近江 三雲城(湖南市)

二郭への枡形虎口

六角氏が本城の観音寺城を攻められるといつも逃れてきた城

所在地

滋賀県湖南市吉永字城山
【行き方】
湖南市の「青少年自然道場」を目標に進むと、町には幟が立ち、要所要所に案内板があるので分かると思う。「青少年自然道場」 の脇から林道を登って行くと、登城口に石碑と説明板が立っており、道がやや広くなっているので隅に駐車した。 ここからは遊歩道が整備されている。
青少年自然道場:湖南市吉永251番地、TEL0748-72-2790

形状

山城(標高334m、比高140m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、堀切、虎口、土橋、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2010/01/27

歴史等

三雲城は、六角氏重臣であり甲賀53家に数えられる甲賀武士・三雲氏の居城である。
長享元年(1487)の室町将軍足利義尚が全国諸大名に発した六角氏討倒令の際には、この三雲城が六角氏の臨時本城として利用された。
六角氏は、本城の観音寺城の危険を感じると、 甲賀に亡命し、本城が落ちても、甲賀武士をはじめ、近在部将とともに抗戦する戦術(ゲリラ戦法)を用いた。
甲賀から直接観音寺城へ通ずる道を観音寺道といい、 天文6年(1537)には六角承禎(義賢)、永禄11年(1568)には六角承禎・義弼が当城に逃れてきており、観音寺城の奥城ともいえる城である。
三雲氏は、長享元年より六角氏の部将として活躍し、代々勇名をとどろかすが、織田信長の上洛を阻止しようとする六角氏に最後まで従ったため、 元亀元年(1570)に織田方の佐久間信盛の攻撃を受け、三雲城は落城し、天正年間(1573~)には廃城となった。
天正13年(1585)には、秀吉の家臣中村一氏が水口岡山城を築いた際に石垣等が用材として用いられたと言われている。
尚、三雲氏は、六角氏が信長と和睦しても、信長の配下に属さず、浪人となった。
その後、織田信雄、蒲生氏郷に仕え、徳川幕府では、旗本一千石となった。
『「日本城郭大系11」、「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

三雲城は、甲賀武士団の居城には珍しく大規模な山城である。また、二郭への虎口などの要所には石垣も築かれている。
六角氏没落後、三雲氏が豊臣政権のもと織田信雄や蒲生氏郷に仕えたことを鑑みると、その時に改変されているのであろう。
また、曲輪や土塁、堀切等々の遺構もよく残り見どころも多い。そして何よりも、二郭の東斜面や本郭北東斜面は、それぞれ約10m前後、 10m~15mほどあり、下から見上げるその光景は中世の山城の風情を満喫できる。
また、主郭周辺など至る所に巨岩があり、城郭建設の何らかの役割を果たしていたのであろう。
とりわけ、城跡の北東にある八丈岩は途轍もなく大きく、山麓からも望める。その八丈岩のすぐ傍(西)にある巨岩には六角氏の家紋(四つ目結) が刻まれている。
(2010/01/27登城して)

ギャラリー

全景
三雲城は、甲賀武士団の居城には珍しく大規模な山城である。三雲城のシンボルともいうべき、 八丈岩は山麓からも見える。夕方になり、逆光で見づらかったが、それでも何とか撮影できた。

登城口
山麓の「青少年自然道場」の脇から舗装された林道を車で登ってくると、登城口に石碑と説明板が立っている。 冬で人出も少なく、道がやや広くなっていたので隅に駐車した。ここからは遊歩道が整備されている。

城址と八丈岩への分岐点
登城口を入ると、すぐに城址と八丈岩への分岐点へ出る。まずは、城址へと左へ進む。

治山石垣
遊歩道を登りはじめると、左手に石垣が幾段にも築かれているが、この石垣は、積み方から見て、どうやら後世 (近代)の治山石垣のようだ。

さらに遊歩道を
さらに遊歩道を進むと、両側に石垣が見えてくる、また、右手には削平地があり、そこにも石垣が築かれている。 削平地は曲輪跡かもしれないが、これらの石垣も、後世(近代)の治山石垣のようだ。

採石場
さらに進んで行くと、左手に石がゴロゴロ転がっていて石垣が崩れたような光景があるが、 どうやら近代の採石場のようである。しかし、ここから前方に見える二郭の斜面(切岸)とのコラボは、まさに中世の城郭の風情があり、 いよいよ城域に入ったことを認識させてくれる。

二郭への枡形虎口
上写真の急斜面を登り切ったところに二郭虎口がある。かなり崩れたり、埋まっていたりするが、 巨石を使った石垣の枡形虎口は甲賀の城では珍しい。恐らく、六角氏没落後、 三雲氏が豊臣政権のもと織田信雄や蒲生氏郷に仕えた際に改築されたものであろう。

虎口隅の古井戸
虎口の角の部分に井戸跡がある。こんな場所に井戸があるのは珍しいのでは?

二郭の土塁
二郭は、50m×40mの大型の郭で、西側には尾根を削り残したと思われる土塁が防御している。 郭内には井戸があるなど居住環境は良好で、六角氏が逃げ込んだ際に居住したのは、この二郭ではなかろうか?

井戸
内部を穴太積みの石垣で補強された井戸で、口径1m90cm、深さ6m20cmある。

二郭から主郭方面を
主郭の斜面(切岸)の高さは10m~15mほどあり、二郭から見上げるその光景は迫力がある。

主郭北西の巨岩
主郭は狭く、30m×15mほどの細長い郭である。北西には巨岩があるが、何らかの役目があったのだろうか? 物見岩とするには、安定していない感じだし・・・?

主郭背後の堀切
主郭背後(南側)にも狭い曲輪があり、その間を自然地形に手を加えた堀切で断ち切られているが、 斜面は割り合い緩やかである。

八丈岩
この山のシンボルとも言える八丈岩である。岩の下に立つMっさんと較べてもらえば、 その巨大さが分かるであろう。その巨大な岩の前は急崖になっており、しかも地面から浮いているような感じで、 いつ崩れ落ちても不思議はないような・・・。
 

六角氏の家紋(四つ目結)が刻まれた岩
八丈岩の背後の巨岩群の中に、六角氏の家紋(四つ目結)が刻まれた岩がある。

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