伯耆 尾高城(米子市)

中の丸と南大首郭間の空堀

尼子・毛利氏争奪戦の中で杉原盛重の執念の城

別名

泉山城(いずみやまじょう)、小鷹泉山城

所在地

鳥取県米子市尾高
【アクセス】
米子道路「米子東IC」から県道53号で900m程南下し「大山入口信号」を左折して県道24号に入る。400m程東進した「米子ハイツ入口」バス停付近で右折してそのまま道なりに行くと「米子勤労総合福祉センター(通称:米子ハイツ)」の「米子市勤労者体育センター」がある。この北西一帯が城跡で、駐車場もある。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 公園、勤労者体育センター、米子ハイツ、山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、隅櫓台、模擬木橋、遺構案内板、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2012/05/21

歴史等

尾高城の築城年代・築城者は定かではない。戦国時代は、豪族行松正盛が居城していたが、大永4年(1524)に月山富田城主尼子経久の伯耆侵攻により城を追われ毛利元就に属した。そして、当城には尼子方の吉田光倫が在番した。
永禄5年(1562)、毛利元就が尼子氏の白鹿城を攻撃した時、行松正盛はこれに従って38年ぶりに城主に返り咲いた。
しかし、同7年(1564)に行松正盛が病死したため、 毛利氏は杉原盛重を尾高城に配し、対尼子氏に備えた。
永禄9年(1566)尼子義久が降伏し、尼子氏は没落したが、戦いは天正9年(1581)杉原盛重が病死するまで続いた。盛重没後は、家督争いの内紛の末、同11年(1583)20年間の杉原氏時代が終わった。
杉原氏滅亡後の尾高城には吉川元春配下の吉田元重が城代として在城した。
尚、尼子氏の武将で「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったことで有名な山中鹿之介は、当城の虜囚となり、数十度の厠通いで城兵の油断を誘い、汲み取り口から脱出したという。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦功により、同6年、駿府城主中村一忠が17万石で入封し、一時的に尾高城を居城としたが、米子城完成と同時に米子に移り、尾高城は廃城となった。
『「日本城郭大系14」、「現地説明板」他より』

現況・登城記・感想等

尾高城は、現在、米子勤労総合福祉センター(通称:米子ハイツ)が城跡の一部に建てられ、また、城跡一帯は公園となり、梅や桜の木々などが植えられているが、曲輪・土塁・空堀など城の遺構は良好に保存・整備されている。
尾高城の縄張りは、丘陵の縁に沿って北から直線上に並ぶ二の丸・本丸・中の丸・中の丸・天神丸とその南東側の南大首郭、方形館跡の曲輪などから構成されている。
それら曲輪は空堀によって区切られているが、その縦横にめぐる大規模な空堀は見応えがあり、当城の最大の見どころであろう。
城跡は、中の丸と南大首曲輪跡一帯が、よく整備されている。
本丸と二の丸は、他の曲輪よりかなり高所にあり、それぞれ91m×41m、51m×34mと、かなりの規模で、土塁も残っているらしいが、全く未整備の山林状態で入って行けないようだったのが残念だ。
(2012/05/21登城して)

ギャラリー

尾高城縄張り略図(現地説明板より)
00尾高城縄張略図

空堀と木橋
体育センターの駐車場のすぐ脇に、いきなり空堀が現れ、木橋が掛かっているのが見える。写真左側の駐車場辺りは武家屋敷跡で、橋を渡った右側は南大首郭跡である。堀には橋脚柱穴が発見され、木橋が架けられていたと思われる。空堀は、埋められたのか、埋まってしまったのか、他の空堀と較べると随分浅い。
01木橋

南大首郭
南大首郭は、60m×40mの規模で、4つの平坦面を持つ。発掘調査により、南と東側には土塁があったことが確認されている。郭の北西角には掘立柱建物跡が見つかり隅櫓的な建物が建っていたことが判明している(写真正面奥)。
02南大首郭

南大首郭の土塁
03南大首郭土塁

隅櫓跡
04隅櫓跡

中の丸と南大首郭間の空堀
当城跡の最大の見どころは、曲輪を区切る空堀であろう。この空堀も、上部幅7m以上、深さ4m以上はゆうにあるだろう。写真左の切岸上が中の丸、右上は南大首郭だが、この両側の切り立った切岸も見事だ。
05中の丸東空堀

中の丸南側の空堀
この空堀を西の方へ進んで行くと、県道24号線と主要地方道米子・大山線の交叉するところへ出る。この主要地方道も堀跡だという。尚、右の土塁上が中の丸。尚、中の丸の西側には腰曲輪が設けられている。
06中の丸南空堀

IMG_0831

南大首郭の南側の空堀
南大首郭と中の丸周辺は、よく保存・整備されているので、この深い空堀も見応えたっぷりだ。
07大首郭南空堀

中の丸へ向かう
中の丸へは、北東部から登って行くことができる。写真右は、本丸との間の堀。
08中の丸へ

中の丸
中の丸は、尾高城の主要な曲輪の一つで、47m×37mの規模があり、土塁をめぐらしており、南側と東側に一部が残存している。山中鹿之介が捕えられた時に、この中の丸に幽閉されたと伝えられる。
09中の丸

中の丸南側の土塁と空堀
土塁の高さは、1m強程度だが、その下の空堀底とはゆうに4m以上はあり、おまけに強烈に切り立った切岸で、万全の防御かも。
10中の丸南側土塁と空堀

中の丸から西方面の眺望
尾高城の立地は、この西側と北側が急崖になっており眺望が良い。この中の丸もそうだが、南大首郭も、土塁が南と東側にだけあるのが分かるような気がする。
11中の丸からの眺望

本丸(写真右側)と中の丸の間の空堀
本丸と中の丸の間(本丸南側)から本丸東側にかけても堀が巡っていたようだ。この堀は、本丸の北東に湧水があり、今も小川が流れていることから考えると、水堀になっていたのではないだろうか。
15本丸南堀

本丸と二の丸跡
本丸と二の丸は高所にあり、それぞれ91m×41m、51m×34mと、かなりの規模で、土塁も残っているらしいが、全く未整備の山林状態で入って行けないようだったのが残念だ。山の手前側が本丸で奥の方が二の丸のようだ。
16本丸

本丸東側の堀
本丸南側の堀と同様、この東側も水堀であったと思われるが・・・?この写真の奥に小川(次の写真)が流れている。左側が本丸で、その奥に二の丸が。
17本丸東空堀

小川が
本丸と二の丸の北東には湧水があるようで、小川が流れている。
18二の丸下湧水

薮で・・・(/。ヽ)
何とか、本丸と二の丸に登ろうと、登り口を捜して、小川に沿って歩いて行ったが、此処から先は、藪がひどくて断念した(/。ヽ)
19行き止まり

倉庫跡?
「日本城郭大系14」によると、本丸の東側の曲輪跡は、倉庫跡らしいが、ここも土塁がめぐっていた。
28倉庫跡

方形館跡
案内板によると、方形館跡はゲートボール場になっているとあったが、その気配はあまりなかったが・・・?
30方形館跡

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