肥後 熊本城(熊本市)

大天守(復元頬当御門付近から撮影)

築城の名手・加藤清正による天下の名城で、日本三名城のひとつ

別名

銀杏城

所在地

熊本県熊本市本丸1-1

形状

平山城(標高50m)

現状・遺構等

遺構:大天守・小天守(復元)、現存櫓(宇土櫓・続多聞・付櫓・源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・田子櫓・東十八間櫓・ 北十八間櫓・五間櫓・平櫓・監物櫓)、現存門(不開門・西櫓門)、移築門(櫨方門)、竹の丸塀(現存)、竹丸の馬具櫓(復元)、頬当御門 (復元)、西大手櫓門(復元)、数奇屋丸二階大広間(復元)、【平成15年以降の復元】戌亥櫓、元太鼓櫓、未申櫓、南大手門、飯田丸五階櫓、 各曲輪の石垣(現存)、土塁(現存)、備前堀(現存)、空堀(現存)


【熊本城400年祭復元整備計画(2007/01現在】
熊本城公式ホームページより
《復元完了した建物》
1.戌亥櫓<平成15年8月完成>
2.元太鼓櫓<平成15年12月完成>
3.未申櫓<平成15年8月完成>
4.南大手門<平成14年10月完成>
5.飯田丸五階櫓<平成17年2月完成>
《復元工事中の建物》
8.本丸御殿大広間<平成19年度完成予定>
《復元予定の建物》
6.百間櫓
7.西竹の丸五階櫓
9.数寄屋丸五階櫓
10.御裏五階櫓
11.櫨方三階櫓
12.北大手櫓門

満足度

★★★★★

訪城日

1993/06/17
2007/01/24

歴史等

天正15年(1587)、豊臣秀吉は九州平定によって島津氏を薩摩・大隅に押し込めると、まだ小さな国人衆が根を張っている肥後国に、 同じ織田家旧臣ながら気の合わない佐々成政を送り込んだ。国人衆を押え切れずに成政が問題を起こすのをねらってのことともいう。案の定、 翌年には一揆が起こり、秀吉は諸大名の援助のもとに一揆を鎮圧したが、成政の失政を問うて引責切腹に処し、同時に有力国人衆も切腹させて、 中世的な土豪勢力を排除した。
天正16年(1588)、肥後は2分され南半国は宇土城に入った小西行長に与えられ、 北半国25万石は加藤清正に与えられた。
当初清正は、鹿子木氏の拠点であった茶臼山西南麓の隈本城(大永期1521-1527築造)に入ったが、この隈本城は、 構造も古く手狭であったことから、東の千葉城(菊池一族の出田秀信により室町時代の文明期1469-1486築造) まで含め茶臼山全域を取り込んだ大城郭にした。
築城の時期については諸説あるが、天正18年(1590)頃起工し、慶長5年(1600)頃には一応の工事を終わって、同12年(1607) に内装部分まで完成したのではないかという。そして、この時に「隈本」を「熊本」に変えたという。
城域は東西1,700m、南北1,300mに及ぶ。本丸には大小二つの天守閣、宇土櫓をはじめとする49基の櫓、18の櫓門、 29の城門が配された。大天守は、標高50mの最高所に三層六階地下一階、高さ44mで、小天守は二層四階地下一階、高さ31mである。
宇土櫓は、小西行長の宇土城の天守を移築したとされ、 三層四階地下一階である。尤も、宇土城天守閣移築説は、 平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されているとのことであるが。
また、これらの大建築と流麗な曲線でなだらかな勾配を持った石垣はさすが天下の三名城と呼ばれるだけのことはある。
清正がこれだけの堅城を築いたのは、清正は豊臣恩顧を貫いた人であり、豊臣秀頼成人ののち、徳川家康が天下を豊臣家に返さなければ、 秀頼を熊本城に迎え、幕府と一戦交えるつもりであったという説もある。しかしながら、清正は二条城で家康・秀頼の対面に立ち合い、 その後熊本に帰る船中で発病し間もなく死去してしまった。徳川氏による毒殺ではという巷説もある。
清正の死後、子・忠広が跡を継ぐが幕府の豊臣恩顧の大名取り潰し策で、駿河大納言忠長に絡む陰謀の疑いをかけられ領地没収のうえ、 出羽庄内へ配流となり45年間に及んだ加藤氏の肥後支配は終わった。
寛永9年(1632)豊前小倉城主細川忠利が入封した。細川氏は54万石を領して、幕末維新まで11代、240年にわたり在城した。
明治10年、西南戦争では、熊本鎮台司令官谷千城以下3,400名が守る熊本城を、西郷隆盛に率いられた薩摩軍13,000名が攻めるが、 ついに落せず撤退した。加藤清正築城の熊本城は、近代戦にも通用することを証明した。しかし薩軍総攻撃の2日前、 原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失し、宇土櫓ほか12棟が残り国の重要文化財となっている。天守閣焼失の原因は、 戦闘で目標になるのを避けるため?に司令長官の谷干城が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けた、という説が現在では有力とのことである。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」 等参照』

