米子城本丸石垣、右上が大天守台、左上が小天守台石垣
中村一忠と吉川広家による2つの天守閣が並立していた城
別名
久米城
所在地
鳥取県米子市久米町
形状
平山城(標高90.5m)
現状・遺構等
【現状】 山林、山麓の二の丸はテニスコート、深浦御殿跡はスケート場、三の丸は湊山公園で一部が野球場と会社敷地
【遺構等】 曲輪、石垣(大天守台、小天守台、城門、内膳丸他)、井戸跡、標柱、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
1997/08/14
2012/05/21
歴史等
米子城は、その起源は必ずしも明らかではないが、応仁の乱の頃、西軍の山名氏が東軍の尼子氏に、或いは出雲の京極氏に対抗するために砦を築いたのが始まりといわれている。
以来、毛利氏・尼子氏の興亡の拠点ともなり、永禄9年(1566)毛利氏の武将・福原元秀がここに築城した。尼子氏滅亡後は毛利の一族・吉川広家の配下となった。
広家は、月山富田城を居城としていたが、山奥で不便であったため、天正16年(1588)頃から標高90.5mの湊山を中心に築城を始め、頂上の四重櫓(天守)と縄張りの大体をつくったが、関ヶ原合戦で主家毛利氏に従い敗戦。広家は岩国に移された。
替わって、駿河府中城から中村一氏の子・一忠が入封、18万石を領し、さらに規模を拡大し、二の丸御殿の建築と共に、四重櫓(天守)の横に本丸の石垣を一部張り出して四重五階の天守を建てた。工事は3ヶ年の歳月を費やし完成した。しかし、慶長15年(1610)一忠が急死し、中村氏は断絶した。
その後、加藤貞泰・池田由之を経て、寛永9年(1632)に岡山城主・池田光仲が鳥取城に入り、家臣・荒尾利成を米子城の城代とした。以後、荒尾氏が城代として1万5千石で230年、明治まで在城した。
『「現地案内板」、「日本100の城(日本交通公社刊)」、「日本城郭大系14」他参照』
現況・登城記・感想等
登城前までは、所詮、鳥取藩の支藩であるし大した城ではないだろうと侮っていたが、裏切られた!!。ここまで素晴らしい城址とは想像だにしていなかった。
天守台を中心とする石垣群の素晴らしさと山頂の本丸から四方が見渡せる眺望には、本当に感激した。天守台石垣の上に乗って見る眼下に広がる町並みと中海の眺望、反対側の大山を中心とした山並みの眺望は本当に素晴らしい。真夏の厳しい日差しと強烈な暑さをすっかり忘れてその景色に魅入ってしまった。そして、それらの景色を見ていると下山するのが惜しくなってくるほどであった。
往時には、中村一忠が築いた五層天守と吉川広家が築いた四層天守(四重櫓)が建っていたそうで、その城のすぐ真下には、水壕があり中海から海水が引入れられていたと聞く。その頃の城郭・城下町の風景が目に浮かぶような気がする。本当に、素晴らしい城址であった。
(1997/08/14登城して)
米子城は、ほぼ15年ぶりの登城だ。
前回は、それほど期待もせず登城したところが、天守台をはじめとする石垣が随分立派なのと、本丸から眺める「大山をはじめとする山並み」と「米子市街と中海」も光景が素晴らしくて、感激したのを思い出す。
昨夜は、米子市内のホテルに泊まったので、早朝からの登城となった。
ところが、本丸下の番所跡に登ると、既に本丸の天守台上に多くの人が・・・? 昨今の、「お城ブーム」は知ってはいたが、「こんな早朝からとは?」と不思議に思いながら、天守台下から、その石垣群を写真に撮り終えて、登っていくと、皆さん、望遠鏡(勿論、減光を施されたもの)で太陽を見ている。今日(2012/5/21)は国内では25年ぶりの金環日食だったんだw(*゚o゚*)w。道理で・・・(*^_^*)。下界?では、金環日食の話題で持ちきりだったんだと納得(笑)。こんな早朝から、城めぐりのために登ってきているのは、Mっさんと私の二人だけだった(;´▽`A``。
