播磨 姫路城(姫路市)

西の丸から眺める天守

その優美な姿は、世界に誇る木造城郭建築の大いなる遺産

別名

白鷺城

所在地

兵庫県姫路市本町68

形状

平山城(標高45.6m)

現状・遺構等

【国宝】連立天守群(大天守、東小天守、西小天守、乾小天守)、イ・ロ・ハ・ニ・の渡櫓の8棟
【重要文化財】化粧櫓、二の櫓、折廻り櫓、備前門、水の一門、水の二門、菱の門、い・ろ・は・にの門、ぬの門など74棟
他にも櫓、城門、塀、本丸・二の丸・勢隠の諸曲輪の石垣と土塁、内・中堀が現存

満足度

★★★★★

訪城日

1990/08/25
1996/06/15
2007/11/14

歴史等

元弘3年(1333)播磨の守護職・赤松則村(円心)が姫山に砦を築き、貞和2年(1346)則村の二男貞範が改築した。 その後庄山城を築いて移り、小寺頼季を目代として姫山に入れた。
しかし、嘉吉元年(1441)6月24日、円心から3代後の満祐が6代将軍義教を謀殺するという嘉吉の乱を起こした。 嘉吉の乱後は赤松氏に代わり山名持豊(宗全)が播磨守護職となり、姫路城には太田垣主殿佐が城代として入った。
その後、赤松氏の再興が許され、政則(満祐の弟義雅の孫)が当主の座についた。そして応仁の乱の時、細川勝元は政則に、 播磨に下向させ山名氏を討たせ、応仁元年(1467)姫路城を陥落し、領国を回復し播磨守護となり、城を修築した。 しかし当時はまだ山名氏の影響が強く、但馬方面に対処するために、文明元年(1469)置塩城を新しく築き本拠とした。 姫路城は支城として、重臣の小寺氏が4代居城した。
天文14年(1545)小寺氏が御着城(ごちゃくじょう) に移ると、その重臣黒田重隆が入城した。
天正5年(1577)中国地方に侵攻した羽柴秀吉は、同8年(1580)黒田官兵衛孝高(のちの如水)から姫路城を譲り受け大改修した。 この時に、3層の天守閣が築かれたという。
備中高松城を水攻めにしていた秀吉は、本能寺の変を聞くや、ただちに毛利方と和睦をし、大急ぎで姫路城に戻り、休息をとったのち、 明智光秀との山崎の合戦へと向かった。
山崎の合戦の後の同11年(1583)には秀吉の異父弟・羽柴秀長が入り、同13年(1585)には木下家定が城主となり城を修築した。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、播磨52万石の太守となった池田輝政は慶長6年(1601) から9年もの歳月と5千万の人員を動員して姫路城を大改修した。この時、秀吉の3層の天守を解体し、 現在ある5層6階地下1階の大天守と小天守3基(西・乾・東)が建てられた。
元和3年(1618)池田氏は鳥取城へ移り、 本多忠政が入封し、その子忠刻に千姫を迎え鷺山に西の丸を築造し、現在ある姫路城が完成した。
本多氏以後は頻繁に城主が入れ替り、奥平松平氏、結城松平氏、榊原氏、松平氏、本多氏、榊原(再)、松平氏の諸氏が入封したが、寛延2年 (1749)に酒井忠恭が入り、以後、酒井氏が10代120年在城し明治を迎えた。
『「日本城郭大辞典(新人物往来社刊)」、「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

現存している城郭の代表である「姫路城」は、やっぱり素晴らしかった。
当時(1990/8/25)は、まだ城というものにそれほど興味を持っていなかった私でさえも、その白い美しい姿が見えた時には、 本当に感動した。5重6階の大天守と3つの小天守が渡櫓でつながり、幾重にも重なる屋根と白漆喰の外装とが調和がとれ、実に華やかである。 「白鷺城」とはよく言ったものである。まさに「白鷺」そのものである。そして城域も非常に広く、おまけに天守閣だけでなく、 多くの石垣は勿論のこと、西の丸の化粧櫓・渡櫓や帯曲輪櫓等多くの櫓や城門、塀等の遺構が非常に沢山残っているのが嬉しい。 これでも城域は往時の3分の2程度だそうである。
今でも、「日本の城でどこが一番良かったですか?」と聞かれることがあるが、そんな時、「好きな城や城址はいっぱいあるけど、 一つだけとなると、やっぱり姫路城でしょうね」と答えることになってしまう。
明治維新だけでなく、太平洋戦争の空爆にもよく耐えて残ってくれたものである。決して空爆の対象外であったわけでもなく、まさに奇跡である。
(1990/08/25登城して)

