阿波 徳島城(徳島市)

大手門へ続く下乗橋

蜂須賀正勝(小六)の子家政が大修築、蜂須賀氏16代300年の居城

別名

渭山城(いのやまじょう)、渭津城(いのつじょう)

所在地

徳島県徳島市徳島町城内

形状

平山城・平城の二城式平山城

現状・遺構等

現状:徳島中央公園
遺構等:曲輪、石垣、堀、庭園、鷲の門(復元)、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2002/03/08

歴史等

室町幕府の管領・細川頼之は、南北朝期の元中2年(1385)当地を訪れ、山河の織りなす景観に深く感じ入り、 水墨画に描かれた中国の渭水の風景そのものだとして渭津(いのつ)と名付けたと伝えられる。そして、 その要害の地である渭津の地に山城を築き、家臣を配置して守備にあたらせた。これが徳島城のはじまりと云われる。
以後、渭津城は、勝端城(板野町)や阿波一宮城とともに、 細川氏による阿波国統治の拠点として重要視された。
天文21年(1552)、細川持隆を謀殺した三好義賢は、永禄年間(1558~69)に秋月城(現阿波市秋月)の城主森氏に城を預けた。
天正10年(1582)土佐から侵入した長宗我部元親が攻略し、吉田康俊を城番に置いたが、同13年(1585) 豊臣秀吉の四国征討で城を無血開城した。
四国征伐をなしとげた豊臣秀吉は、軍功により阿波17万5千石を蜂須賀正勝(小六)に与えたが、正勝は高齢を理由に子の家政に譲った。当初、 家政は阿波一宮城に入ったが城下町を経営するには不向なので、 交通の便利な今の城山を中心に、山上にあった渭山城と麓の寺島城を取り込む形で築城し、阿波を治める拠点とした。そして、 この地を徳島と改め、城の名を徳島城とした。
その後、関ヶ原合戦・大阪の陣で徳川方に属した家政は、阿波を安堵され、以後、蜂須賀家が居城し、16代300年で明治維新を迎えた。
藩祖・蜂須賀家政は永禄元年(1558)戦国の戦いの続く慌しい時、宮後村(現在の愛知県江南市)で生まれ、13歳の時、 早くも父正勝に従って姉川の戦いに出陣し、その後、父とともに各地に転戦した。秀吉の四国征伐の時も、 父とともに龍野から海を渡って高松城 (喜岡城)を攻め、大坂越えをして阿波へ攻め入り、家政は脇城・岩倉城を、正勝は阿波一宮城を攻め落した。
『「パンフレット」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」、「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

結構大掛かりな石垣が残っているわりには、石垣自体が無骨で、あまり綺麗とは云えないせいか、印象が薄い。
ただ、下乗橋から入城するところの石垣と堀、本丸跡に建っている護国神社本殿裏の本丸虎口の石垣は良かった。 それと本丸跡へ登って行く途中の石垣が何ヶ所か崩れそうになっていたのが気になった。麓にある庭園などはよく整備されている。
(2002/03/08に登城して)

ギャラリー

三の丸石垣と水堀

下乗橋

三の丸大手門跡

鷲の門
徳島城の南東に位置する表口見付の門で、脇戸付きの薬医門。 幕府に鷲を飼う旨申し立て建造したことから鷲の門の名が付いたと伝えられている。廃藩置県後、建造物で唯一残されたが、 1945年7月4日の徳島大空襲で消失した。1989年徳島市制100周年を記念して個人から復元寄贈された。

蜂須賀家政銅像

本丸石垣と東門跡(実に無骨な石垣である)

本丸跡(護国神社)

本丸西門跡と弓櫓石垣

阿波踊り会館にて
 

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