近江 小谷城(湖北町)

大広間、奥の方に本丸石垣

浅井長政とお市の悲劇の城

所在地

滋賀県東浅井郡湖北町伊部

形状

山城(標高495.1m、比高230m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:本丸・大広間・桜馬場・中丸・京極丸・山王丸などの曲輪跡、石垣、土塁、空堀、馬洗池、刀洗池、石碑、説明板ほか

満足度

★★★★★

歴史等

浅井氏の出自は諸説あるが、通説では嘉吉元年(1441)赤松満祐が足利6代将軍義教を謀殺した嘉吉の乱の際に、 三条公綱が勅勘によって近江に配流され、蟄居中に一子を生ませた。この子重政が長じて、郡名から浅井氏を称するようになったと云われる。
史料的に明確になってくるのは、数代を経た亮政からである。当時、近江の北部は京極氏、南は六角氏が支配していた。 亮政は京極氏に仕えていたが、継嗣問題で家内が2つに分裂した際に、一方を担いでクーデターを起こし、事実上京極氏を乗っ取り、 小谷城を築いて居城とし、戦国大名として伸し上がった。
しかし、次の久政は凡庸で当主の器がなく、 朝倉氏と結びつつも、六角氏の圧力に屈し、領地を守るのも危うくなってきた。 これに危機感を募らせた浅井家臣団は久政の隠居を促し、その嫡子・賢政(長政に改名)に家督を譲らせた。長政は、 わずか19歳で六角氏を打ち破り、さらに肥田城、佐和山城など愛知川付近の城々を陥れ、 これを服従させ家臣化していった。尤も、これは、長政の器量をきわだたせるために、「浅井三代記」 に久政を暗愚な武将として書かれているようである。
しかし、尾張ではすでに織田信長が大きな成長を始めていた。信長は美濃の斎藤氏を挟撃するために、浅井氏との同盟を求め、 妹お市を長政に娶らせた。
信長は瞬く間に畿内に勢力を広げ、さらに元亀元年(1570)4月、祖父亮政以来長らく同盟関係を築いてきた越前の朝倉氏を、 長政に無断で攻めた為、浅井家臣団は信長に不信を抱いてしまった。長政自身は強大な信長に敵対するのを良しとしなかったようだが、 やむなく信長に反旗を翻し、朝倉氏攻撃中の信長の後方を断った。しかし通説によるこの行動は、朝倉氏への恩義からのみとられたものではなく、 長政なりに覇を唱える好機と踏んだ行動でもあったようだ。
この時信長は大変な苦境に立たされ撤兵するが、態勢を立て直して、元亀元年(1570)6月姉川の合戦におよび、織田・徳川連合軍は浅井・ 朝倉軍を敗走させ、長政は小谷城に立て籠もった。小谷城は、浅井氏3代にわたる成長の中で、修築が加えられ益々堅城ぶりを増していた。
信長は、小谷城を攻略するため、羽柴秀吉に横山城を築かせて小谷城の監視に当たらせた。この包囲合戦は3年の長期に渡ったが、 周囲の砦が次々と落ち、さらに天正元年(1573)8月20日、信長により、朝倉氏の本城である一乗谷城が落城、 朝倉氏が滅亡させられた。
信長は小谷城へ取って返し、総攻撃を開始し、8月28日小谷城は落城した。久政・長政親子は自刃し、浅井氏は3代で滅亡した。
小谷城には秀吉が入ったが、秀吉は小谷城を捨て、その資材をもって平地に長浜城を築いた。
また長浜城はのちに彦根城築城の際に利用された。 現在の彦根城西の丸三重櫓は、 長浜城へ移築された小谷城の天守と云われている。
『「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典 (主婦と生活社刊)」参照』

日本五大山城

標高400mを超える小谷山にあったこの城は典型的な山城であり、江戸時代以降も存続していた山城の代表格「日本3大山城」に対し、 戦国期にその役割を終えた山城を選りすぐった「日本五大山城」の一つにも数えられています。
日本5大山城
  月山富田城
  七尾城
  越後春日山城
  小谷城
  観音寺城
*小谷城に代わり八王子城を入れる場合もある。

