陸奥 七戸城(七戸町)

奥州における南朝方の一大拠点、且つ津軽に対する備えの城

別名

柏葉城

所在地

青森県上北郡七戸町七戸

形状

平山城

現状・遺構

現状:柏葉公園
遺構等:曲輪、土塁、水堀、空堀、碑、説明板

満足度(10点満点)

7点

訪城日

2007/08/12

歴史等

七戸城の築城年代および築城主については、
①鎌倉時代初期   七戸太郎三郎朝清
②鎌倉時代末期   工藤右近将監
③南北朝時代初期  南部政長
等の諸説があり、必ずしも明確ではないが、資料に上に最初に登場してくる七戸の領主は、鎌倉幕府方の武将工藤右近将監である。
この工藤氏の領地七戸は、元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡にともない宮方に没収され、建武2年(1335)、 幕府打倒に功績のあった南部政長(後の根城南部5代) に下賜された。
爾来、この城は八戸根城とともに南朝方の一大拠点となり、 特に津軽地方に対する備えとして重きをなした。
南北両朝合体後は、根城南部第8代政光がこの城に退隠し七戸氏を名乗った。
その後、長くその子孫が在城したが、天正19年(1591)九戸政実が宗家三戸南部信直に叛した時 (九戸の乱:九戸城参照) 、七戸家国は政実と結び、羽柴(豊臣)秀次を総大将とする奥州仕置軍に滅ぼされ、七戸南部家は断絶し、 城もまた豊臣秀吉の諸城破却令により破却された。
しかし七戸の重要性から、信直は浅水城主南直勝に名跡を継がせ、慶長2年(1597)には、その長子直時を七戸2千石の城主とした。
直時の死後、正保4年(1647)盛岡藩27代利直の5男重信が後を継ぐが、 寛文4年(1664)重信が29代盛岡藩主に抜擢されてから後の七戸は、 盛岡藩直轄となり、城内に代官所が置かれた。
『現地説明板2箇所より』

現況・登城記・感想等

七戸城址は当初想定していたよりも、規模も大きく、本丸・二の丸の周りを中心に遺構が良好に残っていた。
中でも、本丸や二の丸周囲の土塁や二の丸・北館間の水堀等がこの城の見どころであろう。また、 二の丸と貝ノ口間の大堀切は大規模であると同時に実に綺麗で、二の丸上から見る眺めは最高のアングルだ。尤も、 この堀切はほとんど自然の地形を利用したものだとは思うが。
また、他の郭も発掘調査が進んでいるようであり、北館については復元予定もあるようで、これからが楽しみだ。尤も、 残念ながら再登城はちょっと無理かな!?
(2007/08/12登城して)

ギャラリー

七戸城鳥瞰図(現地説明板より)           ~クリックにて拡大画面に~

柏葉公園(七戸城址)案内図  ~クリックにて拡大画面に~

大手口(手前左側土塁は宝泉館、奥は西館)

本丸・二の丸への登城口
 

本丸土塁

㊧本丸、㊨本丸に建つ城址碑
 

二の丸(二の丸は周りを土塁で囲まれている)

二の丸から見下ろす二の丸・貝ノ口間の大堀切
二の丸と貝ノ口間の大堀切は大規模であると同時に実に綺麗で、二の丸上から見る眺めは最高のアングルだ。 尤も、この堀切はほとんど自然の地形を利用したものだとは思うが。

二の丸土塁から水濠越しに北館を

二の丸・北館の水堀

二の丸・北館から二の丸西側にかっけての水堀②

北館・貝ノ口間の堀切

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント