因幡 鹿野城(鳥取市)

山麓の城の外濠北西から山上の鹿野城を眺める

秀吉の鳥取城攻めでの功により亀井茲矩が賜った城

読み方

しかのじょう

別名

王舎城、志加奴城、鹿奴城

所在地

鳥取県鳥取市鹿野町鹿野、城山公園
【アクセス】
鹿野中学校が山麓部の平城(二の丸)内にあり、その南側の背後の山が山城である。公園の無料駐車場がある。
鹿野中学校:鹿野町鹿野896 電話0857-84-2105

所要時間

駐車場から山頂の天守台跡まで25分弱

形状

山城(標高200m、比高90m)と平城

現状・遺構等

【現状】 城山公園
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀、竪堀、堀切、説明板、遺構案内板、標柱

満足度

★★★☆☆

訪城日

2012/05/20

歴史等

鹿野城の築城年代は定かではないが、志加奴(しかぬ)氏の代々の居城であったという。志加奴氏の本姓については不明であるが、昔からの国侍で、山名氏麾下の部将であった。
戦国時代の天文12年(1543)、天神山城の山名氏は大崎城と志加奴城を前線拠点として、出雲の尼子晴久と対戦したが、城将志加奴入道は奮戦・激闘のすえ自刃して果てた。
次いで、永禄(1558~70)になると、尼子氏に代わって毛利氏が勢力を増して東進し、因幡にも及んできた。山名豊成は天神山城よりこの鹿野城に移ってこの地方を固めたが、鳥取城の武田高信に謀殺された。
天正初めになると、この地方における毛利氏の勢力は不動のものとなり、これに服属した。毛利輝元は部将三吉三郎左衛門・進藤豊後守を城番に命じて鹿野城を守らせた。
天正8年(1580)、羽柴秀吉は、第1回の鳥取城攻めを行ない、鹿野城を攻略し、亀井茲矩に城番を命じて、鳥取城主山名豊国に秀吉方に与するように勧めた。豊国は抗しがたいことを知り、これを承諾したので、豊国を改めて鳥取城主に任じて軍を姫路城に帰した。
ところが、老臣森下氏・中村氏らは豊国の態度を非とし、豊国を追放して毛利氏の麾下に属し、秀吉との決戦を選んだ。
秀吉は、天正9年(1581)、再び鳥取城を攻め、「餓え攻め」によってこれを落城させた。この時の戦功により亀井茲矩は1万3千石を賜り鹿野城主に封ぜられた。
その後、茲矩は関ヶ原合戦で東軍に属し、3万5千石となった。関ヶ原合戦後、世の中が落ち着くと茲矩は、鹿野周辺の河川の改修と鹿野城の大改修を行い、鹿野城を近世城郭へと変身させた。山麓を中心に本丸、周囲に薬研堀、内堀、その外側に外堀を造り、一方、以前からの山城も整備した。
城は仏教思想に基づく「王舎城」の名が、また櫓には南蛮貿易を物語る「朝鮮櫓」「オランダ櫓」の名が残っている。
その後、子息政矩の時、4万3千石となったが、元和3年(1617)に石見津和野に転封となり、池田光政が因幡・伯耆2国の太守となると、老臣日置豊前守が鹿野の地を領し、山麓に屋敷を構えた。
しかし、寛永9年(1632)、日置氏が光政とともに備前岡山へ移るや、城は頽壊し町も年々にさびれた。
さらに、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。
寛永9年(1632)、因備転封により池田光仲が領主となったが、元播磨山崎城主池田輝澄(池田光仲の叔父)が左遷され、鹿野1万石を堪忍料としてこの地に蟄居した。
輝澄没後、嫡子池田政直が嗣いだが、寛文2年(1632)に播磨福本に移封となった。
貞享2年(1685)、池田仲澄が25,000石(後3万石)を分地され、10代続いて明治に至った。
『「日本城郭大系14」、「現地説明板」他より』

