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      <title>登城記｜タクジローの日本全国お城めぐり</title>
      <link>http://castle.slowstandard.com/</link>
      <description></description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2009</copyright>
      <lastBuildDate>Thu, 02 Jul 2009 19:14:27 +0900</lastBuildDate>
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            <item>
         <title>駿河　興国寺城（沼津市）</title>
         <description><![CDATA[<p>本丸を取り囲む巨大な土塁</p>
<h3>北条早雲（伊勢新九郎）初めての城主</h3>
<h3>別名</h3>
<p>久窪城、根古屋城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>静岡県沼津市根古屋<br />
【登城口】<br />
県道２２号線と１６５号線が交差する根古屋信号の北側が城跡</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城</p>
<h3>現況・遺構</h3>
<p>現状：山林・畑・東海道新幹線にて分断<br />
遺構等：曲輪、土塁、空堀、天守台石垣、標柱、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>８点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００２／０８／１３<br />
２００９／０６／２７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>興国寺城は、伊勢新九郎（北条早雲）が、今川家の家督争いをおさめ、今川氏親を家督に据えた時の勲功の賞として与えられた城で、
早雲が伊豆の堀越公方足利茶々丸を攻めた時出陣した城で、早雲旗上げの城である。<br />
早雲が<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_100.html">伊豆韮山城</a>に移ってからは、
重臣・富永三郎左衛門が守っていた。<br />
この地は今川氏・武田氏・後北条氏の争奪の地で、その後、駿東郡一帯が今川義元の領国になるに従い、興国寺城も今川氏の支城となり、
天文１８年～同２１年（１５４９～１５５２）にかけて、城地を拡張している。<br />
次いで、永禄１２年（１５６９）からは後北条氏の支城となった。さらに、元亀２年（１５７１）頃からは武田氏の勢力が伸びてきており、以後、
天正１０年（１５８２）までは武田氏の領有となっていた。従って、城址の現状は、北条早雲の城というより、武田流築城術の色彩が濃い。
<br />
武田氏滅亡後は、徳川家康の領するところとなり、家康の家臣・牧野康成、松平清宗らが城代となっていたが、家康が関東に転封され、
秀吉の武将､中村一氏の家臣河毛惣左衛門尉重次が一時入っている。<br />
慶長５年（１６００）関ヶ原合戦の後､再び家康の属城となり､慶長６年（１６０１）から三河三奉行･
天野康景が一万石の大名として城主となったが､家臣である足軽が起こした事件の責任をとって（家臣を庇って）、出奔してしまい改易となり、
城も破却された。<br />
『静岡県古城めぐり（静岡新聞社刊）参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>興国寺城は、愛鷹山の舌状台地の先端部を利用して築かれた城で、北曲輪・本丸・二の丸・三の丸を連郭式に曲輪を配し、東・南・
西の三方を深田を利用して防備を固めた縄張りとなっている。<br />
今では、三ノ丸は宅地化してしまっているが、二ノ丸以上の城域はよく残っている。<br />
中でも、本丸を取り囲む巨大な土塁はよく残り、圧倒されるような迫力がある。そして、
その中心部の最も高い部分の伝天守台には石垣も残っている。<br />
また、天守台の奥（北側）にある空堀の規模は高さ約１０ｍ、上部幅約１０ｍはある大規模なもので、これまた見応え充分だ。<br />
その空堀の奥には北曲輪（通称：無名曲輪）があり､その奥（北側）のもう１本の空堀を新幹線が通っている。まさに諸行無常を感じる。
<br />
現在の城跡だと､それほどの要害には思えないが､当時は東・南・西の三方が沼地だったことを考えると､
そう簡単には攻められなかったであろう。<br />
今残る、城跡は、北条早雲時代のものというよりも、その後の、武田氏や江戸期に入ってからの改変の色彩が濃いが、早雲ファンは勿論、
そうでなくとも、是非登城することをお薦めしたい城址である。<br />
（2002/08/13、2009/06/27登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p><font size="3">二の丸から本丸方面を<br />
<font size="2">国道２２号線から入城すると、二の丸へと出る。二の丸から本丸方面を眺めると、
本丸を取り囲む巨大な土塁が見える。土塁の高さや長さは半端なのもではなく圧倒される。奥に見える北側土塁左側が西櫓台で本丸奥の森
（写真右奥）の上が天守台である。また、二の丸や本丸の広さもかなりのものだ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191100843.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>穂見神社<br />
<font size="2">本丸北側（天守台下）には穂見神社が建ち、その右（東）には「北条早雲碑」、「天野康景碑」、標柱、
説明板がある。<br /></font><font size="3"><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191102125.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>㊨北条早雲碑、㊧天野康景碑<br />
<font size="2">天野三郎兵衛康景は、岡崎三奉行の一人で、『彼是偏無し（どちへんなし）の三郎兵衛』
と評される公平な人物で、関ヶ原合戦後に興国寺城主となった。<br />
慶長１２年（１６０７）、家来の足軽が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件がおき、これが天領の農民であったため、
康景と代官の争いとなｔｔ。家康側近の本多正純が康景に足軽を差し出すように勧めたが、康景は足軽をかばって城を棄て、
行方をくらましたため、改易となり、興国寺城は廃城となった。<br /></font><img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191102859.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><br />
<strong>【土塁】</strong><br />
（本丸北側の土塁）<br />
<font size="2">本丸を囲む大規模な土塁は見事である。中でも、この北側土塁は城内側からでも高さ１０ｍほどあり、
幅も広く半端なものではない。写真奥が西櫓台、中央辺りの一番高い辺りが伝天守台。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191103828.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（東側土塁）<br />
<font size="2">この東側土塁から北側、さらには西側へと土塁が続いているのである。誠に、見事なものだ。土塁右側が本丸で、
本丸の向こうに二の丸、さらには半分ほど宅地化されてしまっている三の丸へと続く。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191104562.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（天守台）<br />
<font size="2">天守台上には多くの石が転がり、中には礎石のような石もある。写真奥は北曲輪。</font><br />
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191105437.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（天守台石垣）<br />
<font size="2">天守台城内側側面には石垣が残っている。藪で多少隠れてしまっているのが残念！</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191106343.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（北曲輪から天守台を）<br />
<font size="2">北側土塁でも他の部分よりやや高く、外（北曲輪）側へ少し出っ張っている。周りは深い空堀で守られている。
</font><br />
<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191107640.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（西櫓台）<br />
<font size="2">北側土塁の西端部には櫓が建っていたようで、土塁上がやや広くなっている。</font><br />
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191108890.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（西櫓台から本丸と西側土塁を）<br />
<font size="2">この光景が、すっかり気に入って、しばらく西櫓台の上に居た。手前が本丸、
奥の一段下が二の丸という位置関係がよく分かる。根古屋やその向こうの原の町までよく見える。興国寺城は、それほど高くはないが、
根古屋の町から土塁がよく見えるわけだ！</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191109562.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>【空堀】</strong><br />
<font size="2">本丸北側の空堀は、高さ約１０ｍ、上部幅も約１０ｍはあるであろう大規模なもので見応え充分だ。
左上は天守台、右上は北曲輪。季節柄、かなり藪に覆われてはいるが、かなり整備がされ堀底まで降りて行くことが出来る。この時ばかりは、
蛇やマムシも恐れず降りて行った。</font><br />
<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191110218.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（西櫓台から）<br />
<font size="2">右上は天守台、左奥は北曲輪。</font><br />
<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191111031.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>【北曲輪】<br /></strong><font size="2">前回の登城時は、
全く整備されておらず行けなかったのか、或いは、あまりの藪で空堀にさえ降りて行かなかったのか忘れたが、今回は、
多少藪ではあったが許容範囲で、空堀に降りて、さらに北曲輪まで入って行った。</font><br />
（北側東端の土塁上から）<br />
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191112156.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（北曲輪）<br />
<font size="2">発掘調査によるものか？かなり凸凹が・・・。それは別に、北曲輪は概ね２段になっていたようだった。
ちょっと藪が気になったが、何とか・・・（汗）。</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191112812.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（土塁と空堀）<br />
<font size="2">北曲輪の北側には、明らかに土塁と空堀跡と思われる地形が確認される。空堀は、かなり埋まってしまい、
深さは１ｍほどであるが、幅は１０ｍほどある。奥に見える土塁の向こうは新幹線が通っている。</font><br />
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191113484.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（空堀跡を東海道新幹線が・・・）<br />
<font size="2">北曲輪の北側には、もう一本堀切で断ち切られていたようだが、今は新幹線が通る。まさに諸行無常！
</font><br />
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191115359.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>【舟付場跡】<br />
<font size="2">本丸東側土塁の東側は、かつては舟付場であったようで、今も湿地帯のようで、所々に水溜りがある。
その向こうの台地は清水曲輪。</font><br />
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T191116328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /><br /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_105.html</link>
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         <category>33shizuoka</category>
         <pubDate>Thu, 02 Jul 2009 19:14:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>駿河　三枚橋城（沼津市）</title>
         <description><![CDATA[<p>中央公園にたつ石碑と説明板</p>
<h3>武田勝頼が戸倉城攻略の為に築いた城、江戸期には水野氏６代の新城が</h3>
<h3>別名</h3>
<p>沼津城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>静岡県沼津市大手町４丁目、中央公園</p>
<h3>形状</h3>
<p>平城</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：市街地<br />
遺構等：石垣の石、石碑、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>０点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／２７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>今川氏の没落後、駿河の支配を目指す武田氏は黄瀬川（狩野川支流）を挟んで後北条氏と対立した。<br />
後北条氏の伊豆を侵略するために武田勝頼は、天正５年（１５７７）頃から狩野川河口に築城工事を開始し、同７年（１５７９）に竣工させて
「三枚橋城」と名付け、高坂昌宣を城将に任じた。<br />
武田と後北条の両軍は、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_903.html">戸倉城</a>をめぐって一進一退を続けていたが、
天正１０年（１５８２）３月、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_105.html">興国寺城</a>をが徳川家康に攻略されると、
高坂昌宣は三枚橋城を捨て、甲斐に退いた。<br />
この年、武田氏は滅び、三枚橋城は家康の手に落ち、名前も「沼津城」と改め、天正１８年（１５９０）の豊臣秀吉による<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_59.html">小田原城</a>攻めの後、
家康が関東に移封されるまで松平康親・康重が守備にあたった。<br />
その後、関ヶ原合戦の翌慶長６年（１６０１）から大久保忠佐が入城したが、同１８年（１６１３）忠佐の死後、
世継がなかったため大久保家は断絶となり、翌１９年（１６１４）廃城となった。<br />
以後１６０余年の間、当地に城はなかったが、安永６年（１７７７）、のちに老中となる水野忠友が沼津に城地３万石を与えられ、旧城の本丸・
二の丸一帯（旧城の北半分）に新城を築いた。規模は、三枚橋城と比べ小さなものであった。<br />
