因幡 鳥取城(鳥取市)

山上の丸(背後の山)と山下の丸(右の石垣周辺)

秀吉の兵糧攻めにより落城、いわゆる「鳥取の飢え(かつえ)殺し」という

別名

久松城(きゅうしょうじょう)

所在地

鳥取県鳥取市東町

所要時間

天球丸北西端の登城口から本丸まで25分強

 

形状

山城(標高:263m、比高:259m)、平山城

現状・遺構

【現状】 山林、公園他(国指定史跡)
【遺構等】
山下の丸:天球丸・二の丸・三の丸・丸の内の石垣、内堀の大部分が現存、二の丸跡に御三階櫓台、中仕切門、三の丸は鳥取西高校
山上の丸:石垣、曲輪、井戸跡等

満足度

★★★★★

訪城日

1997/08/12
2012/05/20

歴史等

因幡(鳥取県)の守護は日本全国の6分の1、11ヶ国の守護職を手中にした山名氏で、その支配拠点は、はじめ二上山城(石見)であったが、文正元年(1466)応仁の乱の主役・山名宗全が天神山城を築き本拠となった。
時は流れて、天文14年(1545)守護・山名誠通(さねみち)は、同族の但馬守護・佑豊(すけとよ)と国境紛争から仲違いし、その備えとして天神山城の近くの久松山(きゅうしょうざん)に出城を築いた。これが鳥取城のはじまりである。
しかし誠通は、同17年(1548)但馬山名氏に急襲され敗死し、因幡は併呑され、佑豊の弟を因幡へ迎えた。そこへ、武田豊前が願って城番についた。その子・高信が因幡山名氏を謀殺した。これに対して、但馬山名氏の鳥取城攻撃がはじまったが、撃退に成功し、山名氏・武田氏が並立する状況になった。
しかし、元亀3年(1572)尼子氏復活を目指す山中鹿之助一党が、山名豊国方を応援し、高信は大敗を喫した。翌天正元年(1573)、豊国は本拠を天神山城から鳥取城に移した。以降の変化はめまぐるしく、つまるところ毛利一族の吉川経家の傘下となった。
天正4年(1576)、足利義昭が織田信長に追われて毛利氏のもとに落ち延びると、信長は羽柴秀吉を総大将に任じて中国攻めを命じる。天正8年(1580)秀吉は10万を超える大軍を率いて、鳥取に迫ると、山名豊国は、それまで毛利方に頼っていたのを、あっさり裏切り降伏しようとした。しかし、家臣達がそれを許さず、豊国を追放し、毛利方から吉川経家を鳥取城主として招き、徹底抗戦を決意した。
これを察した秀吉は、鳥取城の力攻めは無理とみるや、軍師黒田官兵衛の進言で兵糧攻めの作戦をとった。事前に、若狭から商船を送り込み、倍以上の値段で穀類を買わせたという。鳥取城兵は裏を考えず売り尽くしてしまった。天正9年(1581)秀吉は12万の大軍で鳥取城を取り囲んだ。経家は、冬になれば敵は引くとの計算で入城したが、見合う食糧がなく、このため鳥取城内では飢餓地獄に陥り、籠城4ヶ月にして経家はついに開城して自刃した。これを鳥取の飢え(かつえ)殺しという。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、池田長吉が6万石で鳥取城主となると、城の中心を久松山山麓に移して、4年がかりで城の大改築を行ない、ほぼ現在に伝わる鳥取城が完成した。
鳥取城主は江戸期を通じて池田家であるが、その中で3家(池田輝政の弟、長男、次男それぞれの家)が交替している。当初は弟の長吉が入城し、次に嫡孫光政が姫路城から入った。一方、次男忠継は家康の外孫にもあたるため寵愛されて岡山城を与えられていた。ところが、忠継が早世、その弟忠雄も若くして死んだため、その子光仲が3歳で家を継ぐことになり、これでは山陽路の大藩を治められないと、寛永9年(1632)光仲が鳥取城主となり、光政が岡山城主へと入れ替ったのである。
以後、光仲系の池田氏12代で明治維新を迎えた。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「日本の百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

