僅かに残る土塁と堀跡
北条氏vs里見氏、雌雄を決した決戦の場
別名
市川城
所在地
千葉県市川市国府台3丁目(里見公園)
形状
崖城
現状・遺構等
現状:里見公園・宅地
遺構等:土塁、物見台、空堀、井戸、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2001/04/01
2007/01/20
2009/10/28
2009/11/26
歴史等
文明11年(1479)7月、太田道灌は千葉自胤を援け、臼井に篭る千葉孝胤討伐のため、
この地に城を築いたのが国府台城の起こりと伝えられている。
その後天文7年(1538)10月足利(小弓公方)義明は里見義尭をはじめ、房総勢一万余騎を率い、北条氏綱の従える二万余騎と、
この地で対陣した。このとき江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。この合戦から26年後、
永禄7年(1564)正月、里見義尭の子義弘は、兵八千をもってふたたび国府台に出陣し、北条氏康、氏政父子の二万余騎を迎え討った。
里見軍は緒戦において大勝をえたが、翌朝里見勢の油断をついて国府台城に攻めこんだ北条勢のため、城中は大混乱に陥り、
たちまち五千の戦死者を出し義弘は安房に敗走した。
以後、この地域は、この地域は北条氏の支配するところとなった。
天正18年(1590)徳川家康が関東を治めるや、国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城となり家綱のとき関宿より総寧寺を移した。
その後明治に至って、陸軍の兵舎が立ち並ぶ軍隊の街となったが、昭和34年(1959)この地を公園とし、里見公園となづけた。
現在園内には二重に囲まれた土塁とその間に残る空濠の跡を窺うことができる。これは天文、永禄の合戦に里見軍の構築したものと思われる。
数千の戦死者を出したこの合戦に後世里見将士の霊を慰めるため三基の慰霊碑が建てられた。
『国府台城跡案内板』より
感想等
今日は、柴又帝釈天へ来たついでに、矢切りの渡しの舟に乗ろうと思って乗ったところ、たまたま、ここ国府台城跡(里見公園)についた。
公園は花見客で立錐の余地もないといった感じであった。
この公園一帯が太田道灌の築城による城址で、北条と里見の激戦地として、たびたび歴史上に登場してくる城であるが、
訪れる人たちの多くはここが城跡だとは思っていないだろう。平山城といえるほど高い山ではないが、市川市では最も標高が高いのだそうである。
攻め易く、守り難いような気がする。ここは、城そのものよりも何といっても、里見と上杉の2度にわたる合戦で有名である。
当時の上杉といえば、氏綱・氏康の両名将である。当然、上杉の圧勝になるのも当然かなと思いながら、ごったがえす城内(公園内)
を歩いて回った。まあ、城跡というよりも、合戦跡地といった方が正しいのかな。
(2001/04/01訪問後に)
久し振りに国府台城址に来た。今回は前回のような花見の季節とは違い人はまばらであり、じっくり廻ったが、
あまりの改変で何も分からない。まあ、市川市という絶好の住宅地にありながら、土塁や空堀跡がそこらじゅうに残っていて、
城跡らしき雰囲気があるだけでも良しとしなければしょうがないのだろう。
(2007/01/20登城して)
ギャラリー
土塁
土塁跡はそこらじゅうにある。
左写真の一番奥はやや高くなっており、物見櫓があったのかも。
物見櫓台跡?
物見櫓跡らしく小山になった土塁がそこらじゅうにあり、それらの周りを空堀が縦横に巡っている。
物見櫓台跡?
この物見櫓台跡らしきところは、市川市の最高標高地点(30.1m)ということで石碑(右写真)が建っている。
郭跡?
郭跡も多く残っているが、この郭跡が城址内(園内)で最も広く、お花畑になっている。他には墓地になっている郭もある。
㊧夜泣き石
第二次国府台合戦で敗死した里見広次の娘がこの石にもたれて泣き続け、
息絶えてから夜な夜な泣き声が聞こえるという秘話。
㊨里見広次並びに里見軍将士亡霊碑
左から里見諸氏群亡塚、里見諸将霊墓、
里見広次廟
この合戦で里見軍は5,000名もの戦死者が出たと言われる。その後それを弔う者もなかったが、
265年を経てようやくこの亡霊碑が建てられた。
㊧羅漢の井戸
籠城の際の飲み水となっていたとされ、今も湧き水が出ている。
㊨明戸古墳石棺
現地の説明板には載ってなかったが、
太田道灌がこの地に築城した際出土したと伝えられるとか?また、かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、城内の「夜泣き石」
の台座になっているとのことである。