東出丸(右上)へ続く大手道
秀吉の朝鮮出兵への前線基地、突如現れ、消え去った城
所在地
佐賀県唐津市鎮西町名護屋、名護屋城跡公園
形状
平山城(標高88.8m)
現状・遺構
現状:名護屋城跡公園
遺構等:石垣、天守台、空堀、井戸跡、曲輪跡、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
1995/11/24
2007/01/02
歴史等
天正年間にほぼ国内を統一した秀吉は、次に中国明(みん)を征服せんと文禄元年(1592)、慶長2年(1597)
の二度にわたって大軍を朝鮮に派遣した。いわゆる文禄の役・慶長の役である。
その際、朝鮮渡航軍の出撃基地として築いたのが名護屋城である。もとは、松浦党波多三河守親(ちかし)の家臣名古屋越前守経述の居城
(柿添城)であった所を高い石垣を用いて大きく改造した。建設狂とまでいわれた秀吉はとてつもない本営構築を行った。
呼子の港をとりかこむ形で、名護屋の半島には、桃山芸術の粋と技法を駆使した城郭を中心に、全国の大名の陣営120ケ所が建設された。
本営名護屋城は、加藤清正、小西行長、黒田長政らの設計・監督のもと、九州諸大名を動員して5ヶ月足らずでいちおう完成を見たといわれる。
全域14万4,700㎡におよぶ壮大なもので、当時としては大坂城に次ぐ規模であった。
標高90mの本丸には5層の天守、二層櫓が10基以上あがった。そして本丸を中心に、その西に二の丸、東に三の丸、その他、山里丸、山下丸、
弾正丸などいくつかの曲輪を組合わせられ、城門(5ヶ所あった)の前方には市場と町屋がつづいた。この城とその周辺に7ヶ年にわたって、
在陣約10万、渡航約20万、計約30万におよぶ軍勢が終結した。軍勢約30万人とこれに関わる人々を合計すると、
実に京に次ぐ日本第二の人口を有する都市が出現したことになる。
そして、慶長3年(1598)秀吉の死とともに出兵は中止され、城は無用の長物と化した。その後、唐津の寺沢広高が名護屋城の諸櫓・
諸門を唐津城へ、
仙台の伊達政宗が大手門を仙台城へ、
平戸の松浦鎮信が城瓦を平戸城へとそれぞれ移し、
さらに寛永14・15年(1637・38)の島原の乱のあと、松平信綱の命令で城は破却された。
『日本100の城(日本交通公社刊)、日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)参照』
現況・登城記・感想等
さすが秀吉の築城、想像以上の壮大さにびっくり。登城するまでは、朝鮮出兵用の臨時の基地ぐらいに考えていたが、
とてもとてもそんなものではなかった。小田原征伐の時の石垣山城も本格的な城であるが、
この名護屋城は、その時よりもさらに権力を持った時のものであるだけに、さらに規模が大きい。
そこらじゅうに石垣やその崩れた石が残っており、初めて安土城址を訪れた時と同じような感慨
(ときめきと言ってもいいかもしれない)にひたりながら回った。
また、本丸跡にある天守台からの眺望も素晴らしく、玄界灘に浮かぶ小さな島々と共に、遠くには壱岐の島まで眺めることが出来る。秀吉は、
さらにその向こうにある朝鮮半島を見据えて眺めていたのだろうななどと妄想にふけってしまった(尤も、
秀吉の朝鮮出兵も妄想のなせる業であったと思うが)。
当日は、時間がなく名護屋城博物館へも寄れなかったし、また、最近さらに整備されたようでもあるし、是非、再登城しようと思う。
(1995/11/24登城して)
16年ぶりの登城である。まずは、登城の前に呼子のイカを食べてからということで昼食を。1月で、「槍イカ」でなく「あおりイカ(水イカ)」
となったが、やはり美味い。
名護屋城址は、前回の登城時と違い、かなり発掘が進んでおり、復元も進んでいた。
今回も秀吉の絶対的な権力を想い浮かべながらの登城であった。
名護屋城は、本丸・二の丸・三の丸・弾正丸・山里丸の5主郭に、腰曲輪など大小11の附属曲輪から成っているが、
5主郭だけでなく他の曲輪もかなり大きく、またそれぞれの石垣群も大変なものである。
残念ながら、今回も天候は曇りで、壱岐や対馬までは見えなかった。しかし、名護屋城址を充分堪能した登城であった。
それにしてもスゴイ!