以来、沼津は、水野氏６代の城下町となったが、水野氏は慶応４年（１８６８）、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_712.html">菊間</a>
（千葉県市原市）に転封となり、城の建物は沼津兵学校の施設として使われたが、明治４年（１８７１）の兵学校廃止後、
払い下げられて姿を消した。<br />
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>城址は、すっかり市街に埋もれてしまい、面影は全くない。<br />
中央公園一帯が城跡で、公園内の西側に城址碑と説明板があるが、石碑周囲の石は、発掘された三枚橋城の石垣の石である。<br />
また、公園南にあるアゴラ沼津（静岡銀行）の駐車場入口にも同様の石が一部積み直されている。<br />
（2009/06/27訪れて）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>発掘された三枚橋城の石の石積み（於アゴラ沼津駐車場入口）<br />
<font size="2">アゴラ沼津の地下から発見された三枚橋城の本丸入口付近の石垣の一部を復元？</font><br />
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T145018531.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>発掘状況<br />
<font size="2">上写真石垣上に発掘状況の写真が載っていた。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090702T145021421.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_904.html</link>
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         <category>33shizuoka</category>
         <pubDate>Thu, 02 Jul 2009 14:50:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>駿河　戸倉城（清水町）</title>
         <description><![CDATA[<p>本丸跡に建つ展望台と東屋</p>
<h3>駿河と伊豆の境目の後北条氏の城、武田勝頼の誘いにより寝返り</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>駿東郡清水町下徳倉、本城山公園<br />
【登城口】<br />
登城口は３箇所ある。一つは、本城山南麓の龍泉寺（清水町下徳倉１９２０、電話０５５－９３１－６３０１）の山門の手前から。<br />
あと二つは、本城山北麓の北口駐車場（１５台ほど駐車可）、東麓の東口駐車場（４台ほど駐車可）から登る。どちらも、本城山麓付近へ行けば、
案内板があり、割り合い分かりやすいと思う。私は、北口駐車場から登った。</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高７６．２ｍ、比高約６０ｍ）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：本城山公園（山林）<br />
遺構等：曲輪、土塁、堀切、土橋、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>１点</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>戸倉城は、戦国時代に北条氏綱（１４８６～１５４１）が築いたといわれる。<br />
現在は駿河国に属しているが戦国時代には伊豆国であった。狩野川が伊豆・駿河の国境であったため、
氾濫して流路が変わるたびに伊豆国になったり駿河国になったりしたのである。<br />
戸倉城は、後北条氏の前線基地として、伊豆と駿河の国境を守る重要な城であったので、城主には北条氏康の子・北条氏尭が任じていた。
氏尭は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/12kanagawa/post_364.html">武蔵小机城</a>主も兼務していたため、
重臣・松田憲秀の子・笠原新六郎秀範が城代として守備していた。<br />
主として<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_100.html">韮山城</a>の出城的存在であり、
周辺部の城砦群（大平城・獅子浜城・長浜城・<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_902.html">泉頭城</a>等）
と連絡しながら、武田軍と対決していたものであろう。<br />
永禄１０年（１５６７）以来、駿河は甲斐武田氏の占領下にあり、永禄１１年（１５６８）から元亀２年（１５７１）
にかけて武田信玄と後北条氏は、この戸倉城で戦った。<br />
信玄が没して後も、その子・勝頼は駿東地方に進出して後北条方をおびやかし、天正８年（１５８０）
には直線距離２ｋｍほどの目と鼻の先の沼津に<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_904.html">三枚橋城</a>を築いて、
本拠として戸倉城を攻撃した。しばらく両軍は相対峙していたが、天正９年（１５８１）武田勝頼の誘いにのって笠原新六郎が寝返り、
戸倉城は武田方のものとなった。<br />
天正１０年（１５８２）、武田氏の滅亡とともに、戸倉城は再び後北条氏のものとなったが、天正１８年（１５９０）
豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は戸倉城を捨てて<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_100.html">韮山城</a>へ退いた。
<br />
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」「静岡県古城めぐり（静岡新聞社刊）」参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>戸倉城は、狩野川が大きく蛇行し、柿田川との合流点付近でＵ字形に突き出し、３方を狩野川に取り巻かれた天然の要害地・
本城山に築かれている。<br />
現地（本丸跡）説明板やその他資料によると、「山頂部に本丸を置き、東側に袖曲輪・東側尾根に東曲輪を配し、同様に、
南と北西に伸びる尾根筋にも曲輪群を配置した縄張りとなっている。」とある。<br />
城址は、本城山公園となって遊歩道が整備され、山頂部の本丸までは５分ほどで辿り着く。<br />
しかし、本丸部分以外の曲輪群や堀切等の遺構は藪に覆われて、確認は甚だ難しい状態だ。<br />
また、本丸はもとは土塁がめぐっていたそうだが、太平洋戦時に高射砲陣地が造られたため改変されてしまったようだ。<br />
（2009/06/27登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張略図（本丸跡説明板より）<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090701T193056531.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧登城口（北口駐車場から）、㊨登城道<br />
<font size="2">本城山公園として遊歩道が整備され、５分ほどで本丸へ辿り着く。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090701T193058062.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090701T193058953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本丸跡の㊧説明板、㊨展望台<br />
<font size="2">本丸部分だけが整備されているが、その他の曲輪群は藪に覆われて、確認は甚だ難しい状態だ。また、
本丸はもとは土塁がめぐっていたそうだが、太平洋戦時に高射砲陣地が造られたため改変されてしまったようで、今は、展望台や説明板、
東屋などが建てられているだけだ。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090701T193100093.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090701T193101375.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>展望台からの眺望<br />
<font size="2">展望台からの眺望は良く、天気がよければ遠く富士山よく見えるそうだが、あいにくの梅雨空（恨）！
写真正面の細い川が柿田川で、その向こうの森が<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_902.html">泉頭城</a>址である。
展望台から周りを見下ろすと、この戸倉城が周りを狩野川に囲まれたＵ字地形の突端にあるのがよく分かる。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090701T193102750.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_903.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_903.html</guid>
         <category>33shizuoka</category>
         <pubDate>Wed, 01 Jul 2009 19:31:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>駿河　泉頭城（清水町）</title>
         <description><![CDATA[<p>柿田川に湧き出る富士山の伏流水</p>
<h3>柿田川湧水の水源地にあった駿河と伊豆の国境にある後北条氏の城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>静岡県駿東郡清水町玉川、柿田川公園<br />
駐車場：国道一号線の柿田川公園入口信号の東約１００ｍに町営の無料駐車場への入口があるが、
国道一号線の下り側からしか入れないので要注意。</p>
<h3>形状</h3>
<p>平城</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：柿田川公園<br />
遺構等：土塁、堀、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>１点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／２７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>泉頭（いづみかしら）城は、戦国時代の終わ頃には、後北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目をはたしていた。<br />
永禄１２年（１５６９）、後北条氏は家臣・多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_903.html">戸倉城</a>や伊豆徳倉城と連絡して、
武田信玄の侵攻に備えた。<br />
天正８年（１５８０）、武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋・
市南の足軽大将が各々百騎づつ従えて城を守り、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_903.html">戸倉城</a>とは舟で連絡していた。
天正９年（１５８１）<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_903.html">戸倉城</a>が武田軍に降参すると、
泉頭城のまわりの村々は武田軍の手によって焼き払われてしまった。<br />
天正１８年（１５９０）、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_100.html">韮山城</a>と<a href="http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_116.html">山中城</a>へ引き上げた。
<br />
元和元年（１６１５）、徳川家康は泉頭城の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め、家臣・土井利勝、
本多正純に隠居御殿の城を造営することを命じたが、元和２年（１６１６）家康が没したので取り止めになった。<br />
その後、城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になったが、大正の頃まで城跡はよく残っていたそうである。<br />
『現地説明板より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>泉頭（いづみかしら）城址は、富士山の伏流水が湧き出る水源地として有名な「柿田川公園」として整備され、
都会のオアシスとして人気があり、多くの家族連れで賑わっている。<br />
公園入口の東隅に、縄張図付きの大きな説明板が設置されているので、それを見てから廻ることをお薦めする。<br />
城域は、東西４００ｍ、南北５００ｍあり、縄張りは、二ノ洞と三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これを取り囲んで北の曲輪、
東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪小郭、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノ口出丸を配置していた。そして、
それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空堀で防御され、土橋と木橋で結ばれていた。<br />
縄張図を見てから廻っても、湧水公園は結構広い上に、地形があまりにも複雑で、土塁や空堀らしきものが至る所にありよく分からなかった（汗）
。<br />
（2009/06/27登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張図（現地説明板より）<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134328781.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>城址は柿田川公園に<br />
<font size="2">柿田川公園は、富士山の伏流水が湧き出る水源地として有名である。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134331578.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>説明板<br />
<font size="2">柿田川湧水群としては有名だが、ここに遊びに来ている人のほとんどが、城址であるとは知らないだろう。
意外にも、公園入口東隅にこんな大きな城の説明板があり驚いた。また私も、この説明板を見るまで『いづみかしらじょう』
と読むとは知らなかった。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134333171.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>公園広場<br />
<font size="2">正面入口から入ると広場がある。柿田川公園は都会のオアシスとして人気があり、
今日も多くの家族連れで賑わっていた。写真奥の森の中が西曲輪にあたるようだ。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134334609.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二ノ洞<br />
<font size="2">上写真の広場の東の方に、二ノ洞がある。こんな処を覗いている人は他にはいなかった（笑）が、
まるで人工の堀跡のようだ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134335515.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>三の洞<br />
<font size="2">駐車場の東側には三の洞がある。三ノ洞も、強烈な藪になってはいるが、はっきりと分かる。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134337187.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>貴船神社<br />
<font size="2">貴船神社周辺が西曲輪にあたるようだ。貴船神社は柿田川へ突き出すような土塁上にあり、