自分としたことが鳥取城を甘くみていた。この城は比高が259mもあることを忘れていた。
「山下の丸」を見終わり、「山上の丸」に登りはじめたが、夕方になり猛烈にお腹が空いてきた。その上、登城道がかなりキツイ!! かなり登ったはずが、何と、登山道によくある「4合目という案内板」があった。「まだ、4合目か。そういえば、ここは『秀吉の渇え攻め』で有名な鳥取城ではないか!」「当時の城兵はこんなものではなかったよな!!」と思い直して登っていった。しかし、やっぱり腹減った~!! 「まだ6合目か」「まだ7合目か!」などと思いながらも、何とか頂上の「山上の丸」に辿り着いた。
頂上部には、結構遺構が残っていたが、真夏のことで、草が茫々で遺構が確認しづらかったのが残念だった。
山上からの眺望は最高にいいが、夕方で天候もやや悪く、本来なら見えるはずの鳥取砂丘までは見えなかったのは残念だった。
この城は、最初に回った「山下の丸」も山麓とはいいながらも、そこから鳥取市街を見下ろす眺望も素晴らしく、石垣等の遺構もよく残っており見応えがある。もう少し時間の余裕を持って回るべきだった。回り始めた時間が遅かったのと、お腹が空いていたのがつくづく残念であった。多分、随分見逃した遺構もあったんだろうな。
それにしても、まさか自分までが鳥取城で『渇え攻め』に会うとは思ってもみなかった!!!
(1997/08/12登城して)

鳥取城は、ほぼ15年ぶりの登城だ。前回の登城時には、鳥取城を甘く見て、少しお腹がすいたまま登って行き、途中で、猛烈な空腹で参ったのを思い出す。まさに、自分自身が「飢え攻め」にあってしまったのだ(苦笑)。
今回は、気を付けて、リュックにも餌を詰め込んで登った(笑)。
ただ、登城口に「くま注意」の看板が立てられていたので、念のために騒がしいほど大きな音のする「熊ベル」をならしながら登って行ったら、日曜日ということもあり、大人から子供まで、大勢の登山客が・・・。恥ずかしくなって、リュックの中へしまい込んだのです(苦笑)。
久し振りに登った鳥取城は、お腹はすいてはいなかったものの、今回も結構厳しかったが、前回は雲っていて山上の天守台跡から見えなかった鳥取砂丘をはじめとすろ景色が素晴らしかった。
また、「山下の丸」は、前回よりも修復や復元が進み、ますます見応えのあるものとなっていた。
(2012/05/20登城して)

ギャラリー

(鳥取城跡遺構分布概念図) ~パンフレットより~
鳥取城跡は、大きく分けて、戦国時代終わり頃までの土でできた中世城郭と、安土桃山時代末から江戸時代にかけて石垣で造られた近世城郭という、性格の異なる2種類の遺跡で構成されている。
近世城郭としての鳥取城は、戦国時代の山城を起源に、秀吉の部将・宮部継潤の時代に整備が始まった。その後、池田長吉や池田光政の改修を経て、鳥取池田氏の初代・光仲に継承され、焼失や増改築を繰り返していった。
01鳥取城遺構概念図

【山下の丸】
山下の丸縄張略図 ~現地案内板より~
IMG_0529

吉川経家像
秀吉の鳥取城攻略に頑強に抵抗したのが毛利の援軍として派遣された吉川経家である。秀吉の手によって城は落とされたが、経家の勇姿を惜しんで、平成5年に銅像が建立された。画像などが残っていなかったため、生存する直系子孫の顔写真などを参考にしたという。尚、「笑点」でお馴染みであった三遊亭圓楽 (5代目)が経家の子孫だそうだw(*゚o゚*)w。
また、この銅像の奥に、搦手門であったが、武士の通用門となっていた南の御門があったようだが遺構は残っていない。背後の山が鳥取城。
02吉川経家像

