美濃 金山城(可児市)

東腰曲輪跡から天守台石垣を

森可成・長可・忠政父子3代の戦国戦乱の歴史を彩った城

別名

兼山城、鳥ケ峰城

所在地

岐阜県可児市兼山(「蘭丸ふる里の森」の上の山)
蘭丸ふる里の森:兼山1418-23

形状

山城(標高273m)

現状・遺構等

現状;山林(蘭丸ふる里の森ほか)
遺構等:天守台、曲輪、土塁、石垣、虎口、竪堀、堀切、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2008/09/24

歴史等

室町末期の天文6年(1537)、斉藤道三の命を受け、その猶子斉藤大納言正義が山頂に築城し、鳥ケ峰城と称し、 中井戸の庄の地名を金山村(かねやまむら)と改めた。
正義は関白近衛稙家の妾腹の子で、比叡山に入れられて僧になるはずだったが、武を好んで還俗し、美濃に来て斎藤道三を頼り、 斉藤の姓を名乗った。
しかし、豪勇無双近隣に武威をふるった正義も、天文17年(1548)久々利城に招かれて城主の土岐悪五郎に謀殺されてしまった。 歳33であったという。
時移り、永禄8年(1565)織田信長は東濃経略の拠点として廃城になっていたこの城に、森可成を封じ、7万5千石とした。 可成は修築して金山城(かねやまじょう)と改めた。以来、可成・長可・忠政父子3代の居城として戦国戦乱の歴史を彩った。
すなわち、可成は元亀元年(1570)9月20日、近江宇佐山で浅井・ 朝倉軍と戦い討死(47歳)した。これより先、長男可隆も4月25日朝倉攻めに初陣、敦賀手筒山で討死している(19歳)。
天文10年(1582)6月2日の本能寺の変で織田信長とともに討死した可成の三男蘭丸長定(岩村城主) 、四男坊丸長隆(17歳)、五男力丸長氏(16歳)の三兄弟はともに金山城で出生し、信長の側近、近習として仕えていた。
2代城主二男長可はことのほか武勇にすぐれ「鬼武蔵」と言われた。岩村城主5万石も兼ね、 信濃海津城主でもあった。伊勢長島一向一揆や武田征伐等に偉功を立てた。城の改築や城下町造りにも意を用いたが、天正12年 (1584)長久手の合戦にて討死した(27歳)。
僅か15年ほどの間に父子6人が亡くなったのである。
3代城主六男忠政も金山城で出生し、長可の跡目を継ぎ15歳で7万石を領し、豊臣秀吉に仕え、九州・小田原に転戦、智略の将と重んぜられた。
慶長5年(1600)、徳川家康の命により信濃海津城 (13万7千5百石)に移封となり、金山村は、犬山城主石川光吉の領有となり、 金山城は廃城となった。
この時、天守・諸櫓等を一切取り壊し、木曽川に流して犬山に運び、犬山城城郭の増築・ 改築に使われたという。いわゆる諸記録に残されている「金山越え」である。
尚、犬山城の天守閣は金山城の天守閣を移築したものと考えられていたが、 昭和40年(1965)に行われた犬山城の解体修理により天守閣に移築の痕跡がないことが明らかになった。
忠政は慶長8年(1603)美作国18万石に国替えとなり、以後13年かけて津山城を完成し、 現在の津山市の基を造った。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』

現況・登城記・感想等

金山城址へは、三の丸跡のすぐ下にある出丸駐車場まで車で登れるが、山裾にある公園「蘭丸ふる里の森」 からも遊歩道が綺麗に整備されている。私は出丸まで車で登ったが、5~6分ほどで出丸まで登れそうなので、こちらがお薦めだ。
出丸からは、三の丸・二の丸を通り、本丸天守台跡までは10分弱である。
金山城址は、石垣等の遺構がよく残り、中でも天守台・本丸石垣や出丸石垣、大手枡形等の石垣が良好に残っていて感激ものだ!
また出丸や、近年作られた中世櫓風の展望台からの眺望も素晴らしく、空気が澄んでいるときは伊吹山まで望めるようだ。
「蘭丸ふる里の森」は、市民の憩いの公園として、実に綺麗に整備されているが、山頂部の城郭主要部分は改変せず、 山裾部だけが整備されているのが好ましい。公園の傾斜地には桜の木が多く、満開時に、城址を見上げたら見事なことだろう。
尚、城跡にはすっかり満足したが、薮蚊の大群には参った。夏も終わりかけ、蚊も次世代への生き残りを掛けて必死に血を吸いにくる。お蔭で、 両腕に50箇所以上もの刺された跡が残り、三日経った今でも痒くてしょうがない。決して大袈裟ではありませんよ(苦笑、泣・・・)
(2008/09/24登城して)

ギャラリー

金山城址への入口
国道21号線から高倉口信号の東100mほどの三叉路を北へ曲がり1.7kmほど北上して兼山町に入ると、 ㊧右手に「金山城跡へ」という大きな看板があり、その前(写真の左側)に第一駐車場がある。この三叉路を右折し、道なりに登って行くと、 ㊨第二駐車場へと出る。ここに、「ご注意、この先道が狭いため通行に注意して下さい(擦れ違い不能)」という案内板があるが、 それほど狭くもなく、擦れ違い可能な場所も結構ある。尚、ここを左へ曲がると「蘭丸ふる里の森」へと行ける。
 

