武蔵 江戸城(千代田区)

太田道灌が築城、徳川15代が居城

別名

千代田城

所在地

東京都千代田区千代田

形状

平城

現状・遺構

現況:皇居・市街地
遺構:曲輪跡(本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸)、天守台、石垣、土塁、櫓(富士見櫓・数寄屋多聞・伏見櫓・桜田巽櫓が現存)、城門 (大手門・平川門・清水門・田安門・外桜田門など12門)、堀(道灌堀・平川堀・大手堀・桜田堀・千鳥ケ淵など内堀・ 中堀はよく残っているが、外堀「総堀」はほとんど埋め立てられ、市ヶ谷・飯田橋あたりに一部が残る)

満足度(10点満点)

9点

歴史等

江戸の地に最初に根拠地を置いた武士は平安時代末期から鎌倉時代初期の江戸重継で、のちの江戸本丸・二の丸あたりに居館を置いた。
江戸氏が15世紀の関東の騒乱で没落すると、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の命で同家の執事太田道灌が江戸城を築城した。 その後は道灌が城代をつとめるが、文明18年(1486)道灌は主家の上杉定正により誘殺される。
永正2年(1505)には上杉朝良が入城し、大永4年(1524)に北条氏綱により陥落するまで扇谷上杉氏の本拠となる。 北条氏は遠山氏を城代として江戸城を守らせ、天正18年(1590)には遠山景政の弟川村秀重があったが、豊臣秀吉の小田原攻めの際、 大軍に包囲され開城した。
秀吉に関東八州を与えられた徳川家康が同年8月1日に公式に入城した。 徳川氏の入った当初は太田道灌築城のままの姿を残した比較的小規模な城だったが、文禄元年(1592)から拡張工事に着手し、慶長8年 (1603)に家康が幕府を開くと江戸城の増築に着手し、本丸・二の丸・三の丸(現在の皇居東御苑)に加え、西の丸(皇居)、 西の丸下(皇居外苑)、吹上(皇居吹上御苑)、北の丸(北の丸公園)の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・ 新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削してつくった神田川とを総構えとする大城郭に発展した。
工事には全国の大名が動員された。完成をみたのは家康の孫・家光の代の寛永13年(1636)である。 本丸の天守は小天守と大天守の二段が複合するもので、五層の大天守には金鯱が乗せてあった。元和9年(1623)に完成したが、 明暦3年(1657)の明暦の大火でこの大天守をはじめ本丸・二の丸殿舎などが焼失焼失した。再建のために天守台が築かれたが、 保科正之の工事中止の主張で取りやめとなった。巨大な石垣の天守台はそのままで今も残る。その後も江戸城はたびたび火災を被った。 本丸は文久3年(1863)の火災で焼失したまま再建されず、西の丸に機能を移したまま明治維新を迎えた。
慶応4年(1868)年4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月に東京城に改名。翌明治2年((1869) 東京遷都により皇城となる。明治6年(1873)に西の丸御殿が消失。明治21年(1888)には明治宮殿の完成によって宮城と称された後、 昭和23年(1948)、皇居と改称された。
昭和39年(1964)北の丸に清水門・田安門が復元、昭和42年(1967)大手門が復元。昭和43年(1968) 二の丸跡を小堀遠州の回遊式庭園に復元、この際諏訪の茶屋が吹上御苑より移築される。川越市の喜多院と氷川神社には江戸城の移築建物が残る。 近年、丸の内や霞が関の文部科学省で外堀の石垣が地中より発掘された。
『サイト・「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」参照』

ギャラリー

二重橋
 

天守台
本丸の天守は小天守と大天守の二段が複合するもので、五層の大天守には金鯱が乗せてあった。元和9年(1623)に完成したが、 明暦3年(1657)の明暦の大火でこの大天守をはじめ本丸・二の丸殿舎などが焼失焼失した。再建のために天守台が築かれたが、 保科正之の工事中止の主張で取りやめとなった。
 

天守台の上(内側)から本丸を
 

富士見櫓

㊧巽櫓(手前)、桔梗門(中央)、富士見櫓(奥)、  ㊨巽櫓
 

石室

富士見多聞

松の大廊下跡
元禄14年(1701) 浅野内匠頭長短が吉良上野介に刃傷事件をおこしたところで、障壁画に「松」の絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれた。

本丸

大奥跡

二の丸

大手門
旧江戸城の正門。 諸大名はこの門から登城した。高麗門を入ると、四角に囲われた桝形と呼ばれる広場があり、右奥に重厚な渡櫓門がある。 高い渡櫓門と桝形の構造は安土桃山時代になって発達した城門の型式である。
 

田安門
 

清水門
 

桜田門
昔はこの付近に桜が多かったので、 桜田門といわれるようになった。桜田門外の変で有名である。
 

坂下門

桔梗門

乾門
 

半蔵門
半蔵門の名の由来は,伊賀忍者で有名な服部半蔵の組屋敷があったのでこの名がついたといわれている。


大番所
同心番所大手中之門の内側に設けられ、百人番所、同心番所よりも位の高い与力・ 同心によって整備されていた。

百人番所
大手三の門の上の護り。 鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎馬の四組が交代で詰めていた。各組とも与力20人、同心100人が配属され、 昼夜を問わず警固に当たっていた。

桔梗濠

大手濠


千鳥ケ淵
左側からみる千鳥ケ淵は濠の形が千鳥に屈折しているからとも、 千鳥が羽を広げた形に屈折しているからその名が付いたともいう。ここは桜の名所で有名である。

牛ケ淵

桜田堀
桜田堀の所の吹上曲輪の塁もはじめは総て石垣にする予定であったがあまりの難航工事のため途中で中止となり、 的場曲輪の一部を除いて芝を植えた土塁の上部に鉢巻石垣を巡らした。

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