現況・登城記・感想等

鹿野城は、城山(妙見山)山頂に天守曲輪を置き、北斜面に何段かの曲輪を配した山城と、山麓の本丸等の2つの区画から構成された城である。
亀井茲矩が大改修した城であり、織豊系の城郭ということで、大いに期待しての登城だったが、廃城後に破城され、石垣石材が鳥取城に持ち去られたり、近代以降の公園化などで大きく地形が改変され、具体的な縄張りも分からず、遺構もあまり明瞭に残っていないのが残念だった。
しかし、山頂の天守曲輪に、石垣で築かれた天守台と、天守台上の礎石列が残っているのが、せめてもの慰みといったところかも。
また、満々と水を湛えた堀に囲まれた山麓の本丸は、往時の面影を偲ばせてくれる。
(2012/05/20登城して)


亀井氏(初代藩主・亀井茲矩)は、亀井久興氏の祖先であり、亀井静香氏の祖先・吉助は久興氏の祖先・亀井茲矩と兄弟だそうだ w(*゚o゚*)w。

ギャラリー

鹿野城絵図(現地説明板より)
亀井茲矩は朱印船貿易を行っていたため、天守以下の櫓や門に仏教に由来する名称を付けていたと言われる。さらに自らの居城(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けている。
鹿野城絵図

【山麓の城】
山麓の城の外濠手前に設置された説明板前から山上の鹿野城址を
駐車場に車を置いて、鹿野城址へ向かうと、すぐに山麓部の城の外濠があり、その手前に絵図付きの説明板が立っている。
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外濠と二の丸
外濠の向こうには、今は鹿野中学校になっている二の丸がある(写真右)。
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外濠には白鳥と鯉が
濠には白鳥と鯉がいた。外濠の向こう側には二の丸西櫓台が。
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二の丸西櫓台
二の丸西櫓台の石垣は、腰巻石垣のようになっているが、石垣は往時のもののようであり、角部は算木積みになっているが、その他は丸い石を利用している。
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二の丸(出丸)跡
二の丸の西端部で、写真奥の高い部分には櫓が建っていたようだ。
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内濠に架かる二の丸と本丸を繋ぐ橋
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本丸虎口
朱色の橋を渡ると本丸虎口だが、かなり判り難いが食い違い虎口になっているようだ。本丸跡は、鹿野中学校のグラウンドになっている。
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本丸西側の土塁
結構な急斜面になっている。往時は、石垣で固められていたのだろう。
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【山上の城へ】
登城口
城山神社の鳥居が立っている。その向こうの急斜面の石段を登って行く。尤も、左にはなだらかな坂道もある。
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西の丸御殿跡
山城部分の曲輪の中で一番広い曲輪で、初代藩主亀井茲矩の隠居所(西の丸)の跡と云われ、本瓦葺きの書院造の殿舎が建てられ、また、海外の珍奇の材で一室を構えたという。
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西の丸御殿礎石
西の丸の曲輪の西半には、南北約16m、東西約17mに礎石の配列が残っている。
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二の丸跡?(三の丸跡?)
二の丸跡(三の丸跡?)は、元展望台があり、手前には謎の土塁(土盛?)が・・・。一方、三の丸(四の丸跡?)は貯水池があり、共に削平地だったというのが判る程度で、実に残念な状態であった。
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城山神社
妙見社跡には城山神社が。
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本丸?(天守台から撮影)
天守台のすぐ下の曲輪であるが、本丸ということになるのでしょうか?(山麓の絵図からみると
二の丸?)あまり広くはない。
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天守台
鹿野城(王舎城)の大改修は、慶長6、7年から同12、3年までのようで、御城山の山頂に天守を築いている。
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天守台上(天守台跡説明板より)
天守台跡には10m四方の礎石列の外側2mに、七間(14m)四方の外側線と、その基底部に根石が残っており、この七間四方の石垣の上に本瓦葺入母屋造りの三層の建物が聳えていたと推定される。
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天守台上の礎石列
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