出雲 月山富田城(安来市)

三の丸石垣

山陰の覇者・尼子氏の本拠、日本五大山城の一つ

読み方

がっさんとだじょう

別名

月山城

所在地

島根県安来市広瀬町富田

形状

山城(標高:197m、比高160m)

現状・遺構等

本丸・二の丸・三の丸・袖ケ平などの曲輪跡、外郭の山中御殿平・太鼓檀・千畳敷など諸曲輪跡の石垣、空堀、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

1997/08/14
2012/05/21

歴史等

月山富田城の辺りは古代からの要地で、いつ誰が築いたかについては諸説紛々である。城塞らしきものに手が加えられ続け、尼子氏時代に城郭としての体裁が整えられたらしい。
鎌倉、室町期にはこの地の守護職は佐々木氏、塩冶氏、山名氏、佐々木氏と入れ代わり、明徳2年(1391)に京極高詮が守護となると、甥の尼子持久(高詮の弟尼子高久の子)を守護代として月山富田城に送り込んだ。持久は精力的に動き始め、美保関での通行税で経済を潤し、勢力を強めていった。応仁の乱の時には、持久の子清定は出雲の地を守って、山名方の襲撃に応戦し、各地に転戦して敵方を破った。
清定の子経久の代になると、京極氏から自立・対立していき、一度は追放されたが、経久は文明18年(1490)元旦、年頭の儀式を利用した奇計で兵を城内へ入れ、まんまと富田城を奪回した。尼子氏は、これを第一歩に大永元年(1521)頃には、出雲のみならず山陰、山陽の11ヶ国を支配するようになり、西の大内氏と中国地方を2分するようになった。
しかし経久が老衰し、毛利元就が、尼子氏の将来を見越して大内氏に急接近した。それを怒った孫の晴久は、天文9年(1540)8月10日、経久の止めるのも聞かず4万8千の大軍で元就の吉田郡山城に攻め入ったが、元就の知略に城を落とせず、地理の不案内と、長い兵站線、そして長期間の帯陣のため、毛利・大内連合軍に大敗し、富田城に逃げ帰った。さらに追い打ちをかけるように、この年の11月経久が死去してしまった。さらには元就の謀略により、晴久は、尼子を支えた新宮党の尼子国久を殺害し、尼子最強の軍団を滅ぼしてしまった。ここに尼子氏の衰運がはじまった。
同11年(1542)好機とみた大内氏が大軍で攻撃をかけてきた。月山富田城の真価を発揮したのは、この時である。2ヶ月たっても一歩も敵を寄せ付けず、大内軍に寝返りを打つ者が出て大軍も敗退していった。以降、大内氏も衰退の道を辿った。
永禄3年(1560)晴久が急死し、長男義久が跡を継いだ。元就は、永禄3年、4年と夢にまで描いた石見銀山を攻めるが失敗した。しかし、ここでも銀山防衛の拠点山吹城城主本多経光を調略を用いて永禄5年(1562)6月に開城に成功した。
そしてその年の12月から、最後の目的地富田城を目指した。途中、周囲の城を落としながら、永禄7年(1563)4月には富田城に迫った。同時に富田城への糧食も断った。そして永禄9年(1566)、ついに義久は降伏し落城した。
以後毛利氏の城代が入るが、関が原合戦で西軍につき毛利氏は周防・長門2ヶ国に領土を削封され、後には堀尾吉晴が出雲を与えられ入城した。しかし、手狭な山城であったため慶長16年(1611)松江城を築いて移ったため、富田城は廃城となった。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」等参照』

日本五大山城

この城は典型的な山城であり、江戸時代以降も存続していた山城の代表格「日本三大山城」に対し、戦国期にその役割を終えた山城を選りすぐった「日本五大山城」のひとつに数えられている。
【日本五大山城】
・月山富田城
七尾城
越後春日山城
小谷城
観音寺城
*小谷城に代わり八王子城を入れる場合もある。

現況・登城記・感想等

中国地方には、見応えのある城址が多い。この月山富田城址もその一つだ。
月山富田城は尼子氏の本拠地であり、尼子氏・毛利氏・大内氏の攻防と興亡の舞台でもあり、歴史ロマンを感じる城であり、大いに期待しての登城であったが、その期待以上に素晴らしかった。
まず想像していたよりも石垣群が多いのと、その石垣のそれぞれの石の色や模様が綺麗な上、石垣全体の感じが調和がとれていて素晴らしかった。尤も、全体的な縄張りは別として、石垣をはじめとする多くの遺構は、関ヶ原合戦後に堀尾吉晴が入城して城の改修を行った時のものであろうが・・・・。
また、石畳や石段が整備された七曲りの登城道も趣きがある。
山麓には、山中鹿之介や新宮党の屋敷跡などもあり、歴史の町・ 広瀬町は楽しく散策できる。
(1997/08/14登城して)