内堀
03堀1

大手橋を渡り中ノ御門へ
慶長の大改築以後、大手門とされた。枡形を備える複門で二の門は櫓門となっていた。藩主在城の時は門の扉は開かれ、藩主が江戸出府中は閉ざされていた。大手門に架かる橋は擬宝珠橋と呼ばれていた(現在の呼称は大手橋)。
04中ノ御門へ

太鼓御門
三の丸正面入り口の門で枡形門。二の門にあたる櫓門の楼上で、大きな太鼓を打ち鳴らして時を報じていた。
05太鼓御門1

三の丸
三の丸は現在は鳥取県立鳥取西高校の敷地となっている。
06三の丸

二の丸の石垣群が
三の丸を進むと二の丸の巨大な石垣群が現れ、アドレナリンの分泌が増大してくる(*^_^*)。
07石垣群

二の丸と天球丸の石垣
石段を登って行くと、右奥には天球丸の石垣も見えてきて、益々・・・(*^_^*)。
08二の丸と天球丸石垣

天球丸と巻石垣
天球丸手前を右へ進み、天球丸の一段下の曲輪へ廻ると、天球丸の石垣下に球面石垣(巻石垣)がある。「巻石垣」は、石垣の崩落を防ぐことを目的に、江戸時代の終わり頃に築き足されたものだそうで、同様の目的で築き足された石垣は国内各地の城跡で確認されているが、いずれも角を持った石垣で、このような、角を持たない球面の石垣は、確認事例がなく、全国唯一の珍しいものだそうだ。つい最近(先月らしい)、復元が完了したばかりとのことだ。ラッキー(*^_^*)。
11天球丸巻石垣1

巻石垣をズームアップ
11天球丸巻石垣2

楯蔵
天球丸の一段下の曲輪にあった楯形に曲がった小さな平櫓であった。この建物は享保5年(1720)の城内ほとんどの建物が消失したという石黒火事でも焼け残り幕末まで存続したそうだ。
IMG_0378

天球丸へ
二の丸の一段上、平山城部の最高所にある。池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の夫人だった天球院が山崎家を去った後に居住していた。
12天球丸石垣

表門(鉄門)を天球丸の西から見下ろす
表門(鉄門)は、二の丸への大手入口になる。
14表門2

二の丸
江戸時代には藩主の居館が置かれていたが、居館が三の丸に移ったあとは本丸と呼ばれるようになった(のち、再び二の丸の呼称に戻る)。御三階櫓(写真左奥)、走櫓、菱櫓などの建物があった。石黒火事で全焼したあと、御三階櫓と走櫓が再建されたのみで長らく放置されていたが、弘化元年(1844)に二の丸御殿が再建された。
20二の丸

菱櫓跡
走櫓に隣接して立っていた2層2階の櫓で、土台の石垣から平面は菱形をしていたと推測される。石黒火事による焼失後はしばらく再建されず、最後の藩主・池田慶徳の時代になってようやく再建された。
21菱櫓

走櫓跡
二の丸の南東隅にあり、御三階櫓とは土塀で連結されていた。石黒火事で焼失したが翌年に再建された。
22走り櫓

走櫓跡から菱櫓跡を
21菱櫓2

二の丸三階櫓跡(二の丸にて撮影)
二の丸の南西隅、市街地に面して建っていた3層3重の隅櫓。山上の丸の天守が焼失してからは鳥取城を象徴する建物となった。石黒火事で焼失したあとも8年後に再建された。
23二の丸三階櫓跡

二の丸三階櫓台を二の丸裏御門下から
本来は隅櫓ではあるが、山上の丸の天守が焼失してからは鳥取城を象徴する建物として天守代りであっただけにかなりの規模だ。
23二の丸三階櫓跡2

