六角氏による全国屈指の規模の中世山城、石垣が多く残る
所在地
滋賀県蒲生郡安土町石寺
形状
山城(標高432m、比高差350m)
現状・遺構
現状:山林、観音正寺、桑見寺等
遺構:本丸・平井丸・落合丸・池田丸・淡路丸などの郭跡群、土塁、石垣、井戸、門跡
満足度(10点満点)
10点
歴史等
標高432m、比高350m。繖山(きぬがさやま)に築かれた、近江守護職・佐々木六角氏の居城である。
六角氏はの起こりは、近江源氏佐々木氏の嫡流信綱が、京都六角堂に館を構えたことにはじまる。信綱には四子がいて、長男重綱は大原家、
次男高信は高島家、四男氏信は京極家に分かれ、それぞれ独立した。
観音寺城は、建武2年(1335)、ときの六角氏頼が、奥州から攻め上がってきた南朝の北畠顕家軍を防ぐため築城したと云われる。以後、
幾度となく改修の手が加えられたが、ほぼ完全な構えをもつ城に完成したのは戦国初期の頃の定頼の時である。
観音寺城は、湖東平野に聳え立つ独立峰に築かれ、背後には琵琶湖最大の内湖を控えて、中山道を押さえる戦略的要衝をなし、
周辺に散らばる箕作城、長光寺城等が支城の役割を果たしていた。
応仁の乱では、六角高頼は西軍山名氏につき、東軍細川氏についた京極持清とは守護職を争う結果になった。戦況は高頼に有利に進んだ。
そして持清が死ぬと、名実ともに近江の実権を握った高頼は、公然と山門や公卿領を侵食しだした。これに対して、幕府は長享元年(1487)
の足利義尚と、延徳3年(1491)の足利義材とによる2度の討伐戦を行っているが、いずれも六角氏は、さっさと甲賀山中に逃げて、
ゲリラ戦を挑み、幕府軍を悩ませた。その後も、高頼・定頼父子は山門や公卿領を侵食し、戦国乱世に生きる大名家の基礎を固めた。
天文21年(1552)定頼が没し、跡を継承した義賢の代になると、鉄砲が伝来。義賢は鉄砲に備えてほぼ全山を城域として、石塁をめぐらし、
大小無数の郭を構築した中世山城へと大修築を行った。
永禄11年(1568)9月になると、六角氏は大変な危機を迎えた。
かねてより上洛の機会をうかがっていた織田信長が行動を起こしたのである。それを阻むべく、承禎(義賢)・義治父子は要害の観音寺城に籠り、
湖東平野に散在する支城を連ねて抗戦したが、圧倒的な織田軍が簡単に箕作城を葬ると、承禎はさっさと城を捨て、甲賀山中に逃げ込んだ。
六角氏は、攻撃を受けると甲賀へ身を潜め、敵が去ると戻ることを繰り返してきた。しかし、今度ばかりは戻ることは出来なかった。
要害の観音寺城は、その実力のほどを示すことなく歴史に埋もれてしまったのである。
『「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」等参照』
日本五大山城
この城は典型的な山城であり、江戸時代以降も存続していた山城の代表格「日本3大山城」に対し、
戦国期にその役割を終えた山城を選りすぐった「日本五大山城」の一つにも数えられています。
日本5大山城
月山富田城
七尾城
越後春日山城
小谷城
観音寺城
小谷城の代わりに八王子城を入れて日本5大山城という場合もある。
訪城日
1997/08/02
現況・登城記・感想等
「この城はすごい。」この一言である。標高432mの繖山山頂の本丸をはじめ、平井丸、落合丸、池田丸などの曲輪跡に石垣が残り、
全山に散在する曲輪と家臣団の邸跡の総数が100を超える壮大な山城である。
残念ながら、今回も登城口が分からず「私の山城登城の鉄則:山城は麓から登るべし」をまた破ってしまった。車で観音正寺近くまで登り、
そこから山頂にある本丸へと歩いて行った。そこから本丸への途中にも、いくつもの曲輪跡があり、石垣が残っており、
また多くの石が転がっていた。本丸の石垣もかなり崩れてはいたが、戦国時代当時としては、かなり大規模であり高度なものである。
これだけの堅城を持ちながら、六角氏は常に伊賀やら甲賀の山中に逃げ廻っていたのが不思議である。
この城は、日本の石垣城の起源とされる城だそうで、山頂一帯だけでなく全山に大規模な石垣を持った城郭が残っているそうである。
全てを見て廻るには相当な時間が掛かりそうである。一日たっぷり、いや2日間ほどかけてじっくり見て廻らないと無理かもしれない。しかし、
その価値は充分あるようである。必ず、近いうちに再訪しよう。
ギャラリー
観音寺城地図

観音正寺(今回は観音正寺の所から登城)

登城道

曲輪跡

石垣群




