古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた曳橋
日本五大山城の一つ八王子城も豊臣軍の前に半日で落城
所在地
東京都八王子市元八王子町3丁目、下恩方町
形状
山城(標高:470m、比高:240m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、主殿跡、復興曳橋、御主殿の滝、石碑、説明板等
【国指定史跡】
指定日:昭和26年6月9日、(追加指定:昭和54年11月26日、昭和58年3月28日、昭和61年1月31日)
指定理由:後北条氏の居城で、堀、土塁、石垣などがよく旧状をとどめており、中世における城郭の規模を知るうえで重要な遺跡
面積:154万1,500余㎡
資料館:八王子市郷土資料館に出土遺物などを展示
満足度
★★★★☆
訪城日
2001/09/01
2007/05/12
歴史等
永禄12年(1569)10月滝山城は関東に侵入した武田信玄の2万の大軍によって三の丸まで落とされ、
二の丸まで攻め込まれたが、そこでくい止め退けていると、甲陽軍艦に記されている。この戦闘により、北条氏照(氏康の三男、
次男とも云われる)は滝山城が防衛上必ずしも堅固な城ではないことを知り、
天正12年~15年(1584~1587)頃、平山城の滝山城から、
西方の急峻な独立峰の深沢山に八王子城を築き移った。
天正18年(1590)、秀吉の北条討伐に際し、城主・北条氏照は小田原城に籠城、
八王子城には横地監物吉信ら4千が籠城した。6月23日早朝から前田利家、上杉景勝の兵を中心とする秀吉軍に攻められ、1日で勝敗は決し、
城兵は玉砕した。八王子城は、山頂の本丸と、山麓の御主殿もしくは千畳敷と呼ばれる根小屋(居館)とに分かれるが、
落城時の御守殿のありさまは、地獄絵巻であったと伝えられている。
八王子城には、人質として城兵の妻や子も篭っていた。そのため、逃げ場を失った非戦闘員達は、御主殿の滝に身を投じ、城と運命をともにし、
滝が流れ込む川を3日3晩、血に染めたという。
尚、氏照は小田原陥落後、
秀吉により切腹を命じられ、同年7月11日、玉砕した人々の後を追った。
その後八王子城跡は、徳川氏の直轄領となり、明治時代以降は国有林であったため、あまり人の手が入らず、落城当時の状態のまま保存され、
遺構の状態が良好である。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」より』
【日本五大山城】
この城は典型的な山城であり、江戸時代以降も存続していた山城の代表格「日本三大山城」に対し、
戦国期にその役割を終えた山城を選りすぐった「日本五大山城」のひとつに数えられている。
日本五大山城
月山富田城
七尾城
越後春日山城
八王子城
観音寺城
*八王子城に代わり小谷城を入れる場合もある。
現況・登城記・感想等
高尾駅から歩いて行ったが登城口まで結構距離があり、また、本丸までの比高差もかなりあり、山道も結構歩きでがあった。木々が多くて、
眼下に広がっているであろう景色はあまり見えなかったが、所々眺望の良い所もあった。
山麓の主殿跡への道や曳橋は復元整備がよくされており見所の多い城跡である。中腹にも石塁や石垣群や出丸等々遺構が一杯あるようだが、
今回は疲れていたので諦めた。ここまで立派で大規模なな山城とは思っていなかったので、なめてかかっていたのかも。今度は、
一日たっぷりかけて城跡地図をもとに回り直したい。郷土史家や八王子市教育委員会がかなり熱心で調査が進んでいるようであるので、
次回来るときにはもっといろんなことが分かってきていることであろう。楽しみである。
(2001/09/01に登城して)
2回目の登城をした。今回は友人と4人での登城である。
今回は、まず山麓の居館地区からの登城である。居館地区には写生を楽しむ多くの人がいた。
前回、見逃した「御主殿の滝」へも行ってみた。落城時に城内の婦女子や武将がここから身を投げ、城山川が三日間、
赤く染まったとの伝説があるが、とても飛び降り自殺ができるほど高くもないし、下も狭くて、10人も飛び降りたら川は一杯になってしまう。
ちょっと伝説にしてもなあ!?