右膳の丸(三階櫓台上から撮影)
右膳の丸は、弘化元年(1844)に二の丸御殿が再建されたあと、嘉永2年(1849)に拡張された。
24右膳の丸

登り石垣
右膳の丸の西端には登り石垣が見られる。こんな立派な登り石垣は、彦根城で見て以来だ。
25登り石垣

二の丸裏御門跡
右の石垣は二の丸三階櫓台。
26二の丸裏御門

中仕切門
鳥取城跡内に残る唯一の建築物。強風で倒壊したが、勇志により修復された。
27中仕切門

北ノ御門跡
慶長大改築前は大手門だったが、改築後に搦手門とされた。町人が丸の内に出入りする場合は、この門を使用した。
28北ノ御門跡

【山上の丸】
山上の丸は高石垣で作られており、文亀元年(1501)の大改築によって現在の姿が造られたようだ。
山上の丸
50山上の丸案内図

登城口
山上の丸への登城口は、天球丸の北西端にあるが、「くま注意」の看板があったので、騒がしいほどよく鳴る「熊ベル」を鳴らしながら、登って行ったら、大人から子供まで大勢の登山客がいて、恥ずかしくなり、リュックの中へしまった(苦笑)。
51熊注意

登城道
登城道は、かなりの急坂をひたすら登っていくことになる。親切にも●合目との看板が立てられているが、かえって、これが・・・かも? 前回の登城時には、鳥取城を甘く見て、少しお腹がすいたまま登って行き、途中で、猛烈な空腹で参ったのを思い出す。まさに、自分自身が「飢え攻め」にあってしまったのだ(苦笑)。今回は、気を付けて、リュックにも餌を詰め込んで登った(笑)。
52登城道 53登城道

前方に二の丸の石垣が見えてくる
登り始めて20分ほど。9合目を過ぎてからしばらく登ると、前方に二の丸の石垣が見えてくる。ホッ(*^_^*)。
54石垣

出丸の石垣
左脇道へ入って行くと、出丸の石垣下へ出る。但し、危険につき進入禁止になっている。
55出丸石垣

二の丸下の石垣
56二の丸石垣

本丸への石段
二の丸脇を登って行くと、本丸と二の丸への道に分かれる。
57本丸へ

多門櫓跡
山上の丸における本丸の城門である。走り櫓により月見櫓につながっていたそうだ。
IMG_0435

本丸跡
前回、登城した時は、この辺りは強烈な藪で入って行くのも気持ち悪いほどだったが、昨今の城ブームのお蔭でしょうかねえ。写真正面奥が、天守台跡で、左奥には車井戸が見える。

58本丸

本丸から鳥取市街地を見下ろす
前回は、夕方近くの上、霧でほとんど見えなかったが、幸い、今回は天候に恵まれて素晴らしい眺望が。
60眺望

車井戸
池田長吉が慶長7年(1602)から城内大改築の時に掘った井戸で、この付近には天守奉行が住んでいた建物もあった。
59井戸

天守台
山上の丸の北西隅に位置する。天正元年(1573)に山名豊国が因幡守護所を布勢天神山城から鳥取城に移した際に、布勢天神山城の3層の天守を移築したとされている。池田長吉が鳥取城主となった際、強風によるゆがみを避けるために2層に改築した。
61天守台

天守台上
天守台は南北10間5尺、東西10間2尺のほぼ正方形で中央部に深さ8尺の穴蔵がある。鳥取城天守は元禄5年(1692)に落雷で焼失し、以後再建されなかった。
62天守台上

天守台からの眺望(北西方向)
北西方向には湖山池が見え、この後、登城した防己尾城(つづらおじょう)も見える。左奥の大きな池が湖山池で、池の向こう側、やや右側の手前へ突き出した半島が防己尾城。
63眺望

天守台からの眺望(鳥取砂丘を)
前回の登城では全く見えなかった砂丘もよく見える。
63砂丘

二の丸跡
二の丸跡には、以前は売店か何かがあったようだが、今は、人影もなし。
64二の丸

三の丸跡
二の丸を突き進むと、一段下に三の丸がある。ここも、勿論、全く人影がない。正面奥の階段の上が二の丸。
64三の丸

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