手引ヶ浦台場公園として復元された口田儀台場
幕府の命で松江藩が築いた台場
読み方
くちたぎだいば
所在地
島根県出雲市多伎町口田儀、手引ヶ浦台場公園
JR山陰本線「田儀駅」の西側、国道9号線沿いの手引ヶ丘公園入口のすぐ先が手引ヶ浦台場公園。
形状
台場
現状・遺構等
【現状】手引ヶ浦台場公園
【遺構等】 模擬石垣、模擬砲(和式と様式)、説明板
満足度
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訪城日
2012/05/21
歴史等
幕末の頃、松江藩は外国船備えて海辺の用地に「唐船番」という兵団を置いて監視を行ないました。寛政12年(1800)に出雲の国と石見の国との国境に位置する田儀浦(現在の田儀港)にものこの唐船番が設けられ、文政3年(1820)には「船乗組」という船団も編成されました。
1853(嘉永六)年6月、ペリーが浦賀に来航、翌月にはロシアの軍艦が長崎に入港して通商を求めたので、幕府は兵備を整え、海防をかためるよう各藩に指令を出した。
松江藩も海岸の要所へ一層の防備を命じ、当地では田儀湾の東、この手引ヶ浦の高台(実際の場所は新宮氏宅敷地)と湾の西田儀川口の二ヵ所に台場(砲台)を築いて大砲を三門ずつ配備し、遠見という役人が来てこれを守備した。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
月山富田城跡を見終え、世界遺産「石見銀山」を目指して国道9号線を西へ西へと向かい、1時間半ほどすると右手に右手海側に石垣と大砲が見えたので、ちょっと車を停めた。
案内板には、「手引ヶ浦台場公園」とあり、「口田儀台場」の説明が書かれていた。それによると、この復元された台場は、実際に当時どのような台場が築かれていたのかは、資料もなく不明のため鳥取県の赤碕町の台場を参考に複製されたという。
台場は、石垣が築かれ、海に向かって置かれた和式大砲と小屋の中に置かれた洋式大砲が1門づつ配備?されている。
ここから眺める日本海の光景は、真下の岩場と相俟って、なかなかのものだ。
(20212/05/21訪れて)
ギャラリー
和式大砲
海に向かって配備された、この和式大砲は、新潟市郷土資料館所蔵の三貫目玉大筒(和式大砲)の模型をもとに複製して設置したものだそうだ。
洋式大砲
小屋の中に収められている、この洋式大砲は、下関市立長府博物館所蔵の八十斤加農砲(洋式式大砲)の模型をもとに、3/4に縮小して複製したものだそうだ。
台場下の岩礁と日本海の光景