周囲が切り立っている。<br /></font><font size="3"><img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134339265.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>土塁？と空堀？<br />
<font size="2">右側の土塁上に貴船神社が鎮座しているが、この土塁や空堀は自然のもの？人工的なもの？<br />
このような、土塁が公園の至る所にあったが・・・？</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134340890.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>本曲輪<br />
<font size="2">本曲輪はかなり広かったようで、今は駐車場になっている。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T134342765.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_902.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_902.html</guid>
         <category>33shizuoka</category>
         <pubDate>Tue, 30 Jun 2009 13:43:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>駿河　南一色城（長泉町）</title>
         <description><![CDATA[<p>一郭北西部の土塁</p>
<h3>長久保城北方の謎の城、支城？ ｏｒ 攻城の為の陣城？</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>静岡県駿東郡長泉町南一色字北村<br />
【行き方】<br />
長久保城址（城山神社公園）或いはトイザラスから、国道２４６号線を北東へ約５００ｍ進むと、「南一色公会堂信号」がある。
そこを左折すると、すぐに突き当たるので、右折し道なりに進むと「宮脇橋」へ出る。その左手（西側）に見える丘陵が南一色城址である。
<br />
駐車場はないので、適当な空地に停めて下さい。</p>
<h3>形状</h3>
<p>丘城（平山城）　比高約２０ｍ</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：畑地、墓地<br />
遺構等：曲輪、土塁、虎口、堀切、竪堀</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>４点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／２７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>南一色（みなみいっしき）城の創建時期や築城者については、資料等何もなく、定かではないが、戦国時代に築かれたと思われる。<br />
南方約１ｋｍのところにある長久保城との関係が考えられ、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_900.html">長久保城</a>の支城や砦といった説や、
 <a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_900.html">長久保城</a>に対抗して築かれた陣城との説等々があり、
今では後者の説が有力なようだが・・・？</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>南一色城は、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_900.html">長久保城</a>の北方約１ｋｍにある丘陵
（舌状台地）に築かれた連郭式の平山城である。<br />
発見されてから、まだそれほど長くなく、城に関する記録も見当たらないそうだ。<br />
しかし、史料や伝承が豊富な<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_900.html">長久保城</a>の大部分が破壊されてしまっているのに対して、
南一色城は、曲輪跡の大部分が畑や墓地になってしまってはいるものの、城郭全体の情景や土塁、堀切、
虎口等の遺構が良好に残っているのは皮肉なものだ。<br />
（2009/06/27登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>城郭概略図<br />
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     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T012328765.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>城址全景<br />
<font size="2">宮脇橋の上から撮ったものだが、見るからに城を築かれる為にあるような細長く伸びた舌状台地地形だ。
</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011012359.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>①</strong>三郭から二郭を<br />
<font size="2">二郭も三郭も畑地として利用されている。二郭と三郭には結構な段差がある。二郭奥に一郭があるが、
一旦麓へ下りた。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011013140.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>②③</strong>一郭への登城口<br />
<font size="2">一郭へは、上写真の二郭からも行けるが、直接登るには、㊧民家横の道を登って行くと、
㊨山の手前両側は切岸で切り立っており、堀切が見えてくる。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011014984.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011015703.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>④</strong>一郭と外郭間の大堀切<br />
<font size="2">上写真を登って来ると、この大規模な堀切の底へ出る。深さ約５ｍはあるだろう。左が一郭、右が外郭。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011016500.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>⑤-１</strong>竪堀<br />
<font size="2">上写真堀切の西端は竪堀となって麓へ落ちていっている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T012329703.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>⑤</strong>一郭へ登る<br />
<font size="2">堀切の中央辺りから一郭へ登るカーブした堀底道がある。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011017890.jpg"
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     border="0" />　<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011018953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>⑥</strong>虎口<br />
<font size="2">上写真を登ると、虎口へ出る。㊧は、虎口から一郭を見たもの。㊨は、一郭内から、虎口を。
虎口の向こうには外郭が見える。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011019843.jpg"
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     border="0" />　<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011020984.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>⑦</strong>一郭北西部の土塁<br />
<font size="2">一郭は畑地になっているが、周囲を囲む土塁が見事に残っている。土塁の高さは２ｍ弱ではあるが、
なかなかのものだ。写真右奥が虎口。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011021843.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>⑧</strong>一郭と北東部の土塁<br />
<font size="2">一郭を取り囲む土塁は、北側（虎口両側）は幅も広く、やや高い。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011023343.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>⑨</strong>一郭東側の土塁<br />
<font size="2">土塁の外側は、急崖になり麓まで落ちている。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011024187.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>⑩</strong>㊧堀切？と土塁？ <strong>⑪</strong>㊨竪堀？<br />
<font size="2">㊧一郭の南には二郭（写真左側）があるが、その間は藪で覆われていたが、やや低くなっているようだった。
往時は、堀切で区切られていたのだろうか？また、低いが、僅かに土塁跡らしい形跡も見られる？㊨また、堀切？の東西両端は、
藪ではっきりとは確認出来なかったが、竪堀が麓へと続いているような感じだったが・・・？</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011025046.jpg"
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     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011026343.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><strong>⑫</strong>外郭<br />
<font size="2">外郭は南北に長く、１００ｍ以上あるのでは？また、段差は大した事はないが、三段に分かれていた。
外郭も墓地部分を除いて、ほとんどが畑地として利用されている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090630T011027421.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_901.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_901.html</guid>
         <category>33shizuoka</category>
         <pubDate>Tue, 30 Jun 2009 01:10:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>駿河　長久保城（長泉町）</title>
         <description><![CDATA[<p>八幡曲輪と北側の土塁</p>
<h3>駿河と伊豆の境目の城、後北条氏・今川氏・武田氏の争奪戦が展開</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>駿東郡長泉町下長窪、城山神社公園<br />
城山神社公園：ＪＲ長泉納米里駅の西１ｋｍ弱、トイザラスの西の森<br />
駐車場：公園の西に１０台強と南西に３～４台ほど</p>
<h3>形状</h3>
<p>平山城</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：城山神社公園、市街地<br />
遺構等：曲輪、土塁、堀切、模擬櫓（展望台）</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>４点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／２７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>長久保城は、北駿からの南進地、平野部の支配拠点として、戦略上の要地にあり、駿河と伊豆の「境目の城」として、戦国期には武田氏、
後北条氏、今川氏によって争奪が繰り広げられた。<br />
長久保城の創建時期や築城者は定かではなく、天文年間に、
後北条氏の進入に備えて今川氏が築いたという説や後北条氏２代氏綱が築いたという説等、多くの説があるが、いづれも確証はない。
<br />
城の合戦史としては、天文１４年（１５４５）と元亀２年（１５７１）に激戦があった。<br />
天文１４年（１５４５）７月、今川義元は関東管領の山内上杉憲政と呼応して、長久保城を囲み、８月、城外狐橋において両軍は激闘となった。
<br />
一方、上杉憲政は、扇谷上杉朝定と連合して、北条綱成の守る<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/13saitama/post_45.html">武蔵河越城</a>を攻囲した。
さらに９月、甲斐の武田信玄が今川氏の援軍として富士郡の大石寺に布陣した。この間、義元は後北条方の<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_902.html">泉頭城</a>、
 <a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_903.html">戸倉城</a>を攻撃した。
<br />
このため、後北条氏は兵力の分散を余儀なくされ、やむなく１０月、北条氏康は今川義元と和し、長久保城を開城し、
伊豆国境に退くこととなった。<br />
しかし、永禄３年（１５６０）の桶狭間の戦いで義元が斃れ、永禄１１年（１５６８）には、再び北条氏が領有したが、元亀２年（１５７１）
武田氏に攻められ落城し、後北条氏は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_100.html">韮山城</a>まで退却を余儀なくされた。
この武田氏の時代に、城は大改修され、対北条氏の前線基地として戦国城郭にふさわしい要害となった。<br />
天正１０年（１５８２）、武田氏が滅んだあと、徳川家康が家臣を交代制で守らせ、改修も頻繁に行なっている。今日残る遺構は、
その徳川氏時代のものと武田氏時代のものであろう。<br />
天正１８年（１５９０）の小田原攻めの時、家康は長久保城を拠点として使用し、４月には豊臣秀吉を城に迎えている。<br />
小田原の陣後、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_107.html">駿府城</a>主中村一氏の所領となり、
 <a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_904.html">
三枚橋城</a>代中村一栄の配下となった。　慶長５年（１６００）、中村氏の<a href=
"http://castle.slowstandard.com/50chugoku/51tottori/post_211.html">伯耆米子城</a>移封にともない長久保城は廃城となった。
<br />
『「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」、「静岡県古城めぐり（静岡新聞社刊）」他参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>長久保城は、本丸・二の丸・三の丸・八幡曲輪・南曲輪・大手曲輪・東出丸等からなる連郭式と梯郭式の複合型の縄張である。
<br />
今では、その多くが市街地に埋もれてしまったが、八幡曲輪と南曲輪の一画が、城山神社公園として城の名残を留めている。<br />
八幡曲輪と南曲輪を囲む大土塁は、高さ約５ｍ、長さ約５０ｍもあり、城の防御の堅固さを伝えおり、見応え充分である。<br />
本丸は、黄瀬川にのぞんだ台地上に構えられていたが、削土のために消滅、二の丸も削られ、南部分にはトイザラスが建ち、
北部分は国道２４６号線が通っている。三の丸は、宅地・北小学校・工場・マンション等になっている。<br />
