p>
<p>二郭と三郭間の堀切<br />
<font size="2">この堀切は、幅７～８ｍ、深さ約４ｍほどあり、二郭と三郭を完全に断ち切っている。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162656338.jpg" />
</p>
<p>三郭<br />
<font size="2">南北約３０ｍ、東西約６０ｍほどの広さである。<br /></font><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162657088.jpg" /></p>
<p>三郭から四郭を見下ろす<br />
<font size="2">三郭と四郭との高低差は１０ｍ以上あり、往時は、その間も堀切で断ち切られており、
今も僅かながら窪みがある。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162657760.jpg" />
</p>
<p>四郭から三郭を見上げる<br />
<font size="2">四郭から見上げる三郭の切岸は実に迫力がある、</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162658448.jpg" />
</p>
<p>竪堀<br />
<font size="2">この竪堀は、四郭から山麓まで落ちていっているものである。左写真は山腹から四郭上まで伸びているもので、
右写真は山腹から山麓へ落ちていっているものである。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162659119.jpg" />
 　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T162659901.jpg" /></p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆　甲賀破儀後、
甲賀郡支配の拠点として中村一氏により築かれた城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　望月支城（甲賀市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_999.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1538" title="近江　望月支城（甲賀市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1538</id>
    
    <published>2010-02-27T00:16:22Z</published>
    <updated>2010-02-27T00:19:15Z</updated>
    
    <summary>4-20-321</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>周囲を土塁がめぐる主郭</p>
<h3>甲賀郡中惣の城の一つ、甲賀の土豪望月氏の居城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県甲賀市甲南町杉谷<br />
【行き方】<br />
県道１３２号線と県道３３７号線（広域農道）が交わる「杉谷南信号」から県道３３７号線（広域農道）
を南へ１００ｍ進むと西へ入る路地がある。路地へ入り、２００ｍほど進んだ左手（南）の森（小山）が望月城と望月支城。
森の北側に駐車できるスペースがある。登城口は望月城址の東側へ廻る。<br />
望月支城への道はないようだったので、私は、望月城から望月支城とを隔てる谷へ一旦下りてから、急斜面を直登したが、
城跡の東側の道からも直登できそうだった。</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城（丘城）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、虎口、土塁、堀切、空堀</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#98FB98">★★</font>☆☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。<br />
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。<br />
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。
そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、
一族内の取り決めとして定められていた。<br />
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、
同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。<br />
望月支城もそのような甲賀郡中惣の城の一つで、望月支城は、室町時代に甲賀の土豪望月氏によって築かれたと云われる。<br />
尚、谷を挟んですぐ北には<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_998.html">望月城</a>があり、
望月支城は名前こそ支城となっているが、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_998.html">望月城</a>＝本城に対する支城ではなく、
同名中惣の性格を考えると、同じ一族の独立した城であり、外敵と戦う際には共に手を取り合って戦ったのであろう。<br />
『近江の山城・中井均著（サンライズ出版刊）より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>望月支城は、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_998.html">望月城</a>と連結する甲賀特有の二城連結城で、
丘陵の先端部分にあるのが<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_998.html">望月城</a>で、
その７０～８０ｍほど南にあるのが望月支城である。　　　　　　　　望月支城はへの整備された道はなく、私は、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_998.html">望月城</a>へ登城後、
両城を隔てる谷から直登した。<br />
望月支城も典型的な方形城館であるが、主郭周囲をめぐる土塁の高さが２～３ｍほどと低いため圧迫感というか迫力は感じない。<br />
一方、曲輪内部の広さは、土塁幅が薄いため、望月城に較べて広く、６５ｍ×６０ｍほどある。また、主郭南側にも広い曲輪がある。
<br />
西側には、西尾根からの攻撃を断ち切るための堀切がある。<br />
虎口は、東側と南側にあり、坂を登って入るようになっている。<br />
登城途中から、雪がちらつき始め、写真に雪が混じって参ったなと思っていたが、森の外へ出たら大雪になっていた（苦笑）<br />
（２０１０／０２／０６登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>主郭西の堀切<br />
<font size="2">主郭西側には、西尾根からの攻撃を断ち切るための堀切がある。幅１０ｍ、深さ７ｍ近くあるだろう。
雪がちらつき始め、写真に混じって困る～。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T091609203.jpg" />
</p>
<p>主郭東側の虎口<br />
<font size="2">虎口は、東側と南側にあり、坂を登って入るようになっている。ここを下りて、
城跡の東を通る道へ出ることができたので、逆に、ここへ直登も可能なのではと思う。<br /></font><img border=
"0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T091612312.jpg" /></p>
<p>主郭南側の虎口<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T091613046.jpg" />
</p>
<p>主郭南側の曲輪<br />
<font size="2">主郭の南下にも結構広い曲輪がある。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T091613796.jpg" />
</p>
<p>森の外は大雪！<br />
<font size="2">昨夜から降っていた雪が止んでよかったと思っていたが、登城中に、またちらついてきたと思っていたところ、
森の外へ出てみると、大変な降りようだった。一緒に付き合ってくれたＭａっさんの寒そうな姿です（笑）　この後、雪は益々、
本格的な降り方に・・・。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100227T091614546.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#98FB98">★★</font>☆☆☆　甲賀郡中惣の城の一つ、甲賀の土豪望月氏の居城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　望月城（甲賀市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_998.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1537" title="近江　望月城（甲賀市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1537</id>
    