訪城日

1989/11/12
2006/11/24

現況・登城記・感想等

湖北旅行で紅葉を見に行った時に、信長の妹・お市が嫁いだ浅井長政の城跡でもあるし、 ちょっと寄って見ようかという位の感じで登城した。
夕方近かったせいもあり、城址そのものより、車で登って行く道端の紅葉が夕日を浴びて何とも云えず綺麗だったのを憶えている。
当時(1989/11/12)は城址の知識は勿論のこと興味もあまりなく、空堀や土塁等々の存在にもほとんど気づかなかった。 案内板に曲輪跡等の説明があっても特に気にしなかった。ましてや、三大山城に上げられるような城とは思っても見なかった。
遺構がかなり残っているようであるし、当時とは違う現在の目で再登城したい。
(1989/11/12に登城して)

久し振りに小谷城へ登城した。前回の登城の時も紅葉真っ盛り、今回も素晴らしい紅葉を見ることが出来た。山麓の大手道の脇に 「熊出没注意」の看板があったので、ドキッとしたが構わず登城。尤も、この大手道は進入禁止となっているし、 もっと上まで車で登ってからの登城になる。前回は、金吾丸しか行っていないが、今回は出丸も含め全部の遺構を周りたい。
出丸へ寄ったあと、金吾丸下のところまで車で登り、さあ登城。熊がちょっと気になる。今回も金吾丸へ寄ってから、頂上の山王丸へと向かう。 いきなり、番所跡、御茶屋跡、御馬屋跡へと出る。御馬屋は土塁に囲まれた結構広い曲輪である。そして桜馬場へと出た。 桜馬場は実に紅葉が綺麗であった。桜馬場には「浅井氏及家臣の供養塔」が建っていた。そして、 そこで偶然ボランティアをしているという方に出会い、ここからは説明を受けながらの登城となった。
そして、桜馬場の上の段にある「大広間」に出た。大広間がこの城の日常生活の中心的な場所であったようだ。その奥には本丸の石垣が見える。 本丸へ登ったが、本丸はそれほど広くない。
本丸の奥は、中の丸との大堀切がある。実に見事な堀切である。堀切の下にも石垣がある。これは非常に珍しいものである。
また、堀切の下に、「お局屋敷跡」が見える。暗くて狭い曲輪である。少なくとも、お市さんは住んではいなかったであろう。尤も、 浅井家と織田家が険悪になってからは閉じ込められていたかも・・。
次に、堀切を渡り中の丸へと出る。中の丸は3段になっているとのことである。まるで、ゴルフ場のティーグラウンドみたいに見える。
その上にある京極丸は4段になっている。藤吉郎はこの京極丸を乗っ取り、長政と久政を分断した。三方が要害になっている小谷城である、 当然攻めて来るなら大手からと踏んでいたであろう。まさか京極丸から攻められるとは、浅井氏にとっては想定だにしなかったのでは?
次に、浅井久政が自刃した小丸跡へと登る。
そして一番上の山王丸へ。山王丸の正面には崩れかけた石垣が見える。また、脇に回ると、結構立派な石垣が残っている。 これらの石垣は角が丸く、この山の石ではないであろうとのことである。山王丸は2段になっている。一番上の曲輪はあまり広くない。 ここからは小谷城の前身の城・大嶽城が目の前に見え、行くことが出来るようであるが、今回は止めた。
歴史小説等々によると、小谷城は落城するときに炎上したことになっているが、ボランティアの方によると発掘調査で、 礎石等々焼かれた跡がなく炎上しなかったのではとのことである。その故か、遺構がかなりよく残っている。
(2006/11/24登城して)

ギャラリー

小谷城案内絵図         ~クリックにて拡大画面に~


小谷城全景
中央奥の山は、 小谷城の前身の城・大嶽城、右手前の山が小谷城

小谷城大手登城口と大手道
いきなり 「熊出没注意」の看板にドキッ!
 