僅かに、三の丸北側（東部分）の土塁と堀切は残されているが、藪がひどくて中を覗くことも出来なかった。二の丸北側の空堀は消滅。
八幡曲輪の北側の空堀は国道２４６号線となり、往時より大規模な堀切になっている（苦笑）。<br />
（2009/06/27登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張略図<br />
<font size="2">本丸・二の丸・三の丸・八幡曲輪・南曲輪・大手曲輪・東出丸等からなる連郭式と梯郭式の複合型の縄張である。
<br /></font> <img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002910828.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>八幡曲輪と南曲輪の全景<br />
<font size="2">今では、その多くが市街地に埋もれてしまい、往時の面影を残しているのは、
城山神社公園の中に残る八幡曲輪と南曲輪の一画のみである。この写真は、国道２４６号線に架かる橋の上（公園の北西部）から撮ったもので、
正確に言えば、八幡曲輪の全景と云うべきかも。中央の建物は模擬櫓（展望台）。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002912890.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>公園への入口<br />
<font size="2">公園への入口は、４箇所あり、ここは公園の北西部になる。写真の土塁は八幡曲輪北側の土塁。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002913484.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>模擬櫓？（展望台）<br />
<font size="2">上写真の入口から入って行くと、この模擬櫓（展望台）が建っている。上って、周りを見渡したが、
それほど眺望はよくない。それに、この展望台、各階の天井が低くて、頭をしこたまぶつけてしまいタンコブが出来た！イテテ！！
</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002914140.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>八幡曲輪北側の土塁<br />
<font size="2">この土塁は実に良好に残っている。高さ約５ｍあり見応え充分だ。また、土塁上を散策することも出来る。東端
（写真手前）に土塁上から八幡曲輪へと「滑り台」が作られ、子供が滑り降りていた。まあ、これも一興かな！？</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002914765.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南曲輪<br />
<font size="2">南曲輪には城山神社が鎮座している。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002915562.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南曲輪の南側から西側にかけての土塁<br />
<font size="2">南曲輪の土塁も、南側から西側にかけて良好に土塁が残っている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002916265.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>南曲輪＆八幡曲輪の西側の土塁を外側から<br />
<font size="2">南曲輪の外側から撮ったものである。写真で見ると、それほどの高さを感じないが、結構高く、
低い部分で３ｍ近くあり、手前の南曲輪側はさらに高く、５ｍ近くある。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002917062.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>八幡曲輪北側の空堀の今！？<br />
<font size="2">八幡曲輪の北側の空堀跡は国道２４６号線となり、往時より大規模な堀切になっている（苦笑）。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002917875.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>二の丸<br />
<font size="2">二の丸跡は、台地をすっかり削り取られて、トイザラスと国道２４６号線になり、跡形もない。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002918500.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>三の丸<br />
<font size="2">三の丸跡の東部分にはマンションのようなビルが建っていた。左側の土塁は、三の丸北側の土塁で、
幅２０ｍはある立派なものだ。よく残っていたものだ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002919234.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>三の丸北側（東端）の土塁と堀切<br />
<font size="2">堀切の手前に説明板（写真中央下）があり、堀切と土塁についての説明がされており、さらに、
「長久保城の城郭は、その大部分が失われてしまいました。この空堀と土塁は、城の姿を今に伝える貴重な遺構です。」とあり、その下には
「文化財を大切に」と書かれていた。『本当です。もう少し、早く気付いて欲しかった！！』</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090629T002920031.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_900.html</link>
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         <category>33shizuoka</category>
         <pubDate>Mon, 29 Jun 2009 00:29:31 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>安房　白浜城（南房総市）</title>
         <description><![CDATA[<p>西遺構西端の切通し</p>
<h3>安房里見氏が最初に拠った城</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>南房総市白浜町白浜<br />
【登城口への行き方】<br />
登城道は、山の中央部（西遺構と東遺構の間）山麓にある青木観音堂脇から登る道と西遺構の最西端の切通しを展望台経由で登って行く道がある。
<br />
（青木観音堂脇）<br />
細い道が入り組んでいて、上手く説明出来ないが、白浜の町の北に聳える城山の山麓へ向かうと、何箇所かに「弘法の芋井戸」
への標識が建っているので、それに従って行けばたどり着く。「弘法の芋井戸」の左（西）２０ｍに観音堂、右（東）８０ｍに青根原神社がある。
青根原神社の前に駐車場（多分、神社の駐車場だろうと思うが？）がある。<br />
（展望台コース）<br />
町中のあちこちに案内板があるので、すぐ分かると思う。但し、駐車場はなかったように思う。</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高１４０ｍ）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、切岸、切通し、土塁？、堀切？、土橋？、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>６点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／１４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>白浜城については、<br />
①白浜は、中世東国の太平洋海運にとって極めて重要な地で、関東管領上杉氏が、太平洋の海上交通を押える拠点にしていた。<br />
その為、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が対立した「<font color="#00FF00">享徳の乱</font>」において、
安房地方を上杉氏から奪う為に公方派から送り込まれたのが、安房里見氏初代の里見義実である。<br />
そして、義実が最初に拠った城が白浜城である。<br />
②永享１２年（１４４０）～嘉吉元年（１４４１）の「<font color="#00FF00">結城合戦</font>」
で<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/15ibaragi/post_438.html">結城城</a>に立て籠もり、
討ち死にした里見家基の嫡子・義実が三浦半島経由で安房に渡り、神余・丸・東条・安西の四氏が分立する安房一国を平定した。<br />
最初、義実は安西氏に身を寄せていたが、神余氏の家臣で主君・神余景貞を討ち神余郷を乗っ取った山下定兼討伐し、さらに、
その遺領分配をめぐって対立した丸氏を滅ぼした功により、安西景春に白浜城を与えられた。<br />
その後、安西氏にも背いて、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_815.html">勝山城</a>に安西氏を攻め降伏させ、
金山城に拠る東条常政も滅ぼして安房一国を統一平定した。<br />
という２つの説があるようだが、今は①の説が有力なようである。<br />
いずれにしても、房総里見氏の初代義実が白浜城を拠点に勢力を拡大していったようである。<br />
その後、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_263.html">稲村城</a>が安房支配の拠点となってからも、
隠居した義通が白浜城に入り、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_263.html">稲村城</a>の義豊を支える重要な役割を持ったようである。
<br />
また、義豊が滅びて、庶流の里見義尭が実権を握ってからも、白浜には里見氏嫡流が住み続けていたと考えられている。<br />
今も、白浜城跡周辺には、里見義通の兄である里見義富の子孫という里見氏や、
前期里見氏の重臣だった木曽氏の子孫と考えられる人々が住んでいる。<br />
『「房総里見氏（ＮＰＯ法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム刊）」、「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」、「現地説明板」参照』
<br />
<br />
<font color="#00FF00">【享徳の乱】</font><br />
８代将軍足利義政のときに起こった関東地方における内乱で、享徳３年（１４５５）～文明１４年１１月２７日（１４８３））まで続いた。
<br />
鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方（古河公方）方が争い、
関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。<br />
<font color="#00FF00">【結城合戦】</font><br />
「<font color="#00FF00">永享の乱</font>」の翌年、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・
永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年（１４４１）４月、攻防８ヶ月の末、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/15ibaragi/post_438.html">結城城</a>は陥落した。
春王丸と安王丸は殺されたが、まだ８歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された。<br />
<font color="#00FF00">【永享の乱】</font><br />
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。<br />
持氏のとき、京都では５代将軍義量が亡くなった。前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟４人は出家しており、
将軍位が空位となった。<br />
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟４人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円
（６代将軍義教）となった。<br />
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、
将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。<br />
永享１０年（１４３８）憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、
翌年２月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は４代９０年余で壊滅した。</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>白浜城は、東西約１ｋｍ、南北約４００ｍあり、東遺構・西遺構・城山北遺構の３つに区分される広大な城域をもち、
房総の中世城郭跡でも最大級の規模を誇る。<br />
西遺構は尾根伝いに遊歩道が整備されているが、東遺構と城山北遺構は、ほとんど整備されておらず、この入梅の季節は、藪がひどく、
とても入って行けそうにないようだ。<br />
白浜城の特徴は、その腰曲輪の数の多いことであろう。木立の合間から、やたらと多くの腰曲輪が見られる。ただ、
かつては段々畑として利用されていたこともあり、また戦時中には日本軍の軍事施設として改変もされているそうなので、
それらが往時のものかどうかは分からない。<br />
一方、南面は切り立った崖で、まさに天然の要害であったことが分かる。<br />
当城で、最大の見所は、西遺構の東西にある岩盤をくり抜き、ノミの跡（東の切通しは暗すぎて見えなかったが）が荒々しく残る切通しであろう。
東の切通しで高さ５ｍ、西の切通しにいたっては高さ７～８ｍほどもあろう。まさに、迫力満点である。　<br />
これだけの切通しを、往時の技術で削り取ることができたのだろうかと疑問を感じるざるを得ない。やはり戦時中の軍によるものだろうか？
<br />
尚、城山からの眺望は、本来素晴らしいのだろうが、いかんせん曇天と靄で・・・（残念）。<br />
そして、何よりも残念なことに、あまりの暗さで、切通し等ほとんどの写真がピンボケ（泣）。<br />
（2009/06/14登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>㊧青根原神社、㊨里見氏二代成義の墓<br />
<font size="2">㊧青根原神社のある辺りが、居館跡のようだ。背後の山が東遺構。神社の前の道を挟んで駐車場がある。
㊨神社前（左写真の左側）には、里見氏二代成義の墓がある。説明板によると、以前は荒れていて五輪塔の一部しか残っていなかったと言うが、
現在では立派な墓が建てられている。<br /></font><img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225159500.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225200281.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>登城口<br />
<font size="2">登城口は２箇所あるが、今回は、青木観音堂の横（右の道）</font><font size=
"2">から登城し、西遺構の尾根を通って最西端の登城口へ降りていった。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225200968.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>登城道<br />
<font size="2">登り始めると、登城道は、どんよりした曇天のせいと、鬱蒼とした木々のため、薄暗いどころか、
まるで夜中のような暗さだった。その暗い急坂道を登っていくと、切岸が見えてくる。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225202046.jpg"