11年ぶり3度目の登城である。何度登城しても姫路城は素晴らしい。
いつもは、堀切や土塁・石塁等々にばかり目がいく私であるが、この城ばかりは、大天守をはじめとする天守群・櫓群や門・ 土塀といった建物に目を奪われる。
普段登る山城と違って、平日にも関わらず、一般観光客、修学旅行の生徒や外人さんなど観光客で一杯である。
本丸方面への登城時に、同行したNさんが高い石段を見て「当時の女性は着物を着て、これを登るのは大変だなあ」と言ったすぐ後に、 隣の外人さんが同じことをガイドさんに聞いていた。当然、当時の女性が本丸方面へ上がることは無かったわけで、Nさんもすぐに気が付く。 ガイドさんも英語で同様に答えていた。
一方、Tさんは女子高生が天守閣の急な階段を登るのを心配していたが・・・(笑)。
(2007/11/14登城して)

ギャラリー

西の丸下の堀
姫路城は天守閣をはじめ建物群があまりにも素晴らしいため、見逃しがちであるが、 堀と石垣もなかなかのものである。
姫路城西の丸下の堀

桜門橋を渡り大手門から入城
大手門は本来三重の櫓門からなり城内では最も格調高く厳重な門であった。現在、 大手門と呼んでいる大型の高麗門は昭和13年(1938)に完成したもので、位置も大きさも江戸時代のものとは全く異なっている。
又、今回復元した桜門橋は発掘調査で出土した遺構をもとに江戸時代の木橋をイメージして平成19年(2007)に築いたものである。

三の丸から姫路城の全景を   ~クリックにて拡大画面に~
いつもは、堀切や土塁・石塁等々にばかり目がいく私であるが、この城ばかりは、大天守をはじめとする天守群・ 櫓群や門・土塀といった建物に目を奪われる。
姫路城全景

菱の門
城内で最も大きく、二の丸の入口を固めた門である。
両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋があることからこの名前が付いている。

姫路城菱の門

三国濠前から天守閣を    ~クリックにて拡大画面に~
姫路城天守閣(三国濠前から)

西の丸から天守閣を    ~クリックにて拡大画面に~
姫路城天守閣(西の丸から)

西の丸の渡櫓
姫路城西の丸渡櫓

化粧櫓
将軍徳川秀忠の長女千姫は大坂城落城のあと、本多忠刻に再嫁して西の丸で過ごし、 この櫓を休息所としたことからこの名がある。
姫路城化粧櫓

乾小天守
3天守の1つで、天守台の西北隅(乾の方角)に位置している。他に東・西小天守があり、 3つの小天守の中で一番大きく、外観3層、内部は地下1階地上4階の造りになっている。
大きな唐破風の屋根と小さめの千鳥破風の屋根により重厚な感じがする。
姫路城乾小天守

搦手口の枡形(搦手口とはいいながらも、かなり大規模なものである)

備前丸から大天守(右)と西小天守(左)
大天守は、外観5層、内部は地下1階地上6階である。天守閣は直径1m近い2本の心柱で支えている。

大天守から西の丸方面を    ~クリックにて拡大画面に~

大天守から三の丸・大手道方面を ~クリックにて拡大画面に~

お菊井戸
播州皿屋敷は、お家乗っ取りの企てを女中お菊が知り、城主の難を救ったが、 家老はそれを恨み家宝の皿1枚を隠してお菊を責め、井戸に投げ込んだという有名な話である。

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コメント

お洒落なオヤジ(2006/03/13)

>築地が我が家(豊洲)の近くに来るんですね。
そうなんですよー

>今月末には「ゆりかもめ」もやって来ます。
いいですねー豊洲は

姫路城は最高に素晴らしいお城ですね。

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