天守台跡に建つ標柱
秀吉・光秀激突の「山崎合戦」の地。合戦後、大坂城に移るまでの秀吉の居城
別名
天王山城、財寺城(たからでらじょう)
所在地
京都府乙訓郡大山崎町天王山(宝積寺の裏山)
形状
山城(標高270.4m、比高240m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:天守台、曲輪、石垣、土塁、空堀、井戸、碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/12/24
歴史等
古来、大山崎は軍事・交通上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきた。その要の位置を示している山が標高270.
4mの天王山である。天王山は摂津国と山城国の境をなし、山と川との間は最も狭い部分で200mたらずしかない。
室町時代の応仁・文明の乱の時に、地域的な重要性から天王山に城が築かれ、たびたび合戦が行われた。
やがて最も知られている天下分け目の天王山「山崎合戦」が天正10年(1582)6月13日、夕刻4時頃山頂、山麓で明智光秀軍、
羽柴秀吉軍との間で繰り広げられた。合戦は明智軍1.6万人、羽柴軍4万人が激突し、わずか2時間程度で決着が付き、
羽柴軍の一方的な勝利に終わった。
秀吉は味方の士気を高めるため、天王山の老松に千成ひょうたんの旗印を掲げ、戦局に大きな影響を与えた(天王山の7合目辺りにあるこの松は
「旗立松」と呼ばれている)。
敗北を知った光秀は本陣背後の勝竜寺城に一時退去した後、
僅かな手勢を伴って近江へ逃れていった。山丘陵を越えた小栗栖(現京都市伏見区)で土民の襲撃を受け、光秀は殺害された。
合戦直後、秀吉は天下統一を目指すため天王山山頂に天守閣を備えた城を築城し、大山崎を城下町とした。城は財寺城とも呼ばれ、麓の宝寺
(宝積寺)まで含めた大規模な城だったようである。山崎合戦の翌年から大坂城の築城が始まり、
秀吉も大坂城に移り、
城は1年余りで壊された。
『現地説明板、大山崎町歴史資料館パンフレット参照』
【余談】 『大山崎(京都府)と山崎(大阪府)がある』
登城の前に麓にある「大山崎歴史資料館」に寄って、大山崎には何故「大」の文字が付くのか聞いたら、何故かは分からないが、
室町時代の古文書には既に「大山崎」の名前が出てくるとのことである。
そして、大山崎に隣接しているのが「大阪府三島郡島本町山崎」である。
また、阪急の駅名は「大山崎」であるが、JRは「山崎」であり、「JR山崎駅」の住所は「京都府乙訓郡大山崎町」であるが、
ホームの一部が大阪府三島郡島本町にかかっている。したがって、山崎駅のホーム上を、京都府・
大阪府の境界線が横切っているというわけである(線路の下を流れる西谷川が昔から山城国と摂津国の国境になっていた)。そして、下り
(大阪方面行)ホーム上に、京都府・大阪府の府境を示す線路の枕木を使った標識が建てられているそうである。
現況・登城記・感想等
大山崎と云えば「山崎合戦」であると同時に、真偽のほどは分からないが、司馬遼太郎の「国盗り物語」に出てくる山崎八幡宮
(離宮八幡宮)の油売り商人{山崎屋}から稲葉山城主となり美濃を統一した斎藤道三ゆかりの地でもある。 また、
他にも大山崎は非常に歴史があり、城址以外にも見どころが多いが、今回は堺屋太一の小説と図が描かれた陶板サイン「秀吉の道」
に沿って天王山山頂を目指した。
途中、山崎合戦の際、秀吉が味方の士気を高めるため、千成ひょうたんの旗印を掲げたという「旗立松」がり、展望台もあり、
山崎禁門の変に敗れた長州方に同行して天王山山頂で自刃した「十七烈士の墓」がある。この辺りまでは遊歩道としてよく整備はされてはいるが、
傾斜もあり、結構きつい。
ここからしばらく歩くと酒解神社があり、校倉造の神輿庫がある。この先から、城跡らしい雰囲気になってきて、空堀や土塁、
曲輪跡等が次々に認められる。山頂には、礎石らしき石や石垣の一部があちこちに見られる。
そこから西側の曲輪へとおりると一段下の南側に大きな井戸がある。この付近は土塁もよく分かる。
(2006/12/24登城して)
ギャラリー
山崎城縄張図(大山崎歴史資料館展示より)
山崎城跡周辺で採集された瓦片(大山崎歴史資料館にて)
㊧山崎城全景(手前の線路はJR)、㊨宝積寺
(この辺りも城郭の一部であった)
~後ろの山が天王山~
登城道
今日もかつての同僚増っさんとの登城です。
天王山山頂へ宝積寺から遊歩道はよく整備はされてはいるが「十七烈士の墓」辺りまでは傾斜もあり、結構きつい。
㊧旗立松、
㊨山崎合戦之地の石碑
旗立松は山崎合戦の際、秀吉が味方の士気を高めるため、
老松の樹上高く千成ひょうたんの旗印を掲げた所。今の松は6代目となった。
㊧旗立松横の展望台からの眺望、
㊨山崎合戦の軍配置図 ~クリックで拡大~
秀吉の道
堺屋太一の小説と図が描かれた陶板サイン「秀吉の道」に沿って天王山山頂を目指した。
山頂までに、この陶板サインが10基建っている。
十七士の墓
禁門の変(1864)
で戦いに敗れ天王山山中で自刃した隊長真木和泉守以下17名の墓
㊧登城道
(両側の土塁等々なかなか雰囲気がある)、㊨空堀跡
㊧本丸虎口、
㊨虎口の所の石垣
本丸跡には左手前のような礎石らしきものがいっぱいある。
本丸跡(奥のやや高い部分が天守台)
本丸石垣の一部
本丸にはこのような石垣の崩れた石がゴロゴロ転がっている)
㊧Ⅱ郭(本丸から撮影)、㊨本丸南側の腰郭跡 (竹薮になっているが段々になっているのがよく分かる)
Ⅱ郭南側に残る井戸
説明板の反対側「右写真」から中を覗いたら石組みになっていた。