(2007/01/02登城して)
ギャラリー
名護屋城縄張り
三の丸東面石垣と大手口櫓台跡
駐車場に車を置き登城すると、三の丸東面手前に大手口入口の櫓台の石垣が見えてくる。
大手口
手前は大手口脇の櫓跡。
奥には東出丸へ続く大手道。
東出丸へ続く大手道
比較的防御性が貧弱なため搦手口だったという説もあるとのことである。
東出丸
東出丸は番所・詰所が置かれていた。
写真右は虎口の櫓台の石垣。
東出丸からの眺望
左側の呼子大橋の向こうの島は加部島、右の小さな島は鷹島
三の丸への虎口
大手道を登って東出丸へ着いてすぐ、大きくほぼ360度回転して入るようになっている。
㊧三の丸と㊨三の丸に残る井戸
三の丸から本丸へ通じる本丸大手
二層の豪壮な櫓門が築かれていた。後に、仙台(青葉)
城主伊達政宗が城の大手門として移した。国宝であったが、第二次大戦で昭和20年空襲により焼失した。
三の丸から本丸へ通じる本丸大手を本丸側から振り返って撮影
左奥上が本丸。
本丸の埋められた石垣
発掘調査にて本丸の西側と南側で、
現在の石垣の内側に古い石垣が埋められているのが発見された。これにより、名護屋城は築城当初のままではなく、
大規模に改造されたことが判明。名護屋城の謎の一つである。
本丸南西隅櫓跡と多聞櫓玉石敷の復元
㊧本丸跡と㊨本丸西北の天守跡(発掘工事中)
本丸の広さは東西145m、南北125m。
天守台からの眺望①
この写真は1995/11/
24登城時撮影のもの
天守からの眺望②
すぐ下は遊撃丸。
左奥に見える島は馬渡島。遊撃丸は、文禄2年(1593)に講和使節として来日した沈維敬(遊撃将軍)の宿舎となったことから名付けられた。
天守からの眺望③
すぐ下は水手曲輪。左から加唐島、松島、小川島。
三の丸南西隅櫓
㊧本丸上から、㊨鏡石(中央)
鏡石は城内最大1トンある。表面積の割りに奥行きが少ない。
馬場
平山城としてはかなり広くて長い馬場であると思ったが、
調査により一面に玉石敷が発見されたことから、馬場としての役割は疑問であり通路ではないかと推定されるとのこと。
馬場西櫓台(本丸上から撮影)
本丸西面石垣
この石垣は、復元すると10m以上の高さになる。石垣の途中に横長で薄い石材を用いているという特徴があり、
この石材の大部分が割れた為に石垣崩壊が進んだと考えられるが、自然崩壊だけでなく、この本丸西面と本丸南面や馬場の石垣の崩落は等間隔で、
城割の可能性が高い。島原の乱で下向した松平信綱が名護屋城を検分し、建物だけ撤去され石垣が完存する状態に一揆の巣となる不安を覚え、
自ら要所要所を指図して寺澤氏の足軽500人に崩させたという。いわゆる「寛永城割」による破却である。
二の丸(本丸上から)
石塁に囲まれた非常に広い曲輪で。建物礎石が復元表示されている。
弾正丸
弾正丸は秀吉の近親者である浅野弾正長政が居たことに由来する曲輪である。
弾正丸から見る馬場石垣(下段)と本丸南面石垣(上段)
ここの石垣も、本丸西面と同様、等間隔に石垣が崩落している。
搦め手門
この枡形虎口を入ると弾正丸である。
【呼子のイカ】
名護屋城址は大名陣屋跡も含めると、鎮西町・玄海町・呼子町にまたがる。呼子と云えば、やはり「烏賊」
である。一般に呼子は「ヤリイカ」と思っていたが、「ヤリイカ」は5月から10月だそうで、正月は「あおりイカ(地元や長崎方面では
「ミズイカ」という)であった。しかし、当然「ミズイカ」も美味い。透き通った本当にきれいなイカである。