15年ぶりの登城だが、三の丸~二の丸~本丸の綺麗な石垣と土と岩が剥き出しになった堀切の光景が目に焼き付いている。
前回は、山中御殿跡まで車で登っての登城であったが、今回は山麓にある道の駅「広瀬富田城」から登った。
久し振りに訪れた月山富田城跡は、山中御殿跡を中心に、さらに復元整備が進み見応えも増したように思った。
ただ、三の丸や二の丸周辺の草が伸びていて、石垣などの多くが隠れてしまっていたのが残念だった。やっぱり、石垣も堀切も草に埋もれていると迫力がない。
三の丸で草を刈っている方がいた。翌日の登城だったら、もっと良かったのに・・・(;>_<;)。
(2012/05/21登城して)

ギャラリー

月山富田城鳥瞰図(現地案内板より)
00月山富田城鳥瞰図

尼子興久墓
道の駅「広瀬富田城」の駐車場のところから入っていくと、すぐに「尼子興久の墓」がある。興久は、経久の3男で、原手郡700貫の領地がもらえなかったので、天文元年(1532)8月、父に叛き敗れて、妻の父で備後甲山城主山内直通を頼ったが、天文3年(1534)に自殺した。38歳であった。
02尼子興久墓

千畳平
興久の墓のところから5~6分ほど登っていくと、千畳平へ出る。千畳平は太鼓壇に続く北側の郭で、御子守口の正面に位置し、尼子氏時代の城兵集合、或いは馬揃えの場として使われたといわれ、東西80m×南北60mほどの広さがあり、北端には尼子神社と櫓跡がある。
04千畳平1

千畳平の高石垣
千畳平の北側は急崖になっており、高石垣が築かれている。
04千畳平2

太鼓の壇
千畳平のすぐ北側には太鼓の壇がある。時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝わる。現在、東端に山中鹿之介の銅像と北西隅の高い土塁の上に尼子氏の碑が建っている。これは、その土塁上から撮影したもの。
06太鼓壇1

奥書院平
太鼓壇のすぐ東には奥書院平がある。奥書院があったと伝えられ、現在は戦没者慰霊碑が建っている。
IMG_0903

花の壇
山中御殿平の正面、一段下に位置する。かつて、多くの花が植えられていたことからこの名がついたといわれるが、敵の侵入を監視できることや山中御殿(殿様の居住地)との連絡が容易なことから、指導力のある武将が暮らしていたといわれる。発掘調査から南側に掘立建物の柱穴が多数確認され、殿舎が復元されている。写真奥の山頂が主郭部。
08花の壇

花の壇の西側の石垣
08花の壇石垣

花の壇堀切
花の壇の南側は堀切で断ち切られているが、堀切の南側の曲輪(写真右)がどういう曲輪なのかが分からない。或いは、花の壇は、中央を堀切で区切った曲輪だったのだろうか? 堀切は、深さはゆうに5m以上、上部幅は7~8mはある大規模なものである。
10花の壇堀切1

通路跡
堀切の延長線には通路跡が発掘された。説明板によると、正面の土層は、発掘調査によって見つかった往時の通路跡の断面を展示したもの。当時この通路が雨水や浸透してくる水などで崩れないように、約2mの高さで真砂土と粘土を14層に突き固めて頑丈にしていた。また水はけを良くするため途中に粘土層を入れた工夫をしていました。このような作業を版築(はんちく)といいます。
12通路跡

花の壇の北側の曲輪への石段と曲輪石垣
14花の壇南へ

山中御殿平へ向かう
山中御殿平へは、右石塁の右側から登って行く。石塁の上には多門櫓が建っていたようだ。
16山中御殿へ

山中御殿平へ
山中御殿平へ入ると、長く伸びる石垣が正面に見える。左側が菅谷口の石垣である。
18山中御殿1

菅谷口と軍用道
左側が菅谷口で、右の道が山頂へ向かう軍用道の一つ。写真左には雑用井戸が残っている。
20菅谷口石垣1

菅谷口石垣
左の石垣上には櫓が建っていた。元就の調略により、経久の子・晴久は、尼子を支えた新宮党の尼子国久を殺害し、尼子最強の軍団を滅ぼしてしまい、ここに尼子氏の衰運がはじまったが、尼子国久はここへ向かって登城する途中に暗殺された。
20菅谷口石垣2

