駿河 駿府城(静岡市)

西側内堀越しに巽櫓を

家康の隠居城は、その後も幕府直轄の地で明治を迎える

別名

府中城、静岡城

所在地

静岡県静岡市葵区追手町・駿府町・城内町(駿府公園)

形状

平城

現状・遺構等

現状:駿府公園
遺構等:復元二の丸巽櫓、復元東御門、曲輪、石垣、水堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

1976/02/01
1986/04/05
2005/02/19他

歴史等

駿府は古代には国府が置かれた地であり、政治・経済の中心地であったことから、そこに今川氏が守護としての拠点を置いた。しかし、 城としてはあまり適地ではなく、有事の際の詰の城として、その北方に賎機山城が置かれていた。
永禄11年(1568)今川義元の子・氏真は、武田信玄に駿河を追われ掛川城に立て籠もることになり、 以後天正10年(1582)までの間駿府は甲斐の武田氏に占領されていた。
近世駿府城の創築は、天正10年(1582)武田氏が滅亡し、徳川家康が駿・遠・三・甲・信の5ヶ国の大々名になったことに始まる。しかし、 家康が実際に築城工事を起こしたのは、天正13年(1585)からである。駿府城は天正17年(1589)に完成したが、家康は、翌18年 (1590)秀吉の小田原征伐に出陣し、そこで家康の関東移封が決まり、駿河城には豊臣系大名の中村一氏が入った。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、中村氏は伯耆米子へ転封となり、 代って内藤信成が駿府城へ入った。
家康は将軍職を秀忠に譲ると、駿府城を隠居城にすることにし、大改修ののち、慶長12年(1607)に17年ぶりに駿府城に帰った。しかも、 城だけでなく、安倍川の流路変更など、駿府城下の都市計画も根本的に手が加えられている。それまで、 駿府の町中を幾筋にも分流していた安倍川を、大きな土手を造ることによって城下町駿府を迂回させ、 遠く西の方を流れるようにして藁科川と合流させた。この土木工事によって、中世には20ほどしかなかった町が、 一挙に96もの町を数える大城下町が出来上がった。
家康の死後は徳川頼宣・徳川忠長が城主となったが、それ以後は城代がおかれ幕府直轄領として幕末に至った。
大政奉還後、徳川慶喜の後を継いだ家達は、明治元年(1868)に旧幕臣らを引き連れ70万石の大名としてこの城に入り、 駿府を静岡と改名した。
『「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」参照』

現況・登城記・感想等

1976年2月から87年8月まで11年半の静岡在住時代は、毎週のように駿府城址内を車で通っていながら、 水堀と石垣と家康の銅像が目に付いただけで、ほとんどと云っていいくらい興味を持っていなかった。
当時は、建物は何も無かったが、本当に久し振りに寄ってみたら、巽櫓と東御門が再建されていた。どちらも立派なもので、 特に枡形虎口になっている東御門は気に入った。
また、城内も綺麗に整備され、本丸堀や二の丸水路が発掘されていた。堀と石垣は、今更ながらではあるが、 なかなか規模も大きく立派なものである。
(2005/02/19訪城して)

ギャラリー

大手御門
城内への正面出入り口。三の丸堀を土橋で渡って、右手へ直角に曲がり、 渡櫓門から城内へ入る構造になっていた。

二の丸堀

東御門
二の丸の東に位置する主要な出入口であった。この門は二の丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・ 西の多聞櫓で構成される。

枡形

巽櫓

本丸堀跡

二の丸水路
本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路で、本丸堀からの水を外に流す目的で築かれている。江戸時代の深さは約4m、 長さ約95mで、4回折れ曲がっている。本丸堀との接続部分は約2mの段差をつけ、本丸堀の水位を保つようになっている。

徳川家康像

家康手植えのみかんの木

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