山城 伏見城(京都市)

伏見城花畑跡に建つ鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣「伏見桃山城」

秀吉の中国征服計画で、明の講和使節を迎える目的で築かれた城

別名

指月城

所在地

京都府京都市伏見区桃山御陵

形状

平山城

現状・遺構等

遺構:一部の建物は二条城や京都の社寺などに移築、 石垣は淀城大阪城の修築に使用。 城門は大手門が伏見区御香宮神社表門や、西本願寺唐門、二尊院総門、上京区観音寺山門など数棟が現存。櫓は福山城伏見櫓と江戸城伏見櫓等が現存。 横浜市中区の三渓園には諸侯控え室が現存。

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

1994/11/05

歴史等

伏見城は、豊臣秀吉の「中国を征服する」という計画の中で、明の講和使節を迎えるセレモニーに相応しい豪華な建物をという目的と、 自らの隠居城として、文禄元年(1592)に宇治川沿いの丘陵である指月山に築城を命じた。築城にあたって、 諸大名には1万石につき200人の賦役を課し、25万人が工事にあたったという。
完成は着工2年後の文禄3年(1594)であるが、文禄5年(1596)の大地震で城郭は破壊された。 秀吉は直ちに旧知よりやや東北寄りの桃山(現在の木幡山)の地に新たに築城し直したが、慶長3年(1598)秀吉はこの城で没してしまった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の緒戦で焼失するや、徳川家康は畿内諸大名を動員、徳川の力を示す城として再建され、 江戸幕府の西国支配の拠点となった。しかし、大坂の陣が終わると、伏見城の役割は大坂城へ移り、幕府にとっての重要性は薄れた。そして、 徳川家康が駿府城を隠居城として築いて移ると、 伏見城の廃止が決定され、元和9年(1623)の徳川家光の将軍宣下を最期に、正式に廃城が決定した。
廃城後は桃の木が植えられ、これが桃山と呼ばれる元となったという。伏見城本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(桃山御陵) とされたため、立ち入りが禁止されているが、1964年、やや離れた伏見城花畑の跡に鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣「伏見桃山城」 が建設された。
廃城後、建造物は各地に移送された。大手門と車寄せは京都の御香宮神社に移築されており、福山城・江戸城にも伏見櫓が、 そして大阪城膳所城、 尼崎城にも櫓が移築されたという。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

典型的な模擬城である。見た目には実に美しい。残念ながら、伏見城本丸跡などの主郭部分は、明治天皇陵(桃山御陵) となっているため立ち入りが禁止されているが模擬天守からは、今は鬱蒼と茂る木々に覆われた伏見城跡を一望出来るのがせめてもの慰めか?
また、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が、2003年1月にスポンサーだった近鉄のリストラの一環として閉園したが、 伏見桃山城は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり、取り壊しを免れたとのこと、まずは目出度し!
(1994/11/05訪城して)

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