福法寺に移築された乾門
土井利勝が大修築した城も整備した城下町も多くが河川改修工事で河川敷に
所在地
茨城県古河市桜町・中央町
形状
平城
現状・遺構等
現状:市街地、河川敷
遺構等:土塁の一部、空堀の一部、移築乾門(市内:福法寺)、石碑
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2006/06/25
歴史等
鎌倉時代初期に源頼朝の家臣であった下河辺行平が館を築いたのが始まりとされる。室町時代初期、古河城主下河辺朝行は北関東の小山城
(栃木県小山市)を拠点とする小山氏に滅ばされた。
足利持氏の第4子成氏は、父持氏と兄3人を「*永享の乱」と「*結城合戦」
で失ったのち、宝徳元年(1499)許されて鎌倉公方となったが、関東管領上杉憲正と争ったため康生元年(1455)
鎌倉を追われ古河公方と称し、本拠地を古河に移した。そして、
その後渡良瀬川と沼に囲まれた要害の地である下河辺氏の館跡に古河城を築き移った。
やがて、後北条氏が関東へ進出してきて、関東は後北条氏と古河公方、山内上杉氏、扇谷上杉氏の戦いが繰り広げられることになった。
天文14年(1545)の「川越夜合戦(川越城参照)
」で古河公方の足利晴氏(成氏の曾孫)は、両上杉とともに、北条方の川越城を包囲したが、
逆に大敗を喫した。この戦いで、扇谷上杉氏は滅亡、以後、古河公方と山内上杉氏は、後北条氏によって圧倒され続けた。
天文21年(1552)足利義氏は、父晴氏の跡を継いで5代古河公方に就任した。しかし、
義氏が天正11年(1583)跡継ぎ無く没したため、古河公方もここに断絶した。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅び、同年、徳川家康が関東に入封すると、信濃松本より小笠原秀政が3万石で入封した。
その後、戸田氏、小笠原氏、奥平氏、永井氏を経て、寛永10年(1633)土井利勝が下総佐倉から16万石で入封した。
土井利勝は本丸に天守の代わりに三層櫓を築くなど、古河城を大修築し、城下町も整備した。
その後、堀田氏、藤井松平氏、大河内松平氏、本多氏、松井松平氏と続いた。
宝暦12年(1762)土井利里が肥前唐津から父祖の地古河に返り咲き、
以後、古河城は土井氏7代の居城として明治維新を迎える。
【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。
前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円
(6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、
将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、
翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。
【結城合戦】
永享の乱の翌年、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月、攻防8ヶ月の末、
結城城は陥落した。春王丸と安王丸は殺されたが、まだ8歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された。
『「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・ 中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』
現況・登城記・感想等
古河城の中心部は河川改修工事で河川敷となってしまい、ほとんど残っていないが、市内に移築乾門や土塁の一部・ 空堀の一部等々が残っており、城下町としての歴史を少しは感じられるかなあ?(2006/06/25訪れて)
ギャラリー
獅子崎の土塁
数少ない遺構のひとつで、対面には家老屋敷長屋門、裏側には百間堀跡が残っている。
百間堀跡
獅子崎の土塁の裏側にある。
家老屋敷の長屋門
御成門の近く、獅子崎の土塁の道を挟んで前にある。
移築乾門
福法寺山門として移築現存されている古河城乾門。唯一の古河城現存建造物である。
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乾門を横から撮影
なかなか鮮やかで見事である。
正定寺黒門(土井家江戸下屋敷表門)
正定寺黒門は土井家江戸下屋敷表門を移築したものであり、正定寺は古河城主・土井利勝の開いた寺で、
土井家歴代の墓所である。
出城諏訪郭の石碑
古河歴史博物館の入口にある。