山上の要害地区には「御主殿」奥から石垣群が多く残る道を登った。この道は備え付けのパンフの地図にはないが、山王台まで、
はっきりとした道ができていた。途中、あまり大掛かりなものではないが4ヶ所ほど石垣に出会う。また、道には石が一杯転がっていた。
道をはずれた所にも結構石垣が残っているのであろう。或いは、少し発掘すれば、かなりの石垣が出てくるであろうことが想像される。
山王台から本丸までは、一般的なハイキングコースである。本丸まで登ってから、松木曲輪へ戻り、詰の城へ。途中、「炊井の井戸」、
「石敷き水路」があり、「馬冷し(駒冷場)」と呼ばれる大きな堀切に出る。
ここから道がいくつもに分かれており、詰の城へは尾根道を登って行く。途中から石がゴロゴロ転がる起伏の激しい尾根道になる。
そこを少し登って行くと「大天守台」と呼ばれる所に出る。確かに天守台の形はしているが、
本当にこんな奥まった所に天守があったとは思えない。「大天守台」の奥(高尾山へ向かう尾根)には、
岩を削り取った猛々しくて大規模な堀切があった。
帰りは、金子丸を通って下山。金子丸の下には五段ほどの小規模の段曲輪があり、その登城道の反対側には土塁が残っている。
最後に、「御主殿」の横の、「あしだ曲輪」を通り登城口へ戻った。「あしだ曲輪」は、三段になっており、発掘調査中であった。
八王子城址は、居館地区については、調査がどんどん進んでいるようであったが、要害地区は案内板が少なく見落としやすい。
広すぎて大変かもしれないが、要害地区についても多少の案内板が欲しいところである。
(2007/05/12登城して)
ギャラリー
【登城口】
㊧登城口の入り口広場と管理棟、㊨その南側一段下に建つ石碑
㊧の写真上に見える山が、八王子城要害地区
【居館地区】
復元竪堀と木橋
まずは、御主殿へ向けて、復元された大手道へ向かうと、
復元された竪堀と木橋が
曳橋 ~左写真はクリックにて拡大画面に~
古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。
橋の土台である橋台部が残っていただけなので、どのような構造の橋が架けられていたのかは明らかではない。
橋台部石垣 ~両写真共クリックにて拡大画面に~
㊧曳橋南側下の石垣、㊨曳橋北(御主殿)
側脇の石垣
発掘調査によって御主殿側の石垣が良好な状態で残っていることが分かった。これらの石をそのまま残し、
欠落していた部分には崩れ落ちていた石を当てはめた。それでも足りない部分には新たな石を補い、積み直した。
曳き橋北側の虎口 ~クリックにて拡大画面に~
正面(西側)の石垣は、
非常に良好な状態で残っていた。しかし、なかには長い年月の間にゆがみが生じ、そのままでは危険な部分があったため、
これらについては石に番号を付けて解体し、新たに積み直した。
発掘時の虎口西側石垣(説明板より)
御主殿への石段 ~クリックにて拡大画面に~
石垣や石畳はなるべく発掘されたものをそのまま利用し、
できるだけ忠実な方法で復元した。
御主殿の模擬冠木門
この場所に門があったことは発掘された礎石で明らかになっているが、
その形は不明である。また、瓦も発見されていないため、瓦屋根がついた門ではなかったと考えられる。そのため、
戦国時代の簡素な造りの冠木門を設置し、板塀をめぐらせた。
御主殿 ~両写真共クリックにて拡大画面に~
この御主殿からは、
礎石を多く使った建物跡や水路の跡が発見された。また、約7万点もの遺物が発見され、
最も多く発見された明から輸入された染付けの磁器のほか、ベネチア産のレースガラス、国産の壷や茶道具などが発見された。
御主殿の滝 ~クリックにて拡大画面に~
落城時に、
籠城していた婦女子や武将らががここから身を投げ、城山川が三日間、赤く染まったとの伝説があるが、
とても飛び降り自殺ができるほど高くもないし、下も狭