要害城(甲府市)

所在地
山梨県甲府市上積翠寺町
形状
山城(標高:780m、比高:260m)
現況・遺構
現況:山林
遺構:曲輪、土塁、虎口、石積み、堀切、竪堀、井戸等
お勧め度(10段階)
6点
歴史等
要害城は信玄の父武田信虎が甲斐国内を統一し、躑躅ヶ崎館を築いた翌年の永正17年(1520)に、
緊急時に立てこもる詰めの城として築いた山城で、その後信玄・勝頼と三代にわたって使用された。
築城の翌年大永元年(1521)、甲斐に駿河今川氏の将福島正成が侵攻してきた。この時、信虎夫人はこの城に避難し、
晴信(信玄)を生んだという。晴信(信玄)の時代にも躑躅ヶ崎館の詰の要害として存続したが実戦では使われていない。
信玄死後、天正3年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦の敗北後、武田勝頼は天正4年(1576)6月1日に要害山城の修築を命じている。
武田氏滅亡後、遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦うが(天正壬午の乱)、和睦により甲斐は徳川領とされ、
躑躅ヶ崎館には平岩親吉が城将に任じられ、要害山城には駒井右京・日向玄東斎・日向半兵衛などが城番に任ぜられ、
一時期加藤遠江守光泰が修復して在城した。
天正18年(1590)の小田原の役後、家康が関東に移封されると甲府には羽柴秀勝が任じられ、
甲府城を完成させて移ったため躑躅ヶ崎館は廃城となり、要害山城は慶長5(1600)年終わりに破却された。
『参考サイト:埋もれた古城』
訪城日
2001/10/06
感想等
甲府駅から躑躅ケ崎館跡まで20分、見物後さらに要害城まで、バスに乗れば良いものを、1時間30分近く歩いた。
だらだらと長く続く坂道は本当にきつかった。やっと登り口まで来たら、何と「熊出没注意」の看板があり、最近よく出てくるとのこと。
ここまで苦労して歩いて来てとの想いもあり、迷っていると散歩の人に出会い、その旨を聞くと「熊は知らないが、最近、
猪がしゅっちゅう出てきて、畑を荒らすので困っている」とのこと。熊も怖いけど、猪もいやだなあと考えた末、今回は涙を飲んで諦めた。
遺構が実によく残っていて素晴らしいとのことである。もうひとつの登り口の「ホテル要害」側に廻って、要害山城跡を見たが、名前に相応しく、
まさに天然の要害といった感じで素晴らしい。いつか絶対また挑戦するぞ。
(2001/10/06訪問後)
前回(2001/10/06)、熊出没注意で断念した要害城に会社の友人・友井さんと行ってきました。今回は、無理をせず車で
「ホテル要害」の所まで行き、そこから登城しました。躑躅ケ崎館からの登り道は車でもかなりある。前回、よく歩けたものだと今更ながら思う。
今ではとても無理だな!
要害城は500年もの年月を経ている割には遺構が非常に良好に残っていた。特に、私が気が付いただけでも3箇所もの枡形虎口や、
今でもはっきり分かる堀切は素晴らしい。ただ、「信玄産湯の井戸」を見逃した。他の曲輪や門跡などの案内板はいたる所に出てくるのに、
案内板がなかった。何故??
(2006/06/03登城して)
ギャラリー
要害城地形図(谷を隔てて、南東尾根上に支城の熊城がある)
登城口「ホテル要害」のところから城址全景
前回は秋(10月)でもあり、もっと岩肌がむき出しになっていた記憶があるが、
今回は草木が最も元気な6月初頭。それでも、ところどころ岩肌がむき出しになっていて、いかにも中世の山城といった感じ
登りはじめていきなりの石垣
ただ、この石垣は当時のものではなさそう。石がきれいで、新しすぎる。
登城道(整備され歩き易いが、結構急坂である)
天然の物見台?(3方にわたって見晴らしがよく、多分、物見台だと思うが全く説明板がない)
土塁(最初に出会った土塁)
枡形虎口①(門跡が非常に多く、はっきりと枡形虎口になっているのは、
気がついただけでも3箇所以上あった。)
不動曲輪
不動曲輪からの甲府市内の眺望 ズームアップ(中央に躑躅ケ崎館の堀が見える)
石垣(所々に石垣が残っている。よく見ると土に埋もれた石がいっぱいある。
実際はもっと残っているようである。
門跡の石垣(石垣が所々に残っているが、この門跡の石垣が最も良好な形で残っている)
枡形虎口②
(本丸虎口手前の枡形虎口であるが、この枡形は結構広い)
本丸への虎口①
本丸への虎口②(土塁の上から虎口に立つ友井氏を撮影)
本丸への虎口と土塁(土塁上から撮影)
本丸虎口と土塁(本丸内から撮影)
本丸を一周している土塁(石垣も残っている)
本丸跡に建つ「武田信玄誕生の地」の石碑
本丸(標高780m、比高260mある)
本丸への搦め手虎口前の見事な堀切(この堀切には石垣も残っている)
土橋と竪堀(それにしても竪堀の多いこと。中でもこの竪堀は見事である)
竪堀(本当に見事な竪堀が多く、この竪堀も絶壁になっている)