    <published>2010-02-26T14:45:46Z</published>
    <updated>2010-02-27T00:23:55Z</updated>
    
    <summary>4-20-320</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>主郭西の二重堀切</p>
<h3>甲賀郡中惣の城の一つ、信長に追われた六角氏が頼った望月氏の城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県甲賀市甲南町杉谷<br />
【行き方】<br />
正福寺の北西約２００ｍ。県道１３２号線と県道３３７号線（広域農道）が交わる「杉谷南信号」から県道３３７号線（広域農道）
を南へ１００ｍ進むと西へ入る路地がある。路地へ入り、２００ｍほど進んだ左手（南）の森（小山）が城跡。
森の北側に駐車できるスペースがある。登城口は望月城址の東側へ廻る。</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城（丘城）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、虎口、土塁、堀切、空堀、土橋</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。<br />
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。<br />
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。
そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、
一族内の取り決めとして定められていた。<br />
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、
同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。<br />
望月城もそのような甲賀郡中惣の城の一つで、望月城は、室町時代に甲賀の土豪望月氏によって築かれたと云われる。<br />
永禄１１年（１５６８）、上洛を目指して近江に進軍してきた織田信長は守護六角氏を攻め、六角承禎（義賢）・義治は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_177.html">観音寺城</a>・
箕作山城を捨てて甲賀に脱出した。この時頼りにされたのが、甲賀地域で勢力を持っていたこの望月氏であった。<br />
尚、谷を挟んですぐ南には<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_999.html">望月支城</a>があり、
名前こそ支城となっているが、本城に対する支城ではなく、同名中惣の性格を考えると、同じ一族の独立した城であり、
外敵と戦う際には共に手を取り合って戦ったのであろう。<br />
『近江の山城・中井均著（サンライズ出版刊）より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>望月城は、甲賀の城の中でも典型的な方形城館である。<br />
主郭の広さは３０ｍ×３０ｍほどで、特別広くはないが、周囲を囲む高くそそり立つ土塁は圧巻である。その高さは、曲輪内からでも７ｍはあり、
角部は広くなっている。櫓でも建てられていたのであろうか。<br />
虎口は、東に向いて開いており、虎口北東前方には広い副曲輪があり、稲荷社の祠が祀られている。<br />
また、主郭北側にも低い土塁で囲まれた半月状の曲輪がある。<br />
主郭周囲は空堀がめぐっていたのであろうか、浅いながらも窪みになっている。<br />
また、西側には、西尾根からの攻撃を断ち切るための堀切が２本設けられ２重堀切になっている。この２本の堀切は深くて見応え充分だ。
<br />
これだけ見事な遺構が残っているのだから、説明板か標柱くらい設置して欲しいものだ。<br />
（２０１０／０２／０６登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>登城口<br />
<font size="2">登城口は城跡の東側にある。主郭への道は、それなりに整備されているが、標柱も説明板もないのが・・・。
</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234526109.jpg" />
</p>
<p>主郭東側の曲輪から主郭土塁を<br />
<font size="2">登城口から少し登ってくるとすぐに主郭前の曲輪跡へ出る。そこから見上げる主郭の土塁も見応えがある。
