伯耆 羽衣石城(湯梨浜町)

本丸下の帯曲輪から見上げる羽衣石城の模擬天守

南条氏10代、234年間に渡っての居城

読み方

うえしじょう

所在地

鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石
鳥取市方面から県道22号を西進し、羽衣石川に架かる「羽衣石橋」を渡ってすぐの信号を左折し、川沿いに2.5km程南下すると、城の案内が出ているのでそこを左折し、橋を渡る。道なりに1.4km程東進すると、「羽衣石山登山口」の標柱があるので、そこを左折し、登って行くと道路終点が駐車場となり、そこが登城口。

所要時間

山腹の駐車場から、山頂の主郭部まで、15分コースと20分コースの2つのルートがある。

形状

山城(標高372m、比高280m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 模擬天守、模擬櫓、曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2012/05/20

歴史等

羽衣石城は、貞治5年(正平21年、1366)、南条貞宗によって築かれ、以来10代、234年間に渡って南条氏代々の居城であった。
貞宗は、塩治高貞の次男で、高貞が滅亡した時、越前国南条郡に逃れた。貞宗は、成長後、将軍足利尊氏・義詮父子に仕えて功績をあげ、伯耆守に任ぜられ、守護職山名氏の麾下に属した。その後、応仁の乱(1467~77)などで山名氏の権力が衰退し、南条氏は8代宗勝の時には守護山名澄之を上回る武力を保持するに至った。
しかし、大永4年(1524)、出雲月山富田城主尼子経久の伯耆侵攻によって、宗勝は城を追われた。尼子経久は、羽衣石城に新宮党尼子国久(経久の次男)、泊の川口城に尼子誠久(国久の長男)を置き、因幡に対する押さえとした。
天文9年(1540)、尼子誠久の毛利元就追討のため、安芸国に討ち入ったのに乗じて、城を追われた宗勝以下の伯耆の諸将は旧城奪回を策し伯耆に乱入したが、軍を返して羽衣石城に入った国久・誠久父子に突き崩された。
その後、毛利氏によって尼子氏が滅亡され、南条宗勝が城主に返り咲き、南条氏は毛利氏の家臣団に組み込まれた。
天正7年(1579)、織田信長の中国攻略が本格化すると、宗勝の子元続は羽柴秀吉の誘いに応じたため、羽衣石城は吉川元春と尾高城主杉原盛重の攻撃を受けて落城し、元続は因幡に逃れた。
しかし同年、元続は秀吉の支援を受けて羽衣石城を急襲して奪回に成功し、以後、毛利氏と対峙した。同10年(1582)の鳥取城落城後、秀吉・毛利氏の和睦が成立すると伯耆四郡は南条氏の領有となった。
慶長5年(1600)、元続の子・10代元忠は関ヶ原では西軍に与したため改易となり、羽衣石城も廃城となった。
尚、南条元忠は大坂の陣では大坂城に籠城したが、徳川方に内通したことを理由に大阪城内で切腹し、ここに10代続いた南条氏は滅亡した。
『「日本城郭大系14」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

羽衣石城の主郭部は、標高372m、比高差280mの峻険な羽衣石山山頂部にある。
山の中腹にある駐車場までは車で行けたが、時計を見るとPM6:00過ぎだ。日の暮れるのが遅い季節とはいえ、山中は暗くなるのが早い。
駐車場に、案内板が設置され、15分コースと20分コースの登城ルートが示されていたので、一も二もなく15分コースで登城することにした。
ところが、15分コースはハイキングコースとして整備されてはいるものの、大変な急坂道で、既に、他の山城で2万歩以上歩いた身としては、かなりきつかったw(*゚o゚*)w。普段なら、案内板に15分となっているコースなら11~12分ほどで登れるところだが、きっちり15分掛かった( ̄ー ̄;。
尤も、途中、巨岩の脇を通り抜けたり、石垣や曲輪群を見たりと、本来なら楽しみながら登れるコースだ。
ただ、あまりにも時間がなさすぎた。羽衣石城の規模は、想像していたよりも遥かに大きいようで、山頂部に構えられた主郭部(主郭・二の曲輪とそれに付随する帯曲輪)以外にも、北西尾根筋に相当数の段曲輪が築かれ、また、各所に水の手・井戸祉が残存しているようだが、その多くを見逃すことになってしまった。
主郭部周辺を、さっさと見て回り、20分コースで下りてきた。途中で、薄暗くなってきて、駐車場に着いたら18:50で、真っ赤な夕陽が・・・w(*゚o゚*)w。
(2012/05/20登城して)

