近江 彦根城(彦根市)

井伊家15代270年の居城、国宝現存天守が残る

別名

金亀城

所在地

滋賀県彦根市金亀町

形状

平山城

現状・遺構

遺構:本丸跡に天守(国宝・三層三階の層塔型)、太鼓門・続櫓、西の丸三重櫓、天秤櫓、廊下橋、二の丸佐和口多聞櫓、二の丸厩長屋、 二の丸跡に玄宮園、楽楽園(槻御殿)、表門口に表御門(復元)、石垣、水堀(完存)

満足度(10点満点)

8点

訪城日

1990/05/05他

歴史等

関ヶ原合戦の後、徳川家康は若狭・近江・伊賀・ 伊勢という日本海側と太平洋側を結ぶ日本を東西に分けるラインに信頼できる大名を配して、大坂城に拠る豊臣方に備えて防衛線を構築した。             中でも、琵琶湖は京と日本海側を結ぶ重要な水路であり、琵琶湖の東は、北国街道、中山道、 東海道が合流して京に入る重要な交通の要衝であった。そこで家康は、 最も勇猛で忠実な家臣である徳川四天王の一人井伊直政を近江北東部に封じた。
直政は、とりあえず石田三成の居城であった佐和山城に入城したが、 城を修築しないで新しい場所に新城を築くことにした。当初は湖岸に近い磯山(米原市磯)の予定だったらしい。
しかし、直政は関ヶ原合戦での傷が悪化して慶長7年(1602)死去してしまった為、実際の築城は嫡男の直継(のちに直勝) によって行われた。尚、直継は病弱を理由に、元和元年(1615)3万石を分知され、上野安中に移り、 庶弟直孝があとを継いだ。
城地は再考の結果、佐和山城のすぐ北東にある彦根山 (金亀山ともいった)となった。家康は7ヶ国12大名に助役普請を命じ、慶長8年(1603)から元和8年(1622) まで20年を費やして完成した。この時、佐和山城大津城長浜城など近隣の城の遺材を転用した。 天守は4層の大津城天守を3層に縮めて移築したといわれている。
井伊家は直政以来、譜代大名筆頭の家柄をほこり、幕閣の最高位執権・大老につく者が5代におよんでいる。
幕末には、安政5年(1856)大老となり、反対派の大名・志士を弾圧逮捕(安政の大獄)し、万延元年(1860)江戸城桜田門外で暗殺された15代藩主井伊直弼が登場する。
直弼のあとには、直憲が16代を継ぎ、藩政を刷新すべく、安政の大獄を画策した長野主膳らを処刑した。
慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いには、最初から薩摩・長州側に与し、幕府軍と戦い、関東から奥羽へ転戦した。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「大名の日本地図」等参照』

現況・登城記・感想等

(どうでもいいことだが)どうも彦根城というと、井伊直弼が思い浮かび好きではない。
そういう意識があるせいか、また当時(1990/05/05)は城に今ほどの興味も無かったせいか、国宝ではあるが、 私にはあまり優美さを感じなかった。尤も、今考えてみると、4層の大津城天守を3層に縮めて移築したので、 全くの素人の私が見ても、不自然な感じがしたのかもしれないとも思う。
ただ、庭はなかなかのもので、特に梅林は、その季節に来たらいいだろうなと思った。
次回は、変な先入観なしで素直な気持ちで、歴史的文化資産をじっくり見て回ろう。
(1950/05/05登城して)

ギャラリー

廊下橋天秤櫓
彦根城廊下橋天秤櫓

天守閣
彦根城天守閣

天守閣からの眺望(琵琶湖方面)
彦根城天守からの眺望

彦根城遠景(佐和山城へ登城したついでに)

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