国宝「二の丸御殿」
家康が京滞在中の宿所として造営した城、家康と秀頼の会見した城でもある
所在地
京都府京都市中央区二条堀川西入ル
形状
平城
現状・遺構等
遺構:本丸跡の西南隅に天守台、本丸御殿(桂宮殿舎を移築)、本丸櫓門、二の丸跡に二の丸御殿(国宝・唐門、車寄、遠待、式台、 大広間等々)、二の丸庭園(特別名勝)、桃山門、鳴子門、南中仕切門、北中仕切門、東大手門、北大手門、西門(埋門)、隅櫓(東南・ 西南の2基)、石塁、内堀、外堀が完存
満足度
★★★★★
訪城日
1995/09/15
2006/12/22
他
歴史等
「二条城」と呼ばれることのあるものは、複数ある。
①室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。
②織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城。
③織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸。
④徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城。
現存する二条城は、④の城である。
①と②は同じ場所に作られたが連続性がない。
②の二条城と③の二条城は同じものと見る説もあるが
『信長公記』その他の史料を根拠として別のものとする説が通説となっている。①②③について「二条城」
と呼ぶのは④が完成した江戸時代以降のことであり、 ④と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、上洛時の宿所として二条城の築城を決め、慶長6年(1601)から11年(1606)
にかけて西国諸大名に助役普請を命じて築城。
慶長16(1611)に、の二の丸御殿において、徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われるが、このとき家康は秀頼の成長ぶりに驚き、
徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも言われている。
寛永3年(1626)家光が大改修し、城の北西部分の五重の天守は淀城に移築された。
これに代わり、新たに作られた本丸の南西隅には、前年に廃城となった伏見城の天守が移築された。
この天守は寛延3年(1750)に焼失して以来、再建されなかった。
元禄12年(1699)城代を廃止し定番に管理させ、幕府直轄の城として明治を迎える。
『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)より』
ギャラリー
㊧二条城案内図(写真右側が北)、
~現地説明板より~
㊨二条城全景写真(写真左側が北、左奥の森は御所)
地下鉄二条城駅展示写真より
~両写真ともクリックにて拡大画面に~
㊧西南隅櫓、
㊨東南隅櫓
二の丸唐門
本丸御殿(天守台上から撮影)
~クリックにて拡大画面に~
右建物は御常御殿、中央は書院、左は本丸御殿玄関。
中央遠くの山は比叡山
本丸の御常御殿
本丸は、寛永3年
(1626)三代将軍家光により増築したものであったが、天明8年(1788)の大火により焼失した。現在の建物は、
もと京都御所にあった旧桂宮御殿を明治26~27年(1893~94)、ここに移し建てられたものである。この建物は弘化4年(1847)
に建てられたもので、宮御殿の遺構としては完全な形で残っている唯一のもので、重要文化財に指定されている。
天守台
本丸には五層の天守閣がそびえていたが、寛延3年(1750)落雷の為焼失した。
本丸の南西隅にある。
東大手門(堀川通りに面した、入城口)
㊧北大手門、
㊨南門
㊧二の丸から本丸への東橋と櫓門、
㊨本丸虎口
㊧桃山門、
㊨鳴子門
南中仕切門
番所
(東大手門を入ってすぐ右側にある)
徳川将軍不在の二条城中は、二条在番と呼ばれる江戸から派遣された大番組の武士によって警衛の全責任がとらされた。毎年2組(1組50人)
が4月を期して交替し要所要所の番にあたった。この番所はその番士の詰所の一つで、正面(19.6m)、奥行(6.06m)
の細長い建物である。