中村一忠と吉川広家の天守閣が並立していた城
別名
久米城
所在地
鳥取県米子市久米町
形状
平山城(標高:90m)
現状・遺構
現状:山林、山麓の二の丸はテニスコート、深浦御殿跡はスケート場、三の丸は湊山公園で一部が野球場と会社敷地
遺構:本丸跡東端に大天守台、南端に小天守台石垣と礎石、表門枡形の石垣、内膳丸跡の石垣が北方に突出、曲輪跡、井戸跡
満足度(10点満点)
9点
訪城日
1997/08/14
歴史等
米子城は、その起源は必ずしも明らかではないが、応仁の乱の頃、西軍の山名氏が東軍の尼子氏に、
或いは出雲の京極氏に対抗するために砦を築いたのが始まりといわれている。以来、毛利氏・尼子氏の興亡の拠点ともなり、永禄9年(1566)
毛利氏の武将・福原元秀がここに築城した。尼子氏滅亡後は毛利の一族・吉川広家の配下となった。
天正19年(1591)から吉川広家が標高90.5mの湊山を中心に築城を始め、頂上の四重櫓と縄張りの大体をつくったが、
関ヶ原の戦で主家毛利氏に従い敗戦。広家は岩国に移された。
替わって、駿河府中城から中村一氏の子・
一忠が入封、18万石を領し、さらに規模を拡大し、3ヶ年の歳月を費やし完成した。しかし、慶長15年(1610)一忠が急死し、
中村氏は断絶した。
その後、加藤貞泰・池田由之を経て、寛永9年(1632)に岡山城主・
池田光仲が鳥取城に入り、
家臣・荒尾利成を米子城の城代とした。以後、荒尾氏が城代として1万5千石で230年、明治まで在城した。
『参考:現地案内板・日本100の城(日本交通公社刊)』
現況・登城記・感想等
登城前までは、所詮、鳥取藩の支藩であるし大した城ではないだろうと侮っていたが、裏切られた!!。
ここまで素晴らしい城址とは想像だにしていなかった。
天守台を中心とする石垣群の素晴らしさと山頂の本丸から四方が見渡せる眺望には、本当に感激した。
天守台石垣の上に乗って見る眼下に広がる町並みと中海の眺望、反対側の大山を中心とした山並みの眺望は本当に素晴らしい。
真夏の厳しい日差しと強烈な暑さをすっかり忘れてその景色に見入っていた。そして、
それらの景色を見ていると下山するのが惜しくなってくる位であった。
往時には、中村一忠が築いた五層天守と吉川広家が築いた四層天守(四重櫓)が建っていたそうで、その城のすぐ真下には、
水壕があり中海から海水が引入れられていたと聞く。その頃の城郭・城下町の風景が目に浮かぶような気がする。本当に、
素晴らしい城址であった。
(1997/08/14登城して)
ギャラリー
二の丸の枡形門跡

鉄門跡

大天守台

小天守台

大天守台と米子市内の眺望

米子市内と中海の眺望(手前が中海、その向こうに米子市内・美保湾・美保関)

天守台から内膳丸(左が中海、右に米子市内、その向こうは美保湾・美保関)

天守台から米子市内の眺望(その向こうに美保湾・美保関、左に中海)

天守台から大山の眺望

