出雲 月山富田城(安来市)

三の丸石垣

山陰の覇者・尼子氏の本拠、日本五大山城の一つ

所在地

島根県安来市広瀬町富田

形状

山城(標高:197m、比高160m)

現状・遺構等

本丸・二の丸・三の丸・袖ケ平の曲輪跡、外郭の山中御殿平・太鼓檀・千畳敷など諸曲輪跡の石垣、空堀、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

1997/08/14

歴史等

月山富田城の辺りは古代からの要地で、いつ誰が築いたかについては諸説紛々である。城塞らしきものに手が加えられ続け、 尼子氏時代に城郭としての体裁が整えられたらしい。
鎌倉、室町期にはこの地の守護職は佐々木氏、塩冶氏、山名氏、佐々木氏と入れ代わり、明徳2年(1391)に京極高詮が守護となると、 甥の尼子持久(高詮の弟尼子高久の子)を守護代として月山富田城に送り込んだ。持久は精力的に動き始め、美保関での通行税で経済を潤し、 勢力を強めていった。応仁の乱の時には、持久の子清定は出雲の地を守って、山名方の襲撃に応戦し、各地に転戦して敵方を破った。
清定の子経久の代になると、京極氏から自立・対立していき、一度は追放されたが、経久は文明18年(1490)元旦、 年頭の儀式を利用した奇計で兵を城内へ入れ、まんまと富田城を奪回した。尼子氏は、これを第一歩に大永元年(1521)頃には、 出雲のみならず山陰、山陽の11ヶ国を支配するようになり、西の大内氏と中国地方を2分するようになった。
しかし経久が老衰し、毛利元就が、尼子氏の将来を見越して大内氏に急接近した。それを怒った孫の晴久は、天文9年(1540)8月10日、 経久の止めるのも聞かず4万8千の大軍で元就の吉田郡山城に攻め入ったが、 元就の知略に城を落とせず、地理の不案内と、長い兵站線、そして長期間の帯陣のため、毛利・大内連合軍に大敗し、富田城に逃げ帰った。 さらに追い打ちをかけるように、この年の11月経久が死去してしまった。さらには元就の謀略により、晴久は、 尼子を支えた新宮党の尼子国久を殺害し、尼子最強の軍団を滅ぼしてしまった。ここに尼子氏の衰運がはじまった。
同11年(1542)好機とみた大内氏が大軍で攻撃をかけてきた。月山富田城の真価を発揮したのは、この時である。 2ヶ月たっても一歩も敵を寄せ付けず、大内軍に寝返りを打つ者が出て大軍も敗退していった。以降、大内氏も衰退の道を辿った。
永禄3年(1560)晴久が急死し、長男義久が跡を継いだ。元就は、永禄3年、4年と夢にまで描いた石見銀山を攻めるが失敗した。しかし、 ここでも銀山防衛の拠点山吹城城主本多経光を調略を用いて永禄5年(1562)6月に開城に成功した。
そしてその年の12月から、最後の目的地富田城を目指した。途中、周囲の城を落としながら、永禄7年(1563)4月には富田城に迫った。 同時に富田城への糧食も断った。そして永禄9年(1566)、ついに義久は降伏し落城した。
以後毛利氏の城代が入るが、関が原合戦で西軍につき毛利氏は周防・長門2ヶ国に領土を削封され、後には堀尾吉晴が出雲を与えられ入城した。 しかし、手狭な山城であったため慶長16年(1611)松江城を築いて移ったため、 富田城は廃城となった。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「歴史と旅・戦国大名総覧 (秋田書店刊)」等参照』

日本五大山城

この城は典型的な山城であり、江戸時代以降も存続していた山城の代表格「日本三大山城」に対し、 戦国期にその役割を終えた山城を選りすぐった「日本五大山城」のひとつに数えられている。
【日本五大山城】
・月山富田城
七尾城
越後春日山城
小谷城
観音寺城
*小谷城に代わり八王子城を入れる場合もある。