出丸
出丸跡の駐車場(写真の手前にある)はかなり広く、20台以上駐車可能である。
出丸は、第一線防御のために大手口に築かれた施設で、主郭から独立して設けられる出丸は、安土桃山時代の関西地方の城郭に多いと云われる。 規模は、東西約55m、南北約33mで、北面は土塁で築かれ、南面は3~4mの石塁で築造されている。

出丸南面の石垣
良好に残る、この野面積みの石垣は、戦国時代末期の創建当時そのままの遺構だそうだ。

さあ登城
出丸駐車場入口傍に登城口がある。道はよく整備され歩きやすいが、早速、薮蚊が・・・。
 

三の丸門跡
しばらく登ると、三の丸門跡へと出る。門の礎石が残っている。

三の丸門跡右側には石垣が残っている。

古城山拂下(はらいさげ)記念碑
三の丸には古城山拂下記念碑が立っている。周りは石だらけだが、石垣の石だろうか?

水の手へと
三の丸には水の手への立て札があり虎口のようになっていたが、「これより危険」 とあり土砂が崩れているようだったし、降りて行ってから戻ってくるのも面倒だし・・・。という訳で、降りて行くのは止~めた。

二の丸へ
㊧三の丸から石段を登って行くと、㊨二の丸へと出る。二の丸には侍屋敷があったそうだ。正面の切岸 (切岸上は主郭部の何がしかの曲輪跡)は高さ7~8mほどあるだろう。
 

二の丸物見櫓
二の丸南端に位置し、南方に広がる丘陵に明智光秀の居城長山城跡、西方に中山道太田宿、 東方に久々利浅間山等が望見されるとのことだが、私には、どれがどれだかよく分からなかった。

大手枡形の図
いよいよ、この後大手枡形跡へと入って行く。元々は、防御のために考えられ造られた枡形虎口であるが、 普段は登城する武士達への威厳を示すためのもので、ここまで登ってきた武士は、 ここで呼吸を整えながら本丸へ上るための衣紋の乱れなどを整える場であった。

大手枡形へと
㊧二の丸から石段を登ると、㊨大手門(一の門)へと出る。
上図のように一の門を入ると、直角に右に折れ、二の門をくぐり本丸へと登城する。。
尚、ここにあった城門2つは今も犬山市の瑞泉寺に表門、裏門として移築現存しているそうだ。
 

二の門
上の一の門を入ると枡形内右側に、この二の門がある。それにしても薮蚊が・・・(苦、汗)。

大手枡形
光の明暗差が大きすぎて見づらいが、この枡形虎口は良好に残っていて感激ものだ!!写真右側が一の門跡、 左やや上が二の門跡の石段。

南腰曲輪跡?
二の丸(写真右下)奥の切岸上にこの曲輪跡があるが、本丸下南側へ突き出ている。 東腰曲輪に対して南腰曲輪とでもしておきましょうか!この曲輪跡にも礎石が一杯確認できる。

天守台西南隅の算木積みの石垣
写真右側の道が天守台への道で、本丸への石段へと続く。
イヤ~!薮蚊がやたらと寄って来る。おまけに、蜘蛛の巣が顔に張り付いてしまった~!!

石段跡
本丸周囲は3~4mの石垣をめぐらし、石段以外は本丸へ入れないようになっていたとのことであるが、 それにしてはこの階段、石段とは思えないが・・・?

㊧本丸跡、㊨本丸に建つ金山城址石碑
本丸中央には御殿が、そして、写真奥のお堂辺りには二層の天守閣が建っていた。
 

搦手方面から天守台へ(天守付属袖櫓石垣)
かつて天守の傍には袖櫓があり、さらに付櫓へと降りる構造となっていた。

東腰曲輪跡から天守台石垣を
このアングルが、この城址で最高の場所かな。ただ、カメラを構えると、 すぐ2~3匹の薮蚊が手にとまるのには参った。はたいてもはたいてもすぐにやって来る。

東腰曲輪跡に多く確認される建物礎石
東腰曲輪は、搦手からの重要施設本丸の最終防御線で、土塀や侍屋敷の礎石がある。
 

搦手門跡礎石
搦手の左近屋敷から東腰曲輪へ入る重要な門で、丸石はその礎石である。
ここから左近屋敷跡へも行けるようだったが、結構降りて行くようで戻ってくるのも面倒だし、また、大した遺構も無さそうだし、 蜘蛛の巣や薮蚊もすごそうだし・・・。降りて行くのはヤ~メタ!

【蘭丸ふる里の森】
第二駐車場の所から左へ曲がると、「蘭丸ふる里の森」へ。入口には、冠木門が建てられている。ここから、 広場の駐車場まで行き、遊歩道を歩いて出丸へと登るのがお薦めだ。

堀切の小径
冠木門をくぐると、すぐこの大堀切を利用した堀切の小径へと出る。なかなかよく整備され、 気持ちよく散策が出来そうだ。
 

広場から金山城址を見上げる
傾斜地には桜が一杯!!中央上に中世櫓風の展望台が見える。

広場から出丸石垣を見上げる
写真上に見える出丸へは5~6分ほどで登れそう。ここから遊歩道を登って行くのがお薦めだ。

蘭丸産湯の井戸
広場の一段下のところに、「蘭丸産湯の井戸」が。永禄8年(1565)秋、 蘭丸が山頂にある金山城で生まれた。城には井戸がなく、ここから汲み上げて産湯につかったと伝えられる。

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