尤も、東京では、金環日食が見られるが、この米子辺りは残念ながら、金環日食にはならないらしい。我々も、その望遠鏡を借りて見せてもらうと、2~3割ほど欠けた太陽がよく分かった(*^_^*)。
さて、それはそれとして、米子城天守台からの眺望は、「大山」と「米子市の街並みと中海」の眺望は、記憶にあるとおり素晴らしかった。ただ、朝靄と逆光(大山方面)が、ちょっと残念(/。ヽ)。
本丸周囲の散策を終えて、独立した出城のように離れた場所にある「内膳丸」へと向かった。さほど広かったという記憶はないが、改めて訪れると、かなり広いことに気が付いた。また、ここから眺める「本丸の石垣」が、何ともかっこいい。久々の米子城を満喫した。
(2012/05/21登城して)
ギャラリー
米子城案内図(現地案内板より)
登城口は、5ヵ所ほどあるようだ。私は、二の丸跡の大手枡形門から登城した。
山麓から本丸石垣を仰ぎ見る
二の丸跡の大手枡形門入口
大手枡形内
枡形の広さは、東西25.44m、南北22.72mある。写真やや右の石段を登って入城する。
旧小原家長屋門(米子市指定文化財)
枡形から、本丸を目指して進むと、すぐに「旧小原家長屋門」が・・・。米子市内西町の小原家にあったものを、昭和28年に米子市に寄贈され、現在地に移築された。小原氏は、米子荒尾家の家臣で禄高は120石であった。江戸時代中期の建築で、木造瓦葺き、入母屋造りの平屋建てで、市内に唯一現存する武家建築である。
御殿御用井戸跡
小原家長屋門を左へ折れ、右手に二の丸跡のテニスコートを見ながら進んで行くと「御殿御用井戸」が。きれいな清水が湧き出ていたので、御殿の用水に使う車井戸があったという。
本丸下への枡形門跡
二の丸跡の大手枡形門から10分弱で本丸下の枡形虎口へ出る。写真右上が本丸石垣、左側が番所跡。
番所跡
本丸の大天守下には番所跡が。ここには、天守一帯を警備する役人詰所があり、昼夜、見張り番がおかれていた。
本丸東面の石垣
番所跡かた撮ったもので、左上が小天守台、右上が大天守台石垣。前面は、強烈な急傾斜の深い崖になっている。
大天守台石垣を仰ぎ見る
大天守台石垣は、本丸東面へかなり張り出しており、4段構造になっている。大天守は四層五階の建物だったという。
小天守台石垣
小天守は四重の天守であったという。
鉄門跡
小天守脇には、本丸への枡形の表門「鉄門」が。天守入口を厳重に固める鉄張りの堅固な門で、二階建てで、間口12.72m、奥行き4.5m。
本丸内から鉄門跡を
本丸跡
写真正面奥が大天守台。
天守台の礎石
大天守台上には礎石が良く残っている。当日(2012/05/21)は、国内で25年ぶりの金環日食があるというので、望遠鏡を持った多くの人がいた。天守台の向こうは、「大山」方面だが、残念ながら、朝靄と逆光のため見辛かった。
中海方面の眺望
西側は、中海を見下ろし、その向こうには島根半島が見え、米子市内の景観を一望できる。ただ、まだ朝靄で、もう一つかな?
遠見櫓跡と内膳丸
少しばかり北の方を見下ろすと、真下に遠見櫓跡(中央)、その向こうの方には内膳丸跡(右奥)が・・・。
搦手口
本丸南西には、搦手口があり、この石垣も良好に残っている。また、本丸西面の高石垣(写真左)もよく残っている。
水手門跡
搦手口の先には「水手門跡」があり、この石垣も良好に残っている。この道は、出山付近に設けられていた船小屋へ通じていたという。
内膳丸
内膳丸は、石垣によって2段に区分けされている。かなりの広さをほこり、これだけで独立した城郭であるとも云える。
三の丸跡
三の丸跡は、野球場などになり、その西側山麓には、高石垣が良好に残っている。