本能寺の変の時、織田信忠が奮戦・自害した
別名
二条新造御所、二条御所、二条古城、旧二条城
所在地
京都府京都市中京区二条殿町(御池両替上ル、御池室町上ル)
形状
館
現状・遺構
現状:市街地
遺構:石碑
満足度(10点満点)
0点
歴史等
「二条城」と呼ばれることのあるものは、複数ある。
①室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。
②織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城。
③織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子(誠仁親王)に献上した邸。
④徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城。
現存する二条城は、
④の城である。
①と②は同じ場所に作られたが連続性がない。
②の二条城と③の二条城は同じものと見る説もあるが
『信長公記』その他の史料を根拠として別のものとする説が通説となっている。①②③について「二条城」
と呼ぶのは④が完成した江戸時代以降のことであり、④と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれたりする。
この二条城は、③に相当するもので、「二条殿」「二条新造御所」或いは「二条御所」等と呼ばれたりする。
天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲った(本能寺の変)。
この時、信長の嫡子信忠は妙覚寺に泊まっており、本能寺 が襲われているのを知り、救援に向かったが、明智の軍勢に阻まれた。そこで、
信忠は防御力の全くない妙覚寺を出て隣接するこの二条御所に移った。二条御所でも、誠仁親王を退去させた後に両軍は戦闘を開始し、
激闘の末に信忠は自害し、二条御所は炎上してしまった。
『参考サイト:「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」、「城郭図鑑http://joe.ifdef.jp/kyoto/002nijyo.htm』
現況・登城記・感想等
私は、最初に京都へ転勤した時、この近辺に住んでいた。今回掲載するにあたっては、当時の同僚増っさんに写真を撮ってきてもらった。
二条殿跡は京都市街の中心地にあり、当然のことながら、石碑を除き往時の面影は全くない。とても、
本能寺の変の時に信忠が奮戦していたことなど想像することさえ難しい。
ギャラリー
二条殿址の碑(御池両替通上ル)
マンガミュージアム(旧龍池小学校跡)の前にある。
二条殿御池跡の碑(御池室町通上ル)