写真左の方に虎口が見える。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234527000.jpg" />
</p>
<p>主郭虎口<br />
<font size="2">主郭土塁の手前は、空堀があったのであろうか、浅いながらも窪んでいる。そして、
虎口へは土橋を渡って入って行く。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234527953.jpg" />
</p>
<p>虎口から主郭を<br />
<font size="2">虎口から入ると、主郭周囲を取り巻く高くそそり立つ土塁が目の前に現われる。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234528781.jpg" />
</p>
<p>土塁上から主郭を<br />
<font size="2">主郭の広さは３０ｍ×３０ｍほどである。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234529593.jpg" />
</p>
<p>土塁上<br />
<font size="2">土塁は実に良好に残り、その高さは、曲輪内からでも７ｍほどあり、角部は広くなっている。
櫓でも建っていたのであろうか？<br /></font><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234530468.jpg" />　<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234531171.jpg" /></p>
<p>主郭東側の曲輪<br />
<font size="2">主郭の東側（虎口の北東前方）には広い曲輪があり、稲荷社の祠が祀られている。
この写真は主郭東側土塁上から撮ったものである。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234531875.jpg" />
</p>
<p>主郭北側の曲輪<br />
<font size="2">北側にも低い土塁で囲まれた半月状の曲輪がある。この写真は、主郭北側の土塁上から撮ったものである。
曲輪の手前には空堀も。<br /></font><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234533187.jpg" /></p>
<p>主郭土塁周囲の空堀跡？<br />
<font size="2">主郭土塁の周囲には空堀がめぐっていたのであろうか、浅いながらも窪みがあり、
その外側には低い土塁跡もある。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234534609.jpg" />
</p>
<p>主郭西側の二重堀切（主郭側）<br />
<font size="2">主郭の西側には、西尾根からの攻撃を断ち切るための堀切が２本設けられ２重堀切になっている。
この２本の堀切は深くて見応え充分だ。写真左側が主郭。<br /></font><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234535687.jpg" /></p>
<p>主郭西側の二重堀切（外側）<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T234536546.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆　甲賀郡中惣の城の一つ、
信長に追われた六角氏が頼った望月氏の城</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>近江　寺前城（甲賀市）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_997.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kimuriders.sakura.ne.jp/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1536" title="近江　寺前城（甲賀市）" />
    <id>tag:castle.slowstandard.com,2010://2.1536</id>
    
    <published>2010-02-26T06:41:41Z</published>
    <updated>2010-02-26T06:46:44Z</updated>
    