現況・登城記・感想等

熊本城といえば、築城の名手・加藤清正による天下の名城であり、大坂城・名古屋城とともに日本三名城に数えられることもある。当然、 是非登城したい城の一つであった。
熊本城を訪ねたのは中学校の修学旅行以来のことである。残念ながら、今回、天守閣は改修工事であったので、 内堀をぐるっと廻って宇土櫓越しに見るだけで終えてしまったが、宇土櫓そのものも天守閣と間違えるくらい大きく、しかも優美で、 その奥に大天守(尤も、改修用の櫓に囲まれているが)、その横に小天守が見える光景は実に素晴らしい。天守の改修が終わったら、 また来ようと思いながらそのままになってしまった。
平成17年(2009)が築城400年にあたり、加藤清正が築城した98haの城郭全体を対象に、 往時の姿に復元整備することを目指しているそうで、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、 南大手門などの建造物を復元の予定とのことである。往時そのままの、すごい一大絵巻が出現するわけである。 復元が終わったら絶対登城したいものである。
(1993/06/17訪れて) 


熊本城は、今年(2007年)が築城400年にあたり、復元工事が着々と進んでいるとのことであり、来年(2008年)復元工事が全て (大方?)終わってから一日たっぷりかけて登城したいと思い、今回の九州旅行(メインは福岡・熊本)では、予定には入っていなかったが、 飛行機の搭乗時間まで少しあったので折角だからと寄った。
尤も、夕方5時近くでもあり駐車場も閉鎖、勿論、城内へも入れなかったが、高石垣とその上に幾つも建つ櫓群は本当に素晴らしい。 やはり熊本城は、築城の名人「加藤清正」による城の中でも集大成された最高の傑作であろう。夕暮れ寸前のわずかな時間であったが、 寄ってみて本当に良かった。
(2007/01/04訪れて)

ギャラリー

復元頬当御門(写真奥は大天守)  ~クリックにて拡大画面に~
天守閣へ向かう正面入口。この門は城を顔に見立てたとき、 顔の前に当てる甲冑の部品の頬当てに見えることから、頬当御門と呼ばれるようになったと言われている。

大天守閣(復元)   ~両写真共クリックにて拡大画面に~
茶臼山の最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなる(午後5時近くになり入城できず、 大天守のみの撮影)。大天守は外観3層内部6階地下1階。現在の天守閣は昭和35年(1960)、 鉄筋コンクリートで外観復元されたものである。
 

現存宇土櫓①(奥に改修中の大天守、左に小天守) ~クリックにて拡大画面~
本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓。 かつては宇土城天守閣を移築したとの説があったが、 平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されているとのこと。

現存宇土櫓②   ~両写真共クリックにて拡大画面に~
 

飯田丸五階櫓(復元)   ~クリックにて拡大画面に~
飯田丸の南西隅に建つ五階建ての櫓。飯田丸の名称は加藤清正の重臣飯田覚兵衛が管理していたことから、 こう呼ばれるようになった。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられている。 平成17年に復元完成した。

飯田丸五階櫓と天守閣(奥) ~クリックにて拡大画面に~

西大手門(復元)
熊本城は西・南・北の3つの大手門を持ち、その中で最も格式の高い門とされている。

南大手門(復元)
西、南、北と3ヶ所ある本丸への大手門のうち、最大の大手門。平成14年10月復元された。

記念切手
築城400年を記念して、記念切手も発売された。その切手を会社の先輩S氏より頂いた。

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大好きな城のことですから、これからも一城でも多く登城し紹介したいと思っております。
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