近江 三田村城(長浜市、旧浅井町)

三田村城北西部の土塁と櫓跡に建つ鐘楼

浅井氏重臣で、姉川北岸で勢力をほこった三田村氏の城館

別名

三田村氏館

所在地

滋賀県長浜市(浅井町)三田1125、伝正寺
【アクセス】
国道365号線の野村橋北詰信号から県道271号線を約800m西進し、三叉路(分かり辛いので、三田町に入ったら地元の方に尋ねた方がよいと思う)を右折して道なりに約250m北上すると右手に「伝正寺」がある。この伝正寺が城跡である。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 伝正寺
【遺構等】 曲輪、土塁、櫓台、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2012/05/19

歴史等

三田村城は、京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の城館跡で、最後の城主「三田村左衛門尉」は小谷城主浅井氏亮政・久政・長政の3代50年にわたり重臣であった。
姉川の合戦時に、三田村左衛門尉は浅井長政の命で横山城の城主を任せられ、三田村城は軍事同盟を結んでいた朝倉景健の本陣が置かれた。
元亀元年(1570)6月28日、姉川を挟んで、南岸には織田・徳川連合軍、北岸には浅井・朝倉連合軍が対峙し、9時間もの激闘が繰り広げられた末、織田・徳川軍の大勝利となり、姉川は血で真っ赤に染まったと伝えられる。
姉川の戦いで敗北した三田村左衛門尉は、小谷城に撤退したが、その後、元亀3年(1573)に小谷城も陥落した。
三田村氏は織田軍団の総攻撃を目前にして、羽柴秀吉を通じて信長に全面降伏を申し出たが、聞き入れられず三田村氏とその一族77名は打ち首になった。
『「現地説明板」、「小谷城跡・戦国ガイドステーション三代の里パンフレットより』

現況

三田村城は、ほぼ60m四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁の高さは2mから3m、幅も平均5m程度ある。北側の土塁の一部は近代になって破壊されたが、西側には館の入口にあたる虎口が良好に残り、その前には堀跡が畑となっており旧状をしのぶことができる。また、四角い主郭の北側にも、鍵形に土塁が存在し、複数の郭からなる城館であったことが類推される。
長浜市教育委員会による平成17年度・18年度の発掘調査により、西側土塁に平行する南北2本の溝が確認され、土塁が2時期に分かれて築造されたことが分かった。上部(新層)からは15世紀から16世紀前葉頃の土師器を中心とした遺物が出土し、戦国時代に至り館の防御性を高めるため、土塁を高くしたことが明らかとなっている。姉川合戦に際して、朝倉景健の本陣として使用されたとも考えられ、上部の土塁はその時盛られたものかもしれない。
平成19年7月26日、「北近江城館跡群」の一つとして国指定史跡となった。
『現地説明板より』

登城記・感想等

姉川の古戦場北側の集落三田にある伝正寺が三田村城跡である。
訪問前は、町の中にある寺院でもあり、ほとんど期待していなかったが、北側を除いてかなりの規模の土塁が良好に残っているのが嬉しい。
決して有名な城館でもないと私は思うのだが、多くの方が、この城館について調べられているようで、資料や案内等も充実している。これも「姉川の合戦」の地であることによるものでしょうか?
(2012/05/19訪れて)

ギャラリー

西側虎口
三田村城跡に建つ伝正寺の西側には虎口があり、両側には土塁が続いている。虎口手前には姉川合戦と三田村城についての説明板が設置されている。虎口北側の土塁上には鐘楼が建っているが、ここには櫓が建てられていたようだ。また、土塁の手前には堀があったようだが・・・。
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南面から南西部にかけての土塁
城館跡をめぐる土塁は、なかなか立派なもので、高さ約2m、幅約5mほどあり、北側の一部を除いて良好に残っている。
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南面から西面にかけての土塁と南側虎口
南面の土塁中央には虎口跡らしい切れ目があるが・・・?
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石碑
南西部の土塁前には「三田村氏有縁の碑」と刻まれた石碑が立っている。
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【姉川合戦跡】
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姉川合戦布陣図
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石碑
三田村城跡の南方約200mを通る県道271号線沿いに「姉川古戦場」の碑が建てられている。
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(血原公園)
三田町では、戦場に散った敵味方の兵士への鎮魂を込めて「血原公園」として整備している。
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血原公園に立つ石碑
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姉川
姉川は、今では流れる水も少なく、悲惨な合戦があったとは想像もできないほど穏やかな風景だ。正面奥の山が横山城址。
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