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     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225202796.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>切通し<br />
<font size="2">さらにジグザグ道を登ると、高さ５ｍもある岩盤を削った迫力のある切通しへと出る。
</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225203890.jpg"
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     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225204593.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>切通し最上部（虎口）<br />
<font size="2">その切通しを少し登って行くと尾根上へ出る。それにしても、ピンボケの写真が恨めしい！
<br /></font> <img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225205500.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>西遺構方面への道<br />
<font size="2">尾根上に上がると、道は二手に分かれる。右手の尾根道は東遺構方面、さらには稲村城跡へと続く道であるが、
藪のためギブアップ！<br />
左方面は西遺構への道で、よく整備されている。その道を進み階段を登って行く。<br /></font><img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225206218.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>物見台跡？<br />
<font size="2">よく整備されたジグザグの階段を登ると、左手上に最初の頂部がある。。ここは曲輪跡というには狭すぎるので、
物見台跡か戦時中に軍部が物見に使った跡だろうか？何か分からなかったけど、石組みがあった。ここから、南側下を覗くと、
足が竦むくらいの絶壁だった。<br /></font><img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225206953.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225207656.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧簡易展望台、㊨眺望<br />
<font size="2">物見台？下の道を、右下に腰曲輪のような削平地を幾つか見ながら、さらに西へ進むと、もう一つの頂部へ出る。
ここには、簡易展望台が建てられている。ここから南側には白浜の町並みと、その向こうに海が眺められるが、あいにくの曇天と濃い靄で、
右写真のとおり・・・（残念）！</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225208359.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225209203.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>土橋？<br />
<font size="2">そこから尾根伝いに北側下に降りていくと、道が細くなりカーブした土橋になる。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225209859.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧二重堀切？㊨土塁<br />
<font size="2">㊧土橋の向こうには、２ヶ所ほど、溝のような窪みが走っているのに気が付く。
堀切と言うには余りにも規模が小さいので、遺構なのかどうかもよく分からない。㊨二重堀切？の先には５ｍ×８ｍほどの小曲輪があり、
その脇には削り残しの土塁が見られる。右写真の左側がそうである。しかし、この土塁は何の為の土塁なのか分からない。
土塁で守るべきスペースはほとんどない。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225210687.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225211671.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>土橋<br />
<font size="2">簡易展望台のある頂部下をぐるっと廻り、西の方へ進むとかなり永くて大型の土橋（土塁）へ出る。土橋下には、
はっきりとした腰曲輪が確認できる。この光景は、結構かっこいい。</font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225212375.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧展望台、㊨展望台からの眺望<br />
<font size="2">上写真の土橋を渡り、次の頂部下を廻り西へ進むと展望台へ出る。当然。ここも眺望は、曇天と濃い靄で・・・。
天気が良ければ最高の見晴らしだろうというのは分かる。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225213187.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225214125.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>段曲輪<br />
<font size="2">展望台を、さらに西へ進むと、左手に塁段になった腰曲輪が現れる。この辺りの腰曲輪は、
全てかなりの広さである。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225214984.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>最西端の切通し<br />
<font size="2">左手に段曲輪を見ながら下りて行くと、岩盤をくり抜き、ノミの跡が荒々しく残る切通しへ出る。
写真の歩いている人と見比べて見て、高さは７～８ｍほどあるのではないだろうか？登城時に通った切通しと、この切通しが、
当城址の最大の見所であろう。切通しは、奥は右の方へほぼ直角に曲がっている。</font><font size="3"><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225215984.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225216875.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p><font size="2">㊧上写真の切通しを曲がり、振り返って撮ったものである。それにしても、見事だ。
㊨左写真をさらに進み、遠くから撮ったものである。展望台経由コースから来ると、このような光景になる。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225218218.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225220187.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>㊧登城口（展望台経由コース）、㊨南面の絶壁<br />
<font size="2">㊧展望台経由コースの登城口である。写真奥を左へ曲がって入って行くと、㊨右上（南面）は、
５０ｍはあろうかという絶壁で、当城が天然の要害であったことが分かる。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225221453.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225222484.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>（西遺構）全景<br />
<font size="2">こうして見ると、白浜城が如何に大規模な城であったかが分かる。この写真右側に、まだ東遺構があるのである。
左の頂上部が展望台で、右の頂上部が簡易展望台のあるところ。<br />
左の道を進むと上写真の登城口へ出る。手前のような標柱が町の至る所にあるので、こちらの登城口は割り合い見つけやすいだろう。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090618T225223296.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_899.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_899.html</guid>
         <category>14chiba</category>
         <pubDate>Thu, 18 Jun 2009 22:52:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>安房　館山陣屋（館山市）</title>
         <description><![CDATA[<p>陣屋の土塁跡</p>
<h3>淀城主稲葉正親の三男・正明が館山城址南麓に構えた陣屋</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>館山市館山（城山公園南麓）<br />
【行き方】<br />
城山公園（館山城）の南麓になる。道が細くてややこしいので、説明できません（スミマセン）。近くには、
館山の史跡めぐりの案内板が多く立っているので参考にして下さい（汗）。</p>
<h3>形状</h3>
<p>陣屋</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：宅地ほか<br />
遺構等：井戸、土塁</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>０点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／１４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>里見氏は、小田原の陣に遅参したため、豊臣秀吉の怒りにふれ上総国の領地を没収され、安房一国９万２千石に削減された。<br />
戦後は、関東に入封した徳川家康に忠実に従い、慶長５年（１６００）の関ヶ原合戦でも家康軍につき参陣し、
論功行賞によって常陸鹿島郡内に３万石を加増され、合わせて１２万２千石を領有して<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_262.html">館山城</a>を本拠とした。
<br />
しかし、慶長１９年（１６１４）、小田原城主大久保忠隣改易事件に連座して、
安房国の没収と鹿島領３万石の替地として伯耆国倉吉へ転封された。<br />
里見氏が館山の地を追われてから、およそ１７０年後の天明元年（１７８１）、山城国<a href=
"http://castle.slowstandard.com/40kinki/43kyoto/post_172.html">淀城</a>主・
稲葉正親の三男・正明が、分家の旗本・正福の養子となり、安房・上総両国内に１万石を与えられて立藩し<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_262.html">館山城</a>址の麓に陣屋を構えた。
<br />
正明のあとは、正武－正盛－正巳－正善と続き、約９０年で明治を迎えた。<br />
『藩と城下町の事典（東京堂出版刊）他より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>館山陣屋跡は、館山城址である城山公園の南麓に土塁（何の土塁かは分からない）が残り、その上に稲葉稲荷神社が鎮座している。
<br />
大部分が宅地となり、宅地の中を通る路地脇に井戸が残っている。<br />
碑とか説明板の類いはない。<br />
（2009/06/14訪れて）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>陣屋跡土塁上に鎮座する稲葉稲荷神社<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090617T174607000.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>宅地の中の路地脇に残る井戸<br />
<font size="2">土塁の西５０ｍほどの処の宅地の中を通る路地脇に、この井戸を見付けた。最初は、まさか、
これが陣屋の井戸とは思わなかったが、以前、館山城址にある博物館で買った「房総里見氏（ＮＰＯ法人南房総文化財・
戦跡保存活用フォーラム刊）」の写真と照らし合わせたら、同じ写真だったので確定！？それにしても、簡単なもので良いから、
案内板だけでも設置して欲しいものだ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090617T174608015.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_898.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_898.html</guid>
         <category>14chiba</category>
         <pubDate>Wed, 17 Jun 2009 17:46:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>安房　北条陣屋（館山市）</title>
         <description><![CDATA[<p>陣屋跡に建つ館山警察署</p>
<h3>大納言忠長付衆・屋代氏、後には幕府若年寄水野氏が構えた陣屋</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>館山市北条</p>
<h3>形状</h3>
<p>陣屋</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：市街地（館山警察署・北条病院・館山消防署等）<br />
遺構等：なし</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>０点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／１４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>駿河大納言忠長（２代将軍秀忠の次男）付衆であった屋代忠正が、寛永１５年（１６３８）御先鉄砲頭に取り立てられて安房国朝夷・
安房二郡内に１万石を与えられて立藩し、北条に陣屋を構えた。<br />
忠正の後、２代続いたが、正徳２年（１７１２）農民一揆が起こり、領地を没収され廃藩となった。<br />
その後、しばらく藩は置かれなかったが、享保１０年（１７２５）若年寄水野忠定が入封し、再度立藩し、陣屋を構えた。<br />
忠正のあと、忠見（若年寄）－忠韶（若年寄）と続き、忠韶は文政８年（１８２５）若年寄の功労により城主格に列せられ、同１０年（１８２７）
に領地を上総国市原・望陀２郡内に移されて鶴牧に陣屋（<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_713.html">鶴牧陣屋</a>）
を構えて移ったため、北条藩は廃藩となった。<br />
『藩と城下町の事典（東京堂出版刊）より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>陣屋跡は、館山警察署・北条病院・館山消防署等となり、遺構は勿論、案内板等も全くない。<br />
（2009/06/14訪れて）</p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_897.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_897.html</guid>
         <category>14chiba</category>
         <pubDate>Wed, 17 Jun 2009 17:21:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>安房　船形陣屋（館山市）</title>
         <description><![CDATA[<p>陣屋跡、背後には山が</p>
<h3>幕末、幕府若年寄であった平岡道弘が構えた陣屋</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>館山市船形<br />
【行き方】<br />
ＪＲ那古船形駅前を線路に沿って北進し、最初の曲り角を右折し線路を渡り東進し、最初の十字路の北東部が陣屋跡。</p>
<h3>形状</h3>
<p>陣屋</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：宅地、畑地、雑木林など<br />