菅谷口石垣を外側から
菅谷口虎口への道は、かなりの急坂である。右石垣は櫓台。
20菅谷口石垣3

山中御殿平(さんちゅうごてんなり)
御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれたものと考えられている。山中御殿平は、山頂の主郭部(本丸・二の丸・三の丸)を守るために造られた郭で、月山富田城にとって軍事、政治上重要な位置に存在する。上下2段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わる。山麓からの登城道はすべてここで合流し、山頂の本丸へはここを経由して後方の七曲がりの急坂を登らなければならない。
18山中御殿

山中御殿平南西部(上写真の左)
左の土塁上には狭間塀があったそうで、その左手前に塩谷口がある。右奥下が、大手門跡。
21山中御殿狭間塀跡

大手門跡
富田城に入るには三方の入り口がある。北側にある菅谷口が尼子時代の表道で、南側にある塩谷口が裏道で搦手。西側にある御子守口は脇道であったと云われている。それぞれ三つの入り口から続いた道がひとつになり、御殿に入る。この御殿にはいる門が大手門である。高さ5m、幅15mの大手門は、押し寄せる敵を押し返したと伝わる。正面右の土塁(石垣)の外側下には軍用井戸が残っている。
大手門跡

軍用井戸
巨大な天水溜の溜池で、規模は径3-4m、深さ3mほどあり、現在でも水が湧いている。
IMG_1014

塩谷口搦手門石垣
南側の塩谷口から山中御殿平に続く門で、御殿平の南側に位置する。石垣が残り、尼子経久が塩冶掃部介を襲撃した際には、ここから侵入したと伝えられる。
22塩谷口1

塩谷口搦手門を外側から
この写真手前側は急崖であり、一体、どうやってここへ登って来たのだろう? 梯子でも架かっていたのかな?
22塩谷口2

狭間塀下の高石垣(上写真の左側)
この写真の左側も、急崖になっている。一体、どうなってたのかな?
22塩谷口高石垣

武者走り石垣
この武者走りは、どのような意味があったのか私には意味不明だが、とにかく、この石段を登って、石畳の軍用道を登り七曲り道へと向かう。主郭部へは、この道と菅谷口脇の軍用道が、七曲り道の手前で一つになり、主郭部へ登って行く。
22山中御殿登城口

七曲り道(坂道の上から撮影)
24七曲り

山吹井戸
七曲り道を登って行くと、途中に「山吹井戸」が。説明板によると、「山の中から吹き出す井戸ということから、この名称がついた。年中、枯れることはない。」とあったが、周辺は湿っぽかったが、吹き出しているというほどではない。
25山吹井戸

三の丸石垣が
山中御殿跡から登ること10分強で、この三の丸石垣が現れる。草木が元気な季節で、石垣がかなり隠れていたのが残念。15年前に登城した時に、同じ場所から撮ったのがTOP写真だが・・・>
27三の丸石垣1

三の丸石垣を南西下から
石垣周辺の藪がなかったら、もっとかっこいいんだろうけどねえ。
27三の丸石垣2

三の丸から二の丸へ
二の丸と三の丸は繋がっており、二の丸の方が一段(1~1.5mほど)高くなっている。
29三の丸から二の丸へ

二の丸から堀切越しに本丸を
この堀切は、深さ約10m、幅約15~20mと規模が大きく見応えがあるのだが、藪のため、もう一つ迫力が感じられない。前回登城時(1997/08/14)の写真と較べてみて下さい。
33二の丸と本丸間堀切1

二の丸から堀切越しに本丸を(1997/08/14)
本丸切岸の土が剥き出しで迫力満点だ。尤も、発掘して間もない頃だったようだが・・・。
IMG_0002

本丸・二の丸間の堀切
これまた、やはり薮で・・・。
33二の丸本丸間堀切2

前回の登城時の写真(1997/08/14)
石垣の、石も迫力が違う。
IMG

本丸から二の丸と二の丸東面の石垣を
35二の丸石垣

二の丸南面石垣
薮がなければ、もっとかっこいいのだが・・・。
35二の丸石垣2

本丸
本丸は、行き詰めたところにあることから「甲(つめ)の丸」ともいい、勝目高守神社が建てられ、大国主命が祀られている。尼子時代は、代々城内の守り神であったという。
38本丸

本丸からの眺望
月山富田城跡は、二の丸と本丸からのみ眺望が開けている。この景色を見ていると、毛利氏に包囲され、尼子氏滅亡に至った時の情景が目に浮かぶようだ。
38本丸からの眺望
 

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