ギャラリー

羽衣石城概略図(羽衣石城跡本丸に設置の案内板より)
羽衣石城の規模は、想像していたよりも遥かに大きいようで、山頂部に構えられた主郭部(主郭・二の曲輪とそれに付随する帯曲輪)以外にも、北西尾根筋に相当数の段曲輪が築かれ、また、各所に水の手・井戸祉が残存しているようだ。
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【登城記】
羽衣石城跡登城ルート案内図(駐車場に設置の案内板より)
山の中腹にある駐車場までは車で行けたが、時計を見るとPM6:00過ぎだ。日の暮れるのが遅い季節とはいえ、山中は暗くなるのが早い。駐車場に、案内板が設置され、15分コースと20分コースの登城ルートが示されていたので、一も二もなく15分コースで登城することにした。
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登城口(山腹にある駐車場)
写真左の階段が20分コースで右奥が15分コースの登城口。
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登城道
登城道はハイキングコースとして整備されている。登城口から2分ほど登って行くと、右手に標柱(写真中央やや右)があり、ここを右折すると「八幡神社」へ行けるようで、羽衣石城の北西尾根に構えられた多くの曲輪跡が見られるようだ。全く、時間に余裕のない私は、勿論、主郭を目指して真っ直ぐ登って行った。
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石垣
さらに4分ほど登っていくと、石垣が現れる。この石垣は、かなり保存状態が良好だ。
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急坂道
石垣を過ぎた辺りから、道の側にいくつも巨岩が現れ、道も急な坂道になってくる。それらの巨岩は、上から覆いかぶさっているような感じで、今にも崩れ落ちてくるのではないかとの恐怖を感じるほどだ。そして、5分程登っていくと「羽衣石」というのが現れる。
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羽衣石
羽衣石(うえし)集落には「羽衣」伝説というのがあり、その天女が降りた山を「羽衣石山」と呼ぶようになったと言われている。「羽衣石(はごろもいし)」の下に天女の祠を祀り、毎年5月5日を祭日にしているという。尚、伝承によると貞宗は、当初、羽衣石城より奥の十万寺集落付辺に築城を予定していたという。予定地の側にある「日向池」(現在は地名のみ)にツバメが落ち、不吉なことだと嫌い羽衣伝説にちなんで羽衣石山へ変更させたといわれている。また、崩巖山(つえしやま)は凶名だと嫌い、「拾遺和歌集」の「君が代は天の羽衣まれに着て」にちなんで羽衣石と改名したのだとも伝えられる。
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羽衣石の石垣
羽衣石の前には、狭い平坦地があり、石垣が確認できる。見張り台だったのだろうか。
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主郭部(本丸西2段下の帯曲輪)へ
羽衣石のところからは、2~3分ほどで、主郭部(本丸の2段下の帯曲輪)へ出る。土塁の上を見上げると本丸下の帯曲輪に建てられた模擬櫓が見える。
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本丸西下の帯曲輪から本丸西端に建てられた模擬天守を見上げる
土塁の南側から1段上の帯曲輪へ登ると、土塁上に模擬天守が見える。この模擬天守は、昭和6年に南条氏の子孫によって建てられたものだそうだ。左に模擬櫓が、ほんの一部だけ・・・。
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本丸南下の帯曲輪から本丸を
この辺りは、帯曲輪といえども、かなりの広さがあり、「日本城郭大系14」では、「二の丸」としている。
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主郭部概略図(本丸に設置の説明板より)
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本丸
当時の山城の本丸としては、かなりの広さがある。
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模擬天守
模擬天守は、展望台でもあるようだが、もう18:30近いからか、開いていなかった。もし、毎日、開閉しているとすれば、こんな山の上まで、毎日登って来るのは、係の人は大変だろうねえw(*゚o゚*)w。
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「城址碑」と「羽衣石城主南条公累代碑」
本丸跡には、「羽衣石城址碑」と「羽衣石城主南条公累代碑」が並んで立っている。
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本丸から模擬櫓と日本海方面の眺望を
右の方に見えるのは東郷湖で、その向こうに日本海が・・・。
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二の曲輪
本丸の西部分の二の曲輪は一段低くなっている。(2段になっていたかも??)
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本丸北側の帯曲輪
帯曲輪が2段になって、本丸を取り巻いているのが分かる。
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北側から本丸を
下山は、北側の帯曲輪経由で20分コースを・・・。振り返って、本丸を見上げると、その高くて、急傾斜で、要害の地にあるのがよく分かる。
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天然の塁壁
20分コースを下りていくと、天然の塁壁が・・・・。まるで、石垣のように見えるが、自然のものであるという。しかし、城の出入りの需要な位置にあるので、敵の侵攻を」食い止める塁壁として、また、出入りする人を検問する場所として利用されたことであろう。
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下城
途中で、薄暗くなってきて、駐車場に着いたら18:50で、真っ赤な夕陽が・・・w(*゚o゚*)w。
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