遺構等：なし</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>０点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／１４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>船形藩は、元治元年（１８６４）若年寄平岡道弘が船形１万石を領して立藩した。陣屋は慶応元年（１８６５）に建てられた。
<br />
北東は山が囲み、南に鏡ヶ浦が広がる要害の地であった。<br />
明治元年（１８６８）に領地を奉還して廃藩となり、陣屋は未完成のままとなった。<br />
『フリー百科事典・ウィキペディア（Wikipedia）より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>陣屋跡は民家や畑地や雑木林となり遺構等は勿論、案内板等も全く無い。畑地の裏の方に低い山が見えるのは往時の立地を示している？？
<br />
陣屋跡と道を隔てた南側は、名主古屋敷跡とのことだが、そこに石垣が残っている。<br />
（2008/06/14訪れて）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>名主古屋敷跡の石垣<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090617T165035406.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><a href=
"http://meal.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_64.html">長壽庵</a>の天せいろ<br />
<font size="2">率直に云って、船形陣屋跡は訪れる価値ゼロであるが、近くにある「<a href=
"http://meal.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_64.html">そば処・
長壽庵</a>」の蕎麦と天ぷらは超お薦めだ。本当に美味い！</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090617T165741265.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>天ぷら<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090617T165742078.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_896.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_896.html</guid>
         <category>14chiba</category>
         <pubDate>Wed, 17 Jun 2009 16:50:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>安房　滝田城（南房総市）</title>
         <description><![CDATA[<p>二ノ郭下の塁段になった腰曲輪</p>
<h3>南総里見八犬伝発祥の地とされる城</h3>
<h3>別名</h3>
<p>根古屋城</p>
<h3>所在地</h3>
<p>南房総市上滝田、下滝田<br />
【登城口までの行き方】<br />
登城口は上滝田と下滝田からの２箇所ある。上滝田からが大手道のようで、こちらがお薦めだ。<br />
（上滝田から）<br />
県道８８号線にあるＪＡ安房上滝田出張所の脇道（北東側）へ入り、２００ｍ弱進むと、左側に駐車場（４台ほど駐車可）
があり滝田城遊歩道案内図が立っている。ここから馬場跡経由で登城。<br />
（下滝田から）<br />
ＪＡ安房上滝田出張所から県道８８号線を４００ｍほど南下すると右側に城址案内の看板が見える。そこを右折すると。
そこからは城址案内板に沿って行けば、下滝田側からの登城口駐車場（１０台ほど駐車可）へ出る。
駐車場に滝田城遊歩道案内図と説明板が立っている。</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高１４０ｍ）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、土塁、虎口、竪堀、堀切、櫓台、物見台、土橋、標柱、説明板、遺構案内板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>６点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／１４</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>滝田城は、戦国時代、安房最大の幹線道路平久里道を押え、管理する拠点にあった。<br />
築城年代は明らかではないが、安房志によると、城代を里見５代義豊の妹を妻とした一色九郎としている。<br />
一色氏は、もと足利氏に仕えていた武蔵幸手一色氏の一族で、里見氏が安房の主になった際、従ったものと思われる。<br />
一色九郎の時、里見氏一族内での主導権争いを契機として「<font color="#FFFF00">※天文の内乱</font> 
（天文２年・１５３３）」が勃発し、家臣、国人層も巻き込み安房国内の内乱にまで発展した。<br />
滝田城周辺は、もともと里見義豊の支持勢力が多く、この内乱で義豊側が劣勢に追い込まれた際、
義豊派最後の拠点として徹底抗戦の場になったが、天文２年（１５３３）９月に落城した。義豊方として戦った一色氏は、
里見実尭の子義尭によって滅ぼされた。<br />
その後、義尭は暫く滝田城に居城したと伝えられ、天文７年（１５３８）１０月、義尭は小弓公方足利義明の要請を受けて、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_40.html">下総国府台</a>に出陣して後北条軍を迎えたが、
この時、義尭は義明を見殺しにして滝田城へ引き上げたようである。<br />
その後、義尭は房総武田氏の内紛に乗じて、武田氏の守る<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_819.html">造海城</a>などを攻め取った後、
天文９年（１５４０）頃、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_147.html">久留里城</a>を武田氏から無血で入手し、
ここに移った。<br />
このとき、息子の義弘を滝田城に残しておいたようであるが、義弘もまもなく、武田氏から<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_366.html">佐貫城</a>を攻め取って、
そちらに移ったようである。<br />
尚、滝田城は、南総里見八犬伝では里見義実の居城で、八犬伝発祥の地とされている。<br />
<br />
<font color="#FFFF00">【天文の内乱】</font><br />
天文２年（１５３３）、里見義豊が叔父・里見実尭と、里見家を腹心として支えていた正木通綱を<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_263.html">稲村城</a>内で殺害した。
この事態に実尭の子・義尭は反撃に転じ、翌年、義豊を「犬掛の合戦」で討ち取って、分家筋だった義尭が家督を継いだ。勝利した義尭は、
本城を滝田城・宮本城方面へと移した。<br />
<br />
『「房総里見氏（ＮＰＯ法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム刊）」、「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」、「現地説明板」より』
</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>滝田城への登城道は、上滝田からと下滝田からの二通りある。私は、上滝田側に駐車場があるのを知らず、下滝田から登城したが、
上滝田からが大手のようで、馬場、虎口、段曲輪を見ながら、主郭、櫓台へと登るこちらのコースがお薦めだ。<br />
滝田城は、腰曲輪と堀切主体の非常にシンプルな造りであるが、１５０ｍはあろうかと思われる馬場や多くの腰曲輪など、
かなり見応えのある遺構が残っている。<br />
また、登城道も整備され、各所に遺構案内板もあり分かりやすい。（2009/06/14登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>鳥瞰略図<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T234213468.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>下滝田側からの登城口<br />
<font size="2">滝田城への登城道は、上滝田からと下滝田からの二通りある。私は、上滝田側に駐車場があるのを知らず、
下滝田から登城したが、上滝田からが大手のようで、馬場、虎口、段曲輪を見ながら、主郭、櫓台へと登る上滝田からのコースがお薦めだ。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231009609.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>登城道<br />
<font size="2">㊧登城口を登ると、しばらく細尾根道を進むが、この道も恐らく尾根の両側を少し削ってあるのだろう。途中、
かなり埋まってしまってはいるが、堀切のような跡が一箇所見られた。㊨そして、次に坂道へと出る。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231010484.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231011546.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">①</font>展望台<br />
<font size="2">登り始めて１０分ほどで、展望台へ出る。ここも何らかの曲輪跡だろう。ここに、「伏姫と八房の像」がある。
何故か、犬の顔が妙に不細工だったが・・・？折角の展望台だが、曇天と靄で眺望は今ひとつ。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231012453.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">②</font>堀切<br />
<font size="2">展望台から３～４分ほど進むと、正面に急な階段が見えてくる。その手前に堀切が切られて、
土橋が架かっている。堀切も土橋も、かなり埋ってしまっているが、面影は残っている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231013234.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231013937.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">③</font>主郭の櫓台上<br />
<font size="2">急な階段を登り切ると、櫓台上へ出る。ここに送電線の鉄塔が建ち、滝田城址の標柱と小さな祠が。標柱には
「城代一色九郎の居城」、「南総里見八犬伝発祥の地」などと書かれている。最初、一瞬ここが主郭かと思った。<br /></font>
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231014687.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231017250.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">④</font>主郭から櫓台を<br />
<font size="2">櫓台上から降りてきて納得。こうして主郭から眺めると、如何にも櫓台らしい形をした土塁だ。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231018093.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑤</font>主郭<br />
<font size="2">左奥が櫓台。逆光のため鉄塔がよく写ってない。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231018890.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑤-２</font>城門跡<br />
<font size="2">この辺りは強烈な藪で、蛇を踏まないように杖で地面を叩きながら歩いて降りるのがやっとだった（汗）。
地形さえ分からず、案内板がなかったら全く気が付かなかっただろう（苦笑）。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T234214656.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑥</font>二ノ郭<br />
<font size="2">細長い郭の奥が少し高くなっていて、そこが二ノ郭らしいが、ほぼ中央に土塁（写真奥）があるが、
何のための土塁なんだろう？</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231019890.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑦</font>二ノ郭下の段曲輪<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231020687.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑧</font>武者溜<br />
<font size="2">武者溜とは云っても、どれほど広くなく、１００人も集まれないかも？</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231021578.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑨</font>虎口<br />
<font size="2">木々が鬱蒼としており、あまりにも暗くてこんな写真になってしまったが、結構かっこいい虎口で、
右の方へカーブして入城する。虎口手前を左へ曲がって行くと、竪堀へ出るが、強烈な藪で、写真は撮ったが、
全く堀が写らなかったので省略する。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231022687.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑩</font>段曲輪<br />
<font size="2">この塁段になった腰曲輪もドクダミの強烈な藪である。この城址は、
他にもドクダミの花園のような藪がいっぱいあった。<br /></font><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231023703.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑪</font>登城口<br />
<font size="2">案内板には「登城口」となっているが、要するに虎口である。両側の土塁上には塀が建っていたのだろうか。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231024421.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231025187.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑫</font>馬場<br />
<font size="2">上写真の登城口（虎口）から北端の物見台まで１５０ｍはあるだろう。㊧は、
馬場中央辺りから登城口方面を撮ったもので、奥の山が城址。㊨は、馬場中央辺りから物見台方面を撮ったもの。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231026015.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231026875.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑬</font>物見台<br />
<font size="2">馬場の北端には物見台があり、馬場よりやや高くなっているが、周囲は木々に覆われ眺望はよくない。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231027750.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p><font color="#FF0000">⑭</font>上滝田側からの登城口<br />
