秀吉の兵糧攻めにより落城、いわゆる「鳥取の飢え(かつえ)殺し」という
別名
久松城(きゅうしょうじょう)
所在地
鳥取県鳥取市東町
形状
山城(標高:263m、比高:259m)、平山城
現状・遺構
山下の丸:天球丸・二の丸・三の丸・丸の内の石垣、内堀の大部分が現存、二の丸跡に御三階櫓台、中仕切門、
三の丸は鳥取西高校
山上の丸:天守台石垣、曲輪跡等
満足度(10点満点)
8点
訪城日
1997/08/12
歴史等
因幡(鳥取県)の守護は日本全国の6分の1、11ヶ国の守護職を手中にした山名氏で、その支配拠点は、はじめ二上山城(石見)
であったが、文正元年(1466)応仁の乱の主役・山名宗全が天神山城(鳥取市)を築き本拠となった。
時は流れて、天文14年(1545)守護・山名誠通(さねみち)は、同族の但馬守護・佑豊(すけとよ)と国境紛争から仲違いし、
その備えとして天神山城の近くの久松山(きゅうしょうざん)に出城を築いた。これが鳥取城のはじまりである。
しかし誠通は、同17年(1548)但馬山名氏に急襲され敗死し、因幡は併呑され、佑豊の弟を因幡へ迎えた。そこへ、
武田豊前が願って城番についた。その子・高信が因幡山名氏を謀殺した。これに対して、但馬山名氏の鳥取城攻撃がはじまったが、撃退に成功し、
山名氏・武田氏が並立する状況になった。
しかし、元亀3年(1572)尼子氏復活を目指す山中鹿之助一党が、山名豊国方を応援し、高信は大敗を喫した。翌天正元年(1573)、
豊国は本拠を天神山城から鳥取城に移した。以降の変化はめまぐるしく、つまるところ毛利一族の吉川経家の傘下となった。
天正4年(1576)、足利義昭が織田信長に追われて毛利氏のもとに落ち延びると、信長は羽柴秀吉を総大将に任じて中国攻めを命じる。
天正8年(1580)秀吉は10万を超える大軍を率いて、鳥取に迫ると、山名豊国は、それまで毛利方に頼っていたのを、
あっさり裏切り降伏しようとした。しかし、家臣達がそれを許さず、豊国を追放し、毛利方から吉川経家を鳥取城主として招き、
徹底抗戦を決意した。
これを察した秀吉は、鳥取城の力攻めは無理とみるや、軍師黒田官兵衛の進言で兵糧攻めの作戦をとった。事前に、若狭から商船を送り込み、
倍以上の値段で穀類を買わせたという。鳥取城兵は裏を考えず売り尽くしてしまった。
天正9年(1581)秀吉は12万の大軍で鳥取城を取り囲んだ。経家は、冬になれば敵は引くとの計算で入城したが、見合う食糧がなく、
このため鳥取城内では飢餓地獄に陥り、籠城4ヶ月にして経家はついに開城して自刃した。これを鳥取の飢え(かつえ)殺しという。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、池田長吉が6万石で鳥取城主となると、城の中心を久松山山麓に移して、
4年がかりで城の大改築を行ない、ほぼ現在に伝わる鳥取城が完成した。
鳥取城主は江戸期を通じて池田家であるが、その中で3家(池田輝政の弟、長男、次男それぞれの家)が交替している。当初は弟の長吉が入城し、
次に嫡孫光政が姫路城から入った。
一方、次男忠継は家康の外孫にもあたるため寵愛されて岡山城を与えられていた。
ところが、忠継が早世、その弟忠雄も若くして死んだため、その子光仲が3歳で家を継ぐことになり、これでは山陽路の大藩を治められないと、
寛永9年(1632)光仲が鳥取城主となり、光政が岡山城主へと入れ替ったのである。
以後、光仲系の池田氏12代で明治維新を迎えた。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「日本の百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
当日、京都を出発して、鳥取砂丘を見てからの登城であったが、自分としたことが鳥取城を甘くみていた。
この城は比高が259mもあることを忘れていた。
「山下の丸」を見終わり、「山上の丸」に登りはじめたが、夕方になり猛烈にお腹が空いてきた。その上、登城道がかなりキツイ!!
かなり登ったはずが、何と、登山道によくある「4合目という案内板」があった。「まだ、4合目か。そういえば、ここは『秀吉の渇え攻め』
で有名な鳥取城ではないか!」「当時の城兵はこんなものではなかったよな!!」と思い直して、登っていく。しかし、やっぱり腹減った!!
「まだ6合目か」「まだ7合目か!」などと思いながらも、何とか頂上の「山上の丸」に辿り着いた。
こんな山の頂上に、結構遺構が残っていた。ただ真夏のことで、草が茫々で遺構が確認しづらかった。しかし、眺望は最高にいい。
ただ残念ながら、夕方で天候もやや悪く、本来なら見えるはずの鳥取砂丘までは見えなかった。
この城は、最初に回った「山下の丸」も山麓とはいいながらも、そこから鳥取市街を見下ろす眺望も素晴らしく、
石垣等の遺構もよく残っており見応えがあった。もう少し時間の余裕を持って回るべきだった。回り始めた時間が遅かったのと、
お腹が空いていたのがつくづく残念であった。多分、随分見逃した遺構もあったんだろうな。
しかし、自分までが鳥取城で『渇え攻め』に会うとは思ってもみなかった!!!
(1997/08/12登城して)
ギャラリー
鳥取城全景(後ろの山が「山上の丸」、石垣が見えるあたりが「山下の丸」)

【山下の丸】
内堀

復元城門(鳥取城跡内に残る唯一の建築物。強風で倒壊したが、勇志により修復された)

門から二の丸石垣を見上げる

二の丸石垣

御三階櫓台

表御門跡(鉄門)

天球丸から鉄門(表御門を)

【山上の丸】
本丸の石垣(8合目あたりから、石垣が少し見え始めた。それにしても腹減った。ここまでがキツカッタ)

多聞櫓跡(山上の丸における本丸の城門である。走り櫓により月見櫓につながっていた。)

山上の丸(本丸)跡

山上の丸からの眺望(残念ながら、やや曇りのため鳥取砂丘は見れなかった)

天守櫓跡

車井戸

