表中門前から本丸(正面)と二の丸(左)の高石垣を
森可成の子・忠政が大修築、築城技術が最盛期に築かれた石垣群は圧巻
別名
鶴山城
所在地
岡山県津山市山下
形状
平山城
現状・遺構等
現状:鶴山公園
遺構等:復元備中櫓、移築門【二の丸四脚門:中山神社神門(津山市一宮)、城門:大蔵神社神門(津山市上之町)】、天守台、曲輪、石垣、堀、
石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
1996/08/16
2007/11/16
歴史等
津山城のある鶴山には、嘉吉年間(1441~44)に美作国守護・山名氏が築いた山城があったが、応仁の乱後、山名氏も衰え、
文明年間(1469~87)に廃城となった。慶長8年(1603)、関が原の戦の功により信州川中島より美作18万6,
500石を与えられた森忠政が入国した。
『以下、現地説明板より』
津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、元和2年(1616)
の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。往時には5層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・
石落とし等の備えを持ち、唐破風・千鳥風等の装飾のない実戦的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ粟積櫓・
月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、
近世平山城の典型とされています。明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、
翌年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。その後、明治33年(1900)
城跡は鶴山公園となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。
《歴代城主》
【森家】
森家は清和源氏で、初代藩主・森忠政は、美濃金山城主・
森可成の六男に生まれました。慶長8年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島13万7,
500石の大名から美作18万6,500石の大名に抜擢されました。
この忠政は本能寺の変で主君の織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。
森氏は4代95年にわたって美作国を治めましたが、4代藩主・長成に嗣子がなく津山森藩は改易となりました。その後、森家は2代藩主・
長継の子・長直が備中西江原藩主として森家を再興し、さらに宝永3年(1706)播磨赤穂に移りました。
【松平家】
森家にかわり10万石の大名として津山藩主となった松平宣富は徳川家康の第2子・結城(松平)
秀康の曾孫で越前家と呼ばれ徳川一門中に重きをなしていました。そして明治4年(1871)
に廃藩となるまで9代174年にわたって続きました。
現況・登城記・感想等
この城址の石垣は実に素晴らしい。さすがに、築城技術最盛期に築かれた城である。
登城するにあたってはここまで素晴らしい石垣群があるとは想像だにしなかった。
登城口から入って早速目の前にそびえる高石垣、そして登城道の石段と両側にある石垣には圧倒された。そして登って行くと次々に壮大な、
美しい切り込みハギの石垣が現れる。何時間見ていても、散策していても全く飽きない。中四国地方の城郭には、
確かに素晴らしい石垣の城址が多いが、この津山城はその中でも別格である。城址が残っているだけで建築物が無いにも関わらず、
さすが入城料を取るだけのことはある。結構じっくり見て廻ったつもりではあるが、何としても、もう一度行って見たい城址の一つである。途中、
桜の木が多かったが、次回は出来れば桜の季節に来てみたいものである。
(1996/08/16登城して)
11年ぶりの登城である。何度見ても、この城の石垣群は素晴らしい。
中でも、表中門から正面に仰ぎ見る本丸の石垣と左手に見える二の丸石垣、
そしてその二の丸への枡形の石垣と緩やかな石段の光景には圧倒される。
新たに備中櫓が復元されていたが、結構様になっている。ただ、どうせ復元するなら天守閣を復元して欲しかったが、
予算的なこともあるだろうしなあ・・・。
桜の季節に来てみたいと思っていたが、紅葉もなかなか綺麗だった。
(2007/11/16登城して)
ギャラリー
さあ登城(正面は三の丸石垣)
冠木門(入城ゲート)
冠木門から三の丸への枡形虎口
二の丸の石垣
二の丸から見上げる備中櫓
切手門
表鉄門枡形(太鼓櫓台上から)
天守へ
天守穴蔵
太鼓櫓から月見櫓・粟積櫓へと続く石垣 ~クリックにて拡大画面に~
㊧粟積櫓台、㊨月見櫓台
裏鉄門枡形
裏中門
裏下門枡形