復元された天守
宇喜多秀家により大修築、関が原合戦後に小早川秀秋が入るも無嗣断絶
別名
烏城(うじょう)、金烏城
所在地
岡山県岡山市丸の内
形状
平山城
現状・遺構等
表書院跡に月見櫓(現存)、本丸と下の段帯曲輪一帯の石垣と内堀が完存、西の丸跡(小学校敷地)西端に西手櫓(現存)、天守 (5層6階)・塩蔵・不明門・廊下門・六十一雁木上門が復元
満足度
★★★★★
訪城日
1996/08/17
歴史等
正平年間(1346~69)、上神高直の創築といわれる。
元亀元年宇喜多直家は石山城主・金光宗高を謀殺し、天正元年(1573)石山城に移り、石山を中心に2~3の小曲輪を配し、
西北部の三の曲輪北部に2つの曲輪、その東南部に新しい曲輪を設けた。
その子・秀家は天正18年(1590)から慶長2年(1597)にかけて城を大改修した。城域は大幅に拡張され、
石山の東の岡山に新本丸を設け、天守を築造し岡山城と改称した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で宇喜多家は改易され、代わって小早川秀秋が入封したが、同7年(1602)無嗣断絶となった。
翌8年(1603)、姫路城主・
池田輝政の子の池田忠継が就封した。幼少のため兄の利隆が後見となり、西の丸帯曲輪を増修築した。元和元年(1615)忠継が病死し、
弟の忠雄が襲封した。寛永9年(1632)忠雄が没し、長子の光仲(三歳)が家督を継いだが、幼少のため鳥取城主・
池田光政と領地替えとなり、以後池田氏が10代237年在城し明治を迎えた。
天守は、昭和6年に国宝に指定されたが、第二次世界大戦による昭和20年(1945)6月29日の空襲で焼失し、
今は現存建築物は月見櫓を残すだけとなった。昭和41年(1966)に、天守閣、不明門、廊下門、六十一雁木上門、
周囲の塀などが復元された。鉄筋コンクリート造りではあるが、外観は旧来の通り復元されている。
『参照:日本城郭大辞典(新人物往来社刊)、現地説明板』
現況・登城記・感想等
多くの書物によると、岡山城は姫路の白亜の白鷺城に対して、烏城(うじょう)と称せられ美しさを競ったとある。
しかし、結構美しい城ではあるとは思うが、形容し難いが、敢えて云うならば、板壁の真っ黒な色といい、烏が羽を広げたような形
(確かに烏城である)といい、私には何とも奇妙な感じがする。尤も、決して嫌いではなく、非常に好きな城の一つであるし、印象も深い。また、
旭川の向こう岸にある「後楽園」も素晴らしい庭園であり、私は日本三大庭園の中でも一番好きである。またこの公園から見える城も素晴らしい。
(1996/08/17登城して)
ギャラリー
開祖宇喜多氏顕彰の碑と岡山城
月見櫓
月見櫓は、北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主であったときの城郭整備に伴い、
元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されている。
構造:一部地下付きの塗籠造り、本瓦葺き二階建
旭川から見た岡山城
後楽園から見た岡山城①
後楽園から見た岡山城②