淡路 洲本城(洲本市)

本丸南側の高石垣

三熊山山頂の中世山城と山麓の近世平城の2つが残る城

別名

三熊城

所在地

(山下)兵庫県洲本市山手1丁目(大浜公園を目当てに)
(山上)兵庫県洲本市小路谷
山城へは(車でも登れるが)、大浜公園前のホテルアレックス脇の三熊山登山道を登っていく。

形状

山城(比高130m)&平城

現状・遺構等

現状:城址公園(山林)&市街地
遺構等:展望台(模擬天守)、曲輪、石垣、石段、櫓跡、水堀、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2007/04/30

歴史等

永正年間(1500年代初頭)由良・炬口に進出して来た紀州熊野水軍の安宅一族が大阪湾制御の要として洲本城を築き始めた。
天文5年(1536)阿波国守護三好元長の三男冬康が淡路安宅氏の養子となり、三好氏の上京作戦の布石とした。そして、三好四兄弟(長慶、 義賢、冬康、一存)は、天下制圧の打ち合せ(洲本会議)を、天文23年(1554)と永録三年(1560)の2回にわたって行った。
次に、永録7年(1564)安宅冬康が河内飯盛城で兄長慶に暗殺された。冬康死後は、安宅信康、さらには清康に受け継がれた。
天正9年(1581)11月織田信長の命により羽柴秀吉の淡路征討があり、安宅清康は開城して信長を安土に訪れたが、 帰国後病死し、淡路安宅氏は滅亡した。
天正10年(1582)四国の長宗我部氏が畿内進出を計り、淡路土着の水軍の将菅平衛門に洲本城を占領させたが、 同年6月山崎の合戦に向かう秀吉は、部将の仙石秀久等を洲本に差し向け、洲本城を奪還させ、8月には仙石秀久を洲本城主とした。 秀久は四国攻めの準備で洲本城を修築、水軍を強化し始めた。
天正13年(1585)秀吉の四国攻めが始まり、弟秀長、養子秀次が戦闘指揮をとり、6月18日洲本城より出陣した。 仙石秀久は讃岐で奮戦し、戦後高松城主となった。
代って11月、脇坂安治が洲本城主となり、この時、洲本城の本格的な修築がはじまった。 現在の遺構は殆どが脇坂氏在城中に修築したものである。脇坂安治は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍へ寝返り家康側で奮戦し、 慶長14年(1609)伊予大洲5万3000石に移封となった。
関ヶ原の戦い以降の家康にとっては、洲本城は不必要な城となった。むしろ廃城にすべき城であった。そこでこの城を腹心の藤堂高虎に預け、 普請を中断放置せしめた。
慶長16年(1610)姫路城の池田輝政に淡路を領知せしめ、 輝政は3男忠雄の領地とした。忠雄は由良城山城を修築し、洲本城を廃城とした。
元和元年(1615)、池田忠雄は兄忠継の養子となって備前岡山城主となり、 淡路は大坂の陣の功により、阿波徳島城主の蜂須賀至鎮に加増された。 寛永8年(1631)由良は淡路の東南隅にあり、土地も矮小で城下の経営も出来ないことを理由に、前年幕府に申請して承認され、 洲本の地に城地を移転するようになった。移転作業は、寛永12年(1635)まで続いた。山上の城郭は使用せず、山裾に居館、 石垣をを設けて城郭としたが、「お城」の呼称をせず「お居館」と呼ばせた。
洲本城代には、江戸時代を通じて、代々稲田氏が城代を務めた。
『現地説明板参照』

現況・登城記・感想等

洲本城は、三熊山山麓の平城と、山上の山城がある。
山城へは(車でも登れるが)、大浜公園前のホテルアレックス脇の三熊山登山道を登っていく。道はよく整備され、且つ広いが、 脇の崖は今では原生林になってはいるが、多分人の手も加えられているのであろう、相当な急崖になっているのが、 山城らしい雰囲気を醸し出している。途中、削平地や石垣にも出会う。
山頂の本丸へは、搦手口から入城する。その搦手口と石段やその周りの石垣の調和がなかなか良く見入ってしまった。
しかし、この城の最大の見所は、総石垣造りの本丸・南の丸等の曲輪であろう。特に、本丸南側の虎口と大石段、本丸西側の高石垣は素晴らしい。
天守台上には、天守閣風の展望台が建てられている。昭和3年(1928)に昭和天皇の即位式を記念して建てられたもので、 日本最古の模擬天守だそうだが如何にもチャチだ。しかも、この展望台、結構景色が見づらい。かえって、 展望台に続く櫓台跡からの方が眺望が拡がり、眼下に洲本の町並みや淡路の海岸線、そして大阪湾等を一望でき素晴らしい。
西の丸は、本丸からは3~400mも離れた所にあり、「うばめがし園」となっているが、かなりの広さである。
山麓の平城跡は、裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化資料館等になっており、資料館前に水堀が残り、石碑や説明板が設置されている。先に、 酷評した模擬天守であるが、ここから眺めるとなかなか様になっているのも事実である。
(2007/04/30登城して)

ギャラリー

【山城】

㊧登城口(三熊山登山口)と㊨急崖
大浜公園前のホテルアレックス脇の三熊山登山道を登っていく。道はよく整備され、且つ広いが、 脇の崖は今では原生林になってはいるが、多分人の手も加えられているのであろう、相当な急崖になっているのが、 山城らしい雰囲気を醸し出している。
 

途中で見かける石垣
 

搦め手口
山頂の本丸へは、搦手口から入城する。 その搦手口と石段やその周りの石垣の調和がなかなか良く見入ってしまった。
 

搦め手(北側)虎口&模擬天守(展望台)   ~クリックにて拡大画面に~
天守台上には、天守閣風の展望台が建てられている。昭和3年(1928) に昭和天皇の即位式を記念して建てられたもので、日本最古の模擬天守だそうだが如何にもチャチだ。しかも、この展望台、結構景色が見づらい。

本丸南側虎口            ~クリックにて拡大画面に~
この城の最大の見所は、総石垣造りの本丸・南の丸等の曲輪であろう。特に、本丸南側の虎口と大石段、 本丸西側の高石垣は素晴らしい。

本丸への大石段(本丸南側)        ~クリックにて拡大画面に~

本丸南側の高石垣          ~クリックにて拡大画面に~

㊧南の丸と㊨南の丸石垣
 

西の丸
西の丸は、本丸からは3~400mも離れた所にあり、今は「うばめがし園」となっているが、 かなりの広さである。


【平城】
㊧平城跡と石碑と、㊨その石垣・堀と山上に模擬天守
山麓の平城跡は、裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化資料館等になっており、資料館前に水堀が残っており、 石碑や説明板がある。
 

山城遠景
先に、酷評した模擬天守であるが、ここから眺めるとなかなか様になっているのも事実である。

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