<font size="2">この写真手前に駐車場がある。ここから奥へ、馬場経由で行く道が大手のようだ。こちら側から、
登城するのをお薦めする。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090616T231028984.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_895.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/10kanto/14chiba/post_895.html</guid>
         <category>14chiba</category>
         <pubDate>Tue, 16 Jun 2009 23:10:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>甲斐　能見城（韮崎市）</title>
         <description><![CDATA[<p>主郭部跡あたりにたつ城址板と守屋一族発祥の地の石碑</p>
<h3>穴山氏館の詰の城？ or 新府城の出城？</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>山梨県韮崎市穴山町夏目、ＪＲ穴山駅の正面（東）の山</p>
<h3>形状</h3>
<p>丘城</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：城址名板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>０点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／０７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>記録的には明らかではないが、その立地から、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_62.html">新府城</a>の出城として天正９年
（１５８１）築かれたという説が有力であるが、詳細は不明瞭で、近隣に館（<a href=
"http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_893.html">穴山氏館</a>）
を有する穴山氏による独自の城との説もある。<br />
未だ大規模な発掘調査などはされておらず、能見城はともかく、
能見城防塁は武田氏が建設したものか天正壬午の乱時に徳川家康が築いたものかも判然としない。<br />
『フリー百科事典「ウィキペディア（Wikipedia）」、「穴山駅前説明板」他参照」</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>能見城の築城にはいろんな説があるようだが、地元としては「穴山氏発祥の地」ということで、「<a href=
"http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_893.html">穴山氏館</a>の詰の城」
という説を取りたいところだろう。穴山駅のホームの案内板にも駅前駐車場にある案内板にも詰城となっている。<br />
能見城址は、ＪＲ穴山駅の正面（東）にあり、その壁面に「能見城跡」の大きな看板が見える。<br />
城址へは、車で行ける道もあるが、途中で通行止めになっているので、そこから５～６分ほど歩いて行くと、主郭跡らしい処に、「城址板」と
「守屋一族発祥の地の石碑」がある。石碑には、武田信玄の臣・守屋新兵衛がこの地を治めたとある。<br />
途中、土塁跡らしいのが幾つかあるが、よく分からない。少なくとも、主郭周辺部は、上水施設建設により消滅したようだ。<br />
（2009/06/07登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>能見城址全景<br />
<font size="2">ＪＲ穴山駅前の駐車場から撮ったもので、正面の山が能見城址で、壁面に「能見城跡」の大きな看板（写真中央）
が見える。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090613T123417843.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_894.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_894.html</guid>
         <category>18yamanashi</category>
         <pubDate>Sat, 13 Jun 2009 12:34:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>甲斐　穴山氏館（韮崎市）</title>
         <description><![CDATA[<p>穴山氏居館跡を示す館名の板と簡単な説明板</p>
<h3>武田氏重臣穴山氏初代、２代の居館</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>山梨県韮崎市穴山町次第窪<br />
【行き方】<br />
ＪＲ穴山駅の駐車場に簡単な案内図がある。<br />
県道１７号線を北上し中央本線のガードをくぐり更に進み、重久公民館の手前を右折する。道なりに進み、中央本線下の狭いガードをくぐり、
更に道なりに行き、雑木林に突き当たった所に説明板がある。<br />
<font size="2">（穴山駅前の案内図）</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090612T140550448.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<h3>形状</h3>
<p>館</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：雑木林<br />
遺構等：城址名板、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>０点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／０７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>穴山氏初代、２代が、ここに館を構え居住し、峡北地方（山梨県北部）一帯に版図を拡大した。<br />
３代目になり、奥州へ移っていった南部氏の旧領の河内地方（現在の南巨摩、西八代郡一帯）に移った。<br />
戦国時代の穴山氏の当主は穴山梅雪（信君）である。信君の母は武田信玄の姉で、自身は信玄の娘を夫人とした武田氏の一門であり、
親族衆として武田家臣団の中でも重きをなし、永禄１１年（１５６８）信玄が今川氏を滅亡させると、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_371.html">江尻城</a>を築いて梅雪に守らせた。
<br />
しかし、武田勝頼の代になり長篠・設楽ヶ原合戦で敗れ、武田氏劣勢が進むと徳川家康に内応し、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_371.html">江尻城</a>を引き渡す。
<br />
武田氏滅亡後、家康と共に、京都で信長の接待を受けた後、大阪・堺を回遊している最中、本能寺の変が起こり、信長が横死すると、
梅雪は直ちに帰国を目指したが、山城国・宇治で土民によって殺害された。<br />
『穴山駅前説明板他参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>穴山氏居館跡は雑木林と化して遺構は確認出来なかった。多分、発掘調査などは全くされてないのだろう。<br />
城址板と簡単な説明板だけが、ここに館があったことを示しているだけである。<br />
（2009/06/07訪れて）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>ＪＲ穴山駅のホームにたつ「穴山氏発祥の地」の案内板<br />
<font size="2">ＪＲ穴山駅は無人駅なので、ホームまで降りていくことが出来る。かなり大きく、
駅名を示す案内板よりも大きい。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090612T140551886.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>居館跡は雑木林<br />
<font size="2">説明板の横から、雑木林の中に入っていくことができる。林内に道はあるものの、
遺構らしきものは確認できなかった。多分、発掘調査などは全くされていないのだろう。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090612T140552854.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_893.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_893.html</guid>
         <category>18yamanashi</category>
         <pubDate>Fri, 12 Jun 2009 14:06:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>甲斐　獅子吼城（北杜市）</title>
         <description><![CDATA[<p>主郭北東部の石積み</p>
<h3>武田信玄狼煙ネットワークの重要基地、戦国期には２度の攻防戦も</h3>
<h3>所在地</h3>
<p>山梨県北杜市須玉町江草<br />
【行き方】<br />
根古屋神社の裏山が城址。江草地区に入り、根古屋神社方面を目指すと、獅子吼城への案内板がある。それに従い、新しい道を登って行くと、
峠にある登城口（説明板が設置されている）へ出る。<br />
駐車は、その傍のやや広くなった道端に１台か、そこから５０ｍほど降りたところに４～５台駐車できるスペースがある。
登城口から主郭までは７～８分。</p>
<h3>形状</h3>
<p>山城（標高７９３ｍ、比高１３０ｍ）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：山林<br />
遺構等：曲輪、土塁、空堀、竪堀、石塁、復元狼煙台、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>６点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／０７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>獅子吼（ししく）城の始まりは鎌倉時代末期に遡り、城の東北にある見性寺の寺記に、信田小左衛門実正、
小太郎実高親子が城主としていたが、元応２年（１３２０）に討死したという記録がある。<br />
また、武田系譜に応永年間（１３９４～１４２８）武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したといわれる。<br />
武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であったといわれ、塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」
さらに甲信国境の信州峠。また、西方には「中尾城」「若神子城」「大豆生田砦」「<a href=
"http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_894.html">能見城</a>」
「<a href=
"http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_62.html">新府城</a>」
などまで遠望できる。<br />
この城をめぐる攻防戦は、戦国期に２度にわたって繰り広げられた。<br />
一度目は、享禄４年（１５３１）、武田信虎の信州攻略の失策と<a href=
"http://castle.slowstandard.com/10kanto/13saitama/post_45.html">武蔵川越城</a>の城主上杉朝興の愛妾を信虎が後室に迎えたことに腹を立てた親類筋の大井信業と信虎の重臣飯富兵衛、
栗原兵庫、今井信元らが信虎を見限って、諏訪頼満・頼重父子に奔り、天文元年（１５３２）４月、諏訪軍と共に、塩川の河原辺（韮崎市韮崎）
まで攻め寄せた。<br />
しかし、信虎軍の攻撃で栗原兵庫は戦死し、諏訪軍も敗走した。今井信元は、江草一族を頼って獅子吼城へ落ち延びたが、
信虎軍の攻撃にあっけなく落城した。信虎は、反乱の将・今井信元および江草一族を許し、臣従させ、甲斐一国の統一を完全に成し遂げた。
<br />
二度目の戦いは、天正１０年（１５８２）９月、織田信長軍により武田氏が滅亡し、さらには信長も本能寺の変で明智光秀に殺された為、
甲斐国は、小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった（天正壬午の乱）。<br />
家康は韮崎の<a href=
"http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_62.html">新府城</a>に陣し、
氏直は若神子城を本陣とし、大豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配した。９月の初旬、津金衆・
小尾衆など武田の遺臣たちと服部半蔵率いる伊賀組とがこの城に夜襲をかけて落城させた。<br />
この戦いは家康の勝利が決定的なものとなっただけでなく、甲州における戦国時代最後の合戦であった。<br />
『「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」、「現地説明板」より』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>獅子吼城は、山頂部の東西２０ｍ、南北３０ｍの主郭を中心に、北東と南西の斜面に石積みの郭が４段と土塁や帯曲輪を数多く配している。
<br />
獅子吼城址の特徴は、何と言っても主郭部周囲に残る石積み群であろう。きちんと積まれて残っている石積みもあるが、大半は崩れ、
そこかしこに石が散乱している光景は凄まじく、まさに「つわものどもが夢の跡」である。<br />
主郭に近づくにつれて石が大きくなり、主郭周囲は巨石も多く利用され、一部は天然岩の急崖となっている。<br />
また、よく見ると、散乱した石や石積みの間に石段や石敷きなどが残っているのも確認できる。<br />
主郭は下草が刈られていたのが有難かった。また、天気が良ければ、塩川沿いの狼煙台ネットワークなども見渡せるらしい。<br />
（2009/06/07登城して）<br />
<br />
<font color="#FFFF00">【余話】</font><br />
「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」によると、「獅子吼城」という、この何とも勇ましい城名の由来は、この城の山頂に、
守護神が棲んでいたが、信虎軍の攻撃により落城した際、
獅子が吼えるような声をあげて本丸から身を投げて深い淵に沈んだという伝説からだという。<br />
今も、この周辺の村は、獅子舞が村内に入ることを禁じている。また、子供達も獅子頭のオモチャを使ってはいけないと戒めている。禁を破ると、
災難が降りかかるという言い伝えがあったという。<br />
ただ、この「歴史と旅・日本城郭総覧（秋田書店刊）」は、昭和６１年４月の発刊なので、今尚その通りかは分かりません。<br />
（2009/06/07）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>登城口<br />
<font size="2">登城道は、説明板右横の道を入っていく。左の階段上は、藪の中に祠があるだけ。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121755312.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>登城道<br />
<font size="2">しばらく鬱蒼とした中を歩いて行く。途中、下の方に塁段になった削平地（腰曲輪？）
や竪堀跡らしきものがある。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121757000.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>堀切<br />
<font size="2">かなり埋まり浅くはなっているが、堀切へ出る。堀の両側には石積みが確認できる。
</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121757984.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>主郭南東部の崖<br />
<font size="2">上写真の堀切を渡ると、急に転がっている石が増える。そして、左正面に主郭南東部下の岸壁が見えてくる。