出丸
出丸には土塁が残っており、 その向こう下には小さな削平地がある。

駐車場所からの眺望
右の山が山本山城、 左の島は竹生島。山本山城は浅井氏家臣阿閉氏の居城となっていた。しかし阿閉氏は衰退する浅井氏を見限って寝返り、それをキッカケに浅井・ 朝倉両氏は滅んだ

金吾丸とそこからの眺望
金吾丸からは、 伊吹山方面も琵琶湖方面もよく見渡せる。
 

㊧番所跡、 ㊨お茶屋跡
 

㊧御馬屋跡と㊨馬洗池
御馬屋跡とされているが、ボランティアの方の話によると、 上の御茶屋跡も含めてかなりの立場の人が住んでいた曲輪跡なのではとのことである。
 

㊧首据石、㊨赤尾屋敷跡の「浅井長政自刃の地」 の碑
この首据石の上に罪人の首をさらしたという。天文2年(1523)1月初代浅井亮政は六角氏との合戦の際、 家臣今井秀信が敵方に内通していたことを知り、謀殺しここにさらしたという。首据石の奥が赤尾屋敷への道となっている。 赤尾屋敷は浅井長政が自刃したところで「浅井長政自刃の地」の碑がある。
 

桜馬場               ~クリックにて拡大画面に~
実にきれいな紅葉であった。 写真右の方に「浅井氏及家臣の供養塔」が

㊧「浅井氏及家臣の供養塔」、 ㊨大広間への虎口
 

大広間               ~クリックにて拡大画面に~
この城最も広い曲輪であり、 日常生活の中心的な場所であったようだ。奥に本丸石垣が見える。

本丸石垣             ~クリックにて拡大画面に~
石垣の下部分が埋められているが、 石垣が崩れるのを防ぐ為とのことである。

本丸
本丸から大広間方面を。 本丸はあまり広くない。

㊧本丸と中の丸との間の大堀切、 ㊨大堀切脇下の石垣
大堀切は実に幅が広く、深さもかなりのものである。また、その脇下には石垣が残っており、 通り道として使われていたのではとのこと。
 

お局屋敷跡
㊧堀切底から下に見えるお局屋敷跡、 ㊨屋敷跡に建つ石碑とその向こうには崖を隔てて大嶽城が見える
 

中の丸跡
中の丸の紅葉も見事であった。

3段になった中の丸
中の丸は3段になっている。まるで、ゴルフ場のティーグラウンドみたいに見える。
 

中の丸に残る刀洗池
小谷城は山城にもかかわらず水はかなり豊富だったようである。 この池も刀洗池となっているが、飲み水であったようである。

㊧京極丸、 ㊨京極丸の土塁
京極丸は4段になっている。京極丸は、大永4年(1524)亮政が主君・京極高清・ 高延父子を迎えた処と案内板にあるが、ボランティアの方の話によると、当時はまだ小谷城は出来ていず、 大嶽城に迎えているのではとのことである。天正元年(1573)8月27日夜半、 この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て侵入してきた木下藤吉郎の軍勢によって占拠され小丸の久政と本丸の長政との連絡を絶たれた。 三方が要害になっている小谷城である、当然攻めて来るなら大手からと踏んでいたであろう。まさか京極丸から攻められるとは、 浅井氏にとっては想定だにしなかったのでは?
 

小丸跡
小丸は、 2代城主久政の隠居後の居所で、久政自刃の地である。

㊧山王丸正面の石垣、㊨山王丸最上段(奥に石垣が残る)
 

山王丸石垣
山王丸の右側に残る。 この石垣はかなりよく残っている。また、この石垣は角が丸く、この山の石ではないであろうとのことである。
山王丸は、山王権現(現小谷神社)の祀ってあったところで、海抜395mの高所にあり、詰の丸と思われる。

山王丸から目の前に見える小谷城前身の城・ 大嶽城

姉川の合戦場跡(遠くに見える山が小谷城址)

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