    <summary>4-20-307</summary>
    <author>
        <name>SlowStandard</name>
        
    </author>
            <category term="44shiga" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://castle.slowstandard.com/">
        <![CDATA[<p>主郭北西虎口前に架かる土橋</p>
<h3>甲賀郡中惣の城の一つ、村雨城との二城連結城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>滋賀県甲賀市甲南町新治<br />
【行き方】<br />
県道３３７号線の新治口信号を東へ入ると、すぐ右手に説明板と標柱があり、そこが村雨城への登城口。村雨城経由で行くことをお薦めする。
駐車場はないので、道端に停めた。</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城（丘城）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、虎口、土塁、堀切、空堀、標柱、説明板</p>
<h3>満足度</h3>
<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２０１０／０２／０６</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。<br />
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。<br />
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。
そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、
一族内の取り決めとして定められていた。<br />
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、
同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。<br />
寺前城（じぜんじょう）もそのような甲賀郡中惣の城の一つであるが、甲賀の城の中でも進化した築城技術が施されており、その背景には、
永禄１１年（１５６８）の織田信長の上洛に伴い、守護六角氏が甲賀杉谷へ逃避したことにより、
この地域に軍事的な緊張が生じたことが要因であると思われる。<br />
尚、城主などを知る記録類は残されておらず、詳細は不明である。<br />
『「近江の山城・中井均著（サンライズ出版刊）」、「現地説明板」より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>寺前城（じぜんじょう）は、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_996.html">村雨城</a>
（むらさめじょう）と連結する甲賀特有の二城連結城で、丘陵の先端部分にあるのが寺前城で、その５０ｍほど南にあるのが<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_996.html">村雨城</a>である。
<br />
寺前城の主郭は、２５ｍ×２０ｍの長方形で、東側を除く３方を土塁で囲んでいる。<br />
東側に土塁がないのは、谷（現在は用水の大谷池）となり防御の必要性が少なかったのか、崩壊（倒壊）したのであろうか？<br />
一方、南側の土塁は高く、土塁の外側斜面の中程に溝状の堀切があり、さらに、その下の方に大きな堀切が切られ、二重堀切になっている。
溝状の堀切は「武者隠し」なのかも？<br />
この城の注目すべきは、主郭までの進入経路の複雑さであろう。甲賀の土塁で囲まれた城は、平虎口を１箇所設けている城が多いが、寺前城は、
丘陵突端の登城口からなだらかな坂道を登り、丘陵先端の高台部分に出て、そこから１８０度折り返して、空堀の通路を行き、
さらに直角に曲がって土橋を渡り、やっと主郭北西部の喰い違い虎口へ至るのである。<br />
これほど、高度な防衛を意識した中世の甲賀の城館は珍しい。<br />
（２０１０／０２／０６登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張図（現地説明板より）　　　～クリックにて拡大画面に～<br />
<a href=
"http://Castle.slowstandard.com/photos/main_pic/murasame-ezudai.jpg">
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154123906.jpg" />
</a></p>
<p><a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_996.html">村雨城</a>と寺前城の全景<br />
<font size="2">右手前が<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_996.html">村雨城</a>で左奥が寺前城</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154125031.jpg" />
</p>
<p>主郭<br />
<font size="2">寺前城の主郭は、２５ｍ×２０ｍの長方形で、東側を除く３方を土塁で囲んでいる。
この写真は北東部土塁上から撮ったもので、左側が土塁のない東である。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154126125.jpg" />
</p>
<p>主郭南側土塁<br />
<font size="2">南側土塁が、北や西の土塁より高くなっている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154126890.jpg" />
</p>
<p>主郭南側土塁の斜面中程の堀切<br />
<font size="2">主郭南側土塁の外側斜面の中程に狭く浅い堀切があり、さらに、その下の方に大きな堀切が切られ、
二重堀切になっているが、この狭くて浅い堀切は「武者隠し」なのかも？<br /></font><img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154127984.jpg" /></p>
<p>大堀切<br />
<font size="2">この堀切は、かなり大規模である。<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/44shiga/post_996.html">村雨城</a>との間には、
もう一本堀切が切られている。</font><br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154128812.jpg" />
</p>
<p>主郭虎口への複雑な登城道<br />
<font size="2">当城の注目すべきは、主郭までの進入経路の複雑さであろう。丘陵突端の登城口からなだらかな坂道を登り、
丘陵先端の高台部分に出て、そこから１８０度折り返して、空堀の通路を行き、さらに直角に曲がって土橋を渡り、
やっと主郭北西部の喰い違い虎口へ至る。写真は、空堀横の通路（写真右）と左へ直角に曲がる土橋（中央奥）。<br /></font>
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154129562.jpg" />
</p>
<p>土橋<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154130593.jpg" />
</p>
<p>喰い違い虎口<br />
<img border="0"
     hspace="0"
     alt=""
     align="baseline"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20100226T154131578.jpg" />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><font color="#00FF00">★★★</font>☆☆　甲賀郡中惣の城の一つ、村雨城との二城連結城</p>]]>
    </content>
</entry>

</feed> 