まさに、天然の要害だ。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121758718.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>散乱する石・石・石・・・<br />
<font size="2">左手に上写真の急崖を見て、右の方へ進むと、おびただしい数の石がそこらじゅうに転がっている。
</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121759515.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121800265.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>空堀<br />
<font size="2">主郭東下の散乱する石の中に空堀跡らしきものがあった。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121801015.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>石積みの連続<br />
<font size="2">散乱する石の中を歩いて行くと、次々に石積みが現れる。この石積みが最初に出会った石積みであるが、
これを見付けた時、何となくほっとした。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121802046.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>さらに石積み<br />
<font size="2">さらに石積みを見付ける。よく見ると、石積みの左側は石段になっている。</font><br />
<img alt=""
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     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121802890.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>またまた石積み<br />
<font size="2">この石積みの前も道になっていたようで、よく見ると石敷きになっている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121803734.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>石積みと腰郭<br />
<font size="2">さらに登っていくと、２段の石積みが現れる。ここは塁段になった小さな腰郭だったようだ。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121804406.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>主郭下の石垣<br />
<font size="2">さらに登り、主郭に近づくに従い、石積みの石が大きくなる。この石積みは、主郭下のもので、
かなり大きな石が使われている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121805406.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>主郭<br />
<font size="2">主郭には石祠が祀られ、城の説明板や復元された狼煙台が建てられている。主郭は、東西約２０ｍ、
南北約３０ｍあり、往時は周囲を土塁が取り囲んでいたのか、北東部から南東部にかけて僅かに土塁が残っている。
狼煙台に使用されていた城だけに、さすがに眺望は良いが、残念ながら靄で・・・。<br /></font><font size=
"3"><img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121806093.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></font></p>
<p>㊧主郭北東部の土塁、㊨復元狼煙台<br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121807562.jpg"
     align="baseline"
     border="0" />　<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121808453.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>主郭南西下の腰郭<br />
<font size="2">主郭南西下には、割り合い広い腰郭がある。主郭上から撮ったもの。右に見える説明板には、
狼煙台について説明されている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121809218.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>主郭南西下の石積み<br />
<font size="2">主郭の南から南西部にかけては、巨石が多く利用されている。</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121810328.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>
<p>主郭南西２段下の腰郭<br />
<font size="2">主郭南西部は４段の腰郭がある。これは、主郭南西下の腰郭から、その下にある腰郭を撮ったもの。
</font><br />
<img alt=""
     hspace="0"
     src=
     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090611T121811156.jpg"
     align="baseline"
     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_892.html</link>
         <guid>http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_892.html</guid>
         <category>18yamanashi</category>
         <pubDate>Thu, 11 Jun 2009 12:18:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>甲斐　笹尾塁（北杜市）</title>
         <description><![CDATA[<p>一郭南西部の土塁</p>
<h3>対諏訪氏防衛の重要拠点</h3>
<h3>別名</h3>
<p>笹尾砦、篠尾要害</p>
<h3>所在地</h3>
<p>山梨県北杜市小淵沢町下笹尾７５４－１、城山公園<br />
【行き方】<br />
小淵沢駅の南方６００ｍを走る県道１７号（七里岩ライン）を２ｋｍ程南西へ向かい、篠尾郵便局の１５０ｍ程手前の十字路（角の公民館？
に案内図有り）を右折する。１ｋｍ程南下すると右手に「城山公園への案内」がある。それに従い、
斜め右へ曲がり３００ｍ程直進すると広い駐車場へ出る。駐車場は三郭跡である。</p>
<h3>形状</h3>
<p>崖端城（丘城）</p>
<h3>現状・遺構等</h3>
<p>現状：城山公園<br />
遺構等：曲輪、土塁、虎口、堀切、空堀、土橋、説明板</p>
<h3>満足度（１０点満点）</h3>
<p>５点</p>
<h3>訪城日</h3>
<p>２００９／０６／０７</p>
<h3>歴史等</h3>
<p>笹尾砦が史実に登場するのは、諏訪市の上宮「当社神幸記」の享禄４年（１５３１）の頃の記述に、「武田、
諏訪両氏の対立に享禄４年１月２２日、笹尾砦が使われた」とあるのが最初である。<br />
岩尾砦は、諏訪氏と対立していた諏訪下社大祝金刺昌春が、享禄年間（１５２８～３２）に、甲斐の武田信虎を頼って落ち延び、
武田氏と結んで築城したようである。<br />
その後、笹尾砦は、武田信虎が諏訪勢に対抗しつつ国内統一を果たす上で重要な拠点となった。<br />
天正１０年（１５８２）に織田信長軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、
本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、河尻秀隆は殺害された。<br />
その後の武田氏遺領を巡り、徳川家康と北条氏直が戦った（天正壬午の乱）際、氏直は若神子城を本陣とし、家康は<a href=
"http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_62.html">新府城</a>を本陣とした。
この時、笹尾砦も北条方の陣所として使用されたと言われる。<br />
そして、<a href=
"http://castle.slowstandard.com/post_892.html">獅子吼城</a>の攻防を経て、
徳川氏と北条氏の和議成立により甲斐は徳川領となり、この笹尾砦も廃城となったと思われる。<br />
『現地説明板他参照』</p>
<h3>現況・登城記・感想等</h3>
<p>笹尾塁は、北から南へと伸びた舌状台地を何本かの堀切によって分断して曲輪を設けられた典型的な連郭式城郭である。<br />
規模は、東西８０ｍ、南北２６０ｍと小ぶりで、「塁」とか「砦」という控えめな名前が付いてはいるが、
なかなかどうして東西南の三方を急崖に守られた天然の要害地にある立派な城郭である。<br />
現在、笹尾塁跡は城山公園となり、中央部の三郭と四郭は駐車場になっているが、その南にある一郭、二郭が綺麗に整備されている。
<br />
一郭、二郭には鉤型に折れ曲がる見事な土塁や鋭い屈曲を伴う枡形などもあり、二郭の北側には空堀も残る。また、一郭と二郭間には堀切（虎口？
）も確認できる。<br />
北部の五郭と六郭は雑木林や畑地になっているが、その間の堀切は良好に残っている。<br />
（2009/06/07登城して）</p>
<h3>ギャラリー</h3>
<p>縄張略図（現地説明板より）<br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142936281.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>三郭・四郭<br />
<font size="2">三郭と四郭跡は駐車場となっている。左側の雑木林は五郭。</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142937500.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>二郭への土橋<br />
<font size="2">二郭北側には空堀（写真左側）があり、土橋を渡る。右側は急崖になっている。
入口には高圧電流の流れるワイヤーが張られており、プラスチックの取っ手を持って外して入っていくが、
何とも簡単な装置で高圧電流が流れているとは思えなかったが・・・？正面説明板が設置されている土塁上が二郭。空堀は、
藪で写真にすると全く分からない状態だったので省略。</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142938203.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>二郭<br />
<font size="2">二郭は周囲を土塁が取り囲んでいる。土塁に、僅かではあるが石積みが確認できたが、
土塁を堅固にするための内部の石が露出したものだろうか？</font><font size="2">二郭南東部（写真右手前）
には展望台が建てられていたが、写真は省略。展望台の床下に、どういうわけか説明板が捨てられていたが、その説明板が、
公園内の他に幾つか建てられている説明板よりも城の歴史が詳細に書かれていた・・・？</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T145518140.jpg"
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     border="0" />&nbsp;<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T145520796.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>一郭と二郭間の堀切<br />
<font size="2">一郭と二郭の各西側の土塁を断ち切ったもので、堀切というよりも虎口といった方が正解かも。往時は、
両側土塁上には、何らかの建物があったことだろう。</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142939593.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>一郭<br />
<font size="2">一郭は、郭を取り囲むように北西部から南西部にかけて土塁（写真右側）が築かれている。
土塁の高さは２ｍはある立派なもので、かっこいい。</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142940328.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>一郭西側の土塁<br />
㊧南部分、㊨北部分<br />
<font size="2">一郭の西側崖上に郭を取り囲むように大きく屈曲した土塁は、防衛上に有効なのは勿論、
ビジュアル的にもかっこよい。南北両端部はやや広く、櫓が建てられていたことであろう。</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142941078.jpg"
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     border="0" />　<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142941906.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>五郭<br />
<font size="2">五郭は雑木林になっているが、東側のワイヤー横を通って六郭へと・・・。でも、このワイヤー、
本当に高圧電流が通っているのだろうか？？</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142942687.jpg"
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     border="0" />　<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142943453.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>五郭と六郭間の堀切<br />
<font size="2">駐車場の北側部分では、唯一良好に（分かりやすく）残っている遺構だ。写真奥が六郭。
</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142944359.jpg"
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     border="0" /></p>
<p>六郭（㊧南から北方面、㊨北から南方面）<br />
<font size="2">六郭は畑地となり、南と西側が土塁になっているが、かなり手が加えられているのだろうか？
北側の堀切跡は道路に？？</font><br />
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142945250.jpg"
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     border="0" />　<img alt=""
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     "http://castle.slowstandard.com//media/img_20090610T142946078.jpg"
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     border="0" /></p>]]></description>
         <link>http://castle.slowstandard.com/20shinetsuhokuriku/18yamanashi/post_891.html</link>
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         <category>18yamanashi</category>
         <pubDate>Wed, 10 Jun 2009 14:29:58 +0900</pubDate>
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