河内と大和を結ぶ要衝地に築かれた山城、信長に背いた松永久秀の滅亡の城
所在地
奈良県生駒郡平群町信貴山(朝護孫子寺の裏山)
形状
山城(標高433m)
現状・遺構
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板
満足度(10点満点)
4点
訪城日
2007/11/13
歴史等
信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地として幾たびか築城が繰り返された。
古くは天智朝における高安城中心城域となり、中世には護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。
その後、戦国時代の天文5年(1536)、木沢長政が築城入城したが、同11年(1542)河内大平寺の戦いで落城した。
永禄2年(1559)、松永久秀は大和に入るとすぐ大修築して河内・大和を抑える軍事拠点とした。
天正5年(1577)久秀は織田信長に背き、筒井順慶を中心とする織田軍に攻められ50日間の籠城の後、久秀は城を自焼し滅亡した。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
朝護孫子寺の裏に聳える山が信貴山城である。
本堂手前下の三重塔の横から赤い鳥居を潜りながら九十九折の急坂を15分ほどひたすら登ると空鉢堂に辿り着く。
空鉢堂が本丸跡で、周りは登城口を除き絶壁になっている。一段下の腰曲輪には石碑と縄張図も描かれた説明板が建っている。
本丸を頂点として放射状に段曲輪が築かれている。
説明板によると「遺構が良く残り、保存状況が極めて良好」となっているが、それぞれの案内板が全然無い上、空堀や土塁や虎口等々は、
参詣者やハイカーも多いことから、それらしきものが結構築造されていそうで、往時の遺構とその後築造したものとの区別がよく分からなかった。
(2007/11/13登城して)
ギャラリー
信貴山城跡実測図(説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
東西500m、南北700mに渡る奈良県下最大規模の中世山城で、
本丸を頂点として放射状に120以上の曲輪を配している。
信貴山城遠景(駐車場から朝護孫子寺への橋の上から)
朝護孫子寺本堂(毘沙門堂)と張子の大虎
寺に入ると張子の虎が迎えてくれる。今回は会社OB仲間との旅であるが、タイガース(狂)
ファンのTさんは明日から合流で、今日はNさんと二人である。残念ながら、Nさんはドラゴンズファンであまり面白くなさそうだった。
空堀
本丸へ向かう大手道の途中で見つけた。奥の山下の方まで続く堀切のようであった。
大手口から本丸下の腰曲輪への虎口跡
本丸から2段ほど下の大曲輪
植林されていて写真では分かりにくいが、この曲輪はかなり大規模なものである。曲輪手前を通って高安城方面
(写真左へ)への道になっている。
空堀(堀底道)と虎口?、それともハイキング用の遊歩道?
説明板によると「遺構が良く残り、保存状況が極めて良好」となっているが、それぞれの案内板が全然無い上、
空堀や土塁や虎口等々は、参詣者やハイカーも多いことから、それらしきものが結構築造されていそうで、
往時の遺構とその後築造したものとの区別がよく分からなかった。