赤松氏家臣で黒田氏の主家小寺氏の城
別名
茶臼山城、天川城
所在地
兵庫県姫路市御国野町御着1142-2(姫路市役所東出張所の周り)
形状
平城
現状・遺構
現状:姫路市役所東出張所・御国野公民館、御着城公園、グラウンド等
遺構等:堀、天川橋、石碑、説明板
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2007/11/14
歴史等
御着城(ごちゃくじょう)は、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城である。
永正16年(1519)小寺政隆が築城し、則職・政職と継承され、天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、
嘉吉年間(1441~44)には既に構居が設けられていたとされ、明応年間(1492~1501)
には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していた。
小寺政職の代に黒田官兵衛孝高(如水)の父満隆を家老として取立て(祖父重隆との説もある)、御着城の支城としていた姫路山城の守将とした。
その後、孝高が父の跡を継いで小寺家家老となった。
天正3年(1575)、小寺政職は織田信長につくか、毛利輝元につくか、その判断を重臣たちに求めた。この時、
重臣の多くは毛利につくべきと言ったが、孝高は「織田は必ずや天下をとる人物。織田につくべき」と説いた。しかし、政職は毛利につき、
天正6年(1576)御着城に立て籠もった。
秀吉がこれを知って姫路に入ると孝高が出迎えて姫路城
(当時は姫路山城)を秀吉に献上した。孝高は既に信長に通じていたのである。
政職は大方3ヶ月間よく防戦したが、7月開城して逃走した。
尚、昭和52~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・
中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた事が判明した。
宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御国野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二の丸、西と南は天川を利用した二重の堀、
北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町並の記載があり、惣構えの城が描かれている。
『「現地説明板」、「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」より』
現況・登城記・感想等
御着城址は、ほとんど姫路市の街中に埋もれてしまい、城跡の中央を国道2号線が走り、本丸跡に姫路市役所東出張所・御着城公園・
御国野公民館がある。公園外側の国道寄りに城址名石碑と説明板が建っている。
出張所・公民館の建物が天守風になっており、何となく微笑ましい感じがする。
その隣には黒田官兵衛孝高(如水)の祖父黒田重隆の墓所がある。また、出張所の裏には石橋の天川橋が復元され残っている。
遺構はほとんど残ってはいないものの、地元がこのように歴史(史跡)を大事にしている姿は嬉しいものである。
(2007/11/14登城して)
ギャラリー
天守閣風の市役所出張所と公民館
黒田家の墓所
姫路市役所東出張所の隣には黒田墓所があった。ここの墓所には黒田官兵衛孝高(のちの如水)
の祖父重隆と生母(明石氏)の2人が祀られている。天正8年(1580)秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、
父職隆と自分は国府山城(妻鹿城)に移った。職隆の墓は妻鹿にある。のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も
「ちくぜんさん」と呼んでいる。ここの墓所は、享和2年(1802)に資材を九州から運んで造られた。(現地説明板より)
天川橋
姫路藩が文政11年(1828)に南西200mの天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋。
昭和47年の出水で橋脚が落下したため撤去し、昭和53年現在地に移設保存した。地形中央部の低い所は御着城の堀跡である。
(現地説明板より)