現況・登城記・感想等

中国地方には、本当に見応えのある城址が多い。この月山富田城址もそれらの城址に負けない素晴らしい城址であった。
月山富田城といえば尼子氏の本拠地であり、尼子氏・毛利氏・大内氏の攻防と興亡の舞台でもあり、歴史ロマンを感じるところである。 非常に期待して登城したが、その期待以上に素晴らしかった。
まず予想以上に石垣群が多いのとその石垣のそれぞれの石の色や模様が何とも云えず綺麗で、石垣全体の感じが調和がとれていて素晴らしかった。 (尤も、これらの石垣は、尼子時代のものではなく、毛利氏や堀尾氏時代のものだろうとは思うが・・。)また、山城とは云いながら、 登城道は石畳や石段の登城道がよく整備されていて、しかも往時のイメージが醸し出されている。
そして、登城し始めて、最初は七曲りというくねくねした道で、勾配はそれほどきつくなく歩いて登るのが楽しかった。本丸へは、 七曲りを過ぎて、袖ケ平・三の丸・二の丸を通って行くが、それぞれの曲輪の間の堀切がはっきりと残っていた。その堀切、 特に二の丸と本丸との間の堀切は実に綺麗で絵になる。二の丸と本丸からの眺望はよく、毛利軍の陣所などもよく見えた。
また山麓には、山中鹿之介の屋敷跡や新宮党の屋敷跡などが残っており、飯梨川の河原が綺麗に整備され、歴史の町・ 広瀬町は楽しく遊歩できるところである。また、近くには「足立美術館」があり「横山大観コレクション」と「名園」も見逃せないところである。
(1997/08/14登城して)

ギャラリー

広瀬町絵図

新宮党屋敷跡
元就の調略により、経久の子・晴久は、尼子を支えた新宮党の尼子国久を殺害し、 尼子最強の軍団を滅ぼしてしまった。ここに尼子氏の衰運がはじまった。
 

㊧尼子神社(千畳平)、㊨山中鹿之介銅像(太鼓檀)
 

大手門跡
富田城に入るには三方の入り口がある。北側にある菅谷口が尼子時代の表道で、南側にある塩谷口が裏道で搦手。 西側にある御子守口は脇道であったと云われている。それぞれ三つの入り口から続いた道がひとつになり、御殿に入る。 この御殿にはいる門が大手門である。

菅谷口
尼子国久はここへ向かって登城する途中に暗殺された。

山中(さんちゅう)御殿跡
山中御殿は月山正面の中腹に位置している。お子守口・菅谷口・塩谷口と三つの入口が交差するところで、 周囲に堅固な外郭がめぐり、富田城にとっては軍事・政治上重要な位置に存在している。

 

三の丸石垣

二の丸跡からの眺望
 

二の丸・本丸間の堀切
 

二の丸から本丸へ
左の石垣は二の丸、向こうが本丸。本丸にはほとんど石垣がない。

本丸から二の丸方面

本丸跡
本丸の最も高い位置に勝目高守神社がある。

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コメント

メタルワン特殊鋼(2007/12/27)

 そうでしたね。武士道の源流ともいえる、山中鹿介の地でこれまた武士の魂ともいえる、日本刀の素材を作ってらっしゃるとはなかなかにくい組み合わせですね。

名古屋魂(2009/02/11)

 そうですよね。現在は日立金属って会社が特殊鋼をつくっているんですよね。そういえばこの会社、なにやら世界最強の工具鋼を開発したと最近噂で聞きました。

長屋(2009/12/07)

 日立金属さんの特殊鋼は海外でも有名みたいですね。世界のカミソリ替え刃用鋼の
70%以上のトップシェアーをもっているらしいですね。インド-アラブ圏が経済発展してヒゲをそる人が増えるとますますカミソリも増えるとの予測です。

藤原(2009/12/07)

 日立金属さんの特殊鋼は海外でも有名みたいですね。世界のカミソリ替え刃用鋼の
70%以上のトップシェアーをもっているらしいですね。インド-アラブ圏が経済発展してヒゲをそる人が増えるとますますカミソリも増えるとの予測です。

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