戊辰戦争を恐れ山中に築き移った松前藩の城
所在地
北海道桧山郡厚沢部町城丘
形状
平山城
現状・遺構
現状:館城跡公園
遺構等:曲輪、土塁、堀、塹壕、井戸、石碑、説明板
満足度(10点満点)
4点
訪城日
2007/09/10
歴史等
戊辰戦争が奥州に及んだ明治元年(1868)、松前藩主18世徳広は松前城の海面に対する防備が不備であることを心配して、
一期有事の避難地に内定していたこの地に新城を築いて移ることとした。また、藩の内乱、拓地勧農などの藩内諸事情もあったとも云われる。
築城は突貫工事で9月1日に着手し、10月25日に完成したというが、未完成であったとも云われる。
館城は城丘の丘陵地にあり、南方は深山を蔽い、濁川、糠野川を三方にめぐらし要害に最も適した所であった。
明治元年(1868)10月26日、五稜郭を占領した徳川脱走軍が松前城に迫ると、
藩主徳広は松前城を遁れ、
夫人及び男子3児、その他藩士300人を従え新城に移った。11月5日松前城を占領した徳川脱走軍は、
11月15日館城を攻撃し、16日落城した。藩主徳広はその内室子息と共に近臣に護られ熊石に逃れた。
館城は着工後わずか75日で陥落した城で、松前藩最後の城である。
尚、明治2年(1869)徳広の長男兼広が松前城に戻り、
館藩と改称した。
『「現地説明板&石碑」、「現地ミニ資料館掲載資料」等参照』
現況・登城記・感想等
館城は、厚沢部町の中心部から車で厚沢部町城丘へ向かってかなりの距離を走って行くと、途中に館城への案内板が左手に見える。
そこを入って行くと館城跡公園へと出る。それにしても相当な山奥である。私の勝手な言い方だが、何か松前藩の情けなさが目に浮かぶ。
城跡は道路で裁断され、北側が本丸跡地である。本丸跡地には建物跡等の位置がわかる標識が立てられている。また、井戸跡も残る。
本丸奥には一段低い郭跡があり、米蔵の標識と井戸跡が残っている。
道路の反対側(南側)には、土塁や堀が残っている。また、天守閣を模した小さな建物と、その隣にはミニ資料館として小さな小屋が建っており、
ガラス戸の中に館城に関する新聞記事等の資料が貼られている。
そこから展望台の方へ登って行くと、途中に多くの塹壕跡が残っていた。「この塹壕に潜って旧幕府軍と撃ち合ったんだな」
などと思いを巡らした。
展望台は往時は物見台として使われていたのであろうが、今は木々に遮られて眺望はよくない。展望台と称するのはおこがましいような気がする。
それにしても、松前城と較べて決して要害の地とも思えないようなこの地に何故移したんだろう?
?
(2007/09/10登城して)
ギャラリー
館城への入口
厚沢部町の中心部から車で厚沢部町城丘へ向かってかなりの距離を走って行くと、途中に館城への案内板が左手に見える。
そこを入って行くと館城跡公園へと出る。

道路によって裁断された館城址
城跡は道路で裁断され、北側が本丸跡地である。写真は東側から撮ったもので、道路右側が本丸跡。

本丸跡
本丸跡地には建物跡等の位置がわかる標識が立てられている。また、井戸跡も残る。
写真奥に見える一段低い郭は、賄部屋と米蔵跡。

㊧本丸跡に建つ石碑、 ㊨本丸跡に残る礎石

㊧本丸跡の三上超順力試之石と㊨タモの木
三上超順は、館城攻めで松前兵全滅の危機に際して正義隊隊長を務めていた。三上は右手に大刀、
左手に盾代わりのまな板を携えて、味方を逃がすため単身旧幕府軍の前に立ちはだかり、旧幕府軍指揮官・伊奈誠一郎を殺傷するも、
最後には斬殺された。享年34歳。遺体はその豪傑ぶりを讃えられて旧幕府軍により手厚く葬られたという。
㊨のタモの木の前の標柱には、「超順死してタモ木と変わり館城跡を見守る」と書かれている。

賄部屋と米蔵跡
ここにも井戸跡(右側の案内板)がある。奥は畑となっているが、往時は湿地となっていたのか?

天守閣を模した小さな建物と、その隣にはミニ資料館
道を挟んで本丸反対側に、天守閣を模した小さな建物と、その隣にはミニ資料館として小さな小屋が建っており、
ガラス戸の中に館城に関する新聞記事等の資料が貼られていた。
郭と土塁
道路を挟んで、本丸反対側の郭。周りを土塁が囲んでおり、その外側には堀が残っている。
右側土塁の外側は百間堀である。

東側の土塁と堀跡(写真の右側は、上写真の郭)

百間堀(幅も深さも小規模なものである)

塹壕
展望台の方へ登って行くと、途中に多くの塹壕跡が残っていた。
「この塹壕に潜って旧幕府軍と撃ち合ったんだな」などと思いを巡らした。

展望台
展望台は往時は物見台として使われていたのであろうが、今は木々に遮られて眺望はよくない。

