肥後 宇土城(宇土市)

本丸南の石垣

小西行長が築城し、関ヶ原合戦後加藤清正により改修も清正没後破却に

別名

鶴の城

所在地

熊本県宇土市古城町

形状

平山城

現状・遺構

現状:城址公園
遺構等:曲輪、石垣、説明板、小西行長銅像

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/01/04

歴史等

天正16年(1588)、肥後一揆勃発による佐々成政の後を受けて、小西行長は宇土・益城・八代・ 天草を拝領し14万6300石の大名として宇土に入部した。宇土には戦国時代に宇土氏、次いで名和氏が居城を構えていたが、 行長は宇土に入部すると名和氏の城(宇土古城)が手狭であったため、 その東の小丘に新城を築き、新城を中心に城下町を建設した。また、支配体制を整えるためにに領内の隈庄城(城南町)、木山城(益城)、岩尾・ 愛藤城(矢部町)、麦島城(八代市)を支城とし城代を置いた。
しかし、関ヶ原合戦で西軍につき敗れ、行長は捕らえられて斬首された。
合戦後、宇土城は肥後一国の領主となった加藤清正のものとなり城代が置かれたが、慶長16年(1611)清正が没すると、 翌17年幕府の命令で宇土城は破却された。
この間、清正が宇土城を改修し、現在残る宇土城跡の大半は加藤氏時代のものという。また、この時、宇土城の天守が熊本城へ移されたと伝えられてきた。 ただ、これについては、平成元年の熊本城宇土櫓解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されているとのことである。
なお、慶長17年に宇土城が破却されて以後、一時、宇土は寂れたが、後に熊本細川藩の支藩宇土藩が成立して、宇土は城下町として再生した。 ただ、宇土藩の藩庁は城ではなく陣屋であった。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

もう少し遺構が残っているかと期待していたが、残念ながら小さくて低い丘が城址公園となり、 その丘の周りの一部に石垣や堀が残っているだけといった感じであった。
ただ、城址公園の周りをよく見ると、2ヶ所ある登り口辺りの道は、結構広い堀跡のようであり、またその周り(上) は結構高い土塁のようであった。
400年も前に破却され、しかも町中にある城址ときては、これだけ残っていれば大したものかもしれないなあ。
(2007/01/04登城して)

ギャラリー

宇土城址本丸の図

㊧本丸、㊨本丸に建つ小西行長銅像
 

本丸東側(宇土高校側)石垣・土塁と堀跡

本丸南側の石垣

本丸西側の石垣と石垣の説明板
【説明板の要約】関ヶ原合戦後、宇土城は加藤清正が改修した。昭和55年からの発掘調査の結果、 本丸には約2mの盛り上がりがあり、小西時代のものはその下から出てくる事等から、現在目にする石垣は、 加藤清正が積み上げさせたものだと考えられる。ただ、この石垣も見えているのは半分程度で、地面の下には、 地上と同じくらいの高さの石垣が埋まっている。

本丸南側に残る土塁

本丸西側の堀跡

熊本城の宇土櫓
宇土城の天守が熊本城へ移されたと伝えられてきた。 ただ、これについては、平成元年の熊本城宇土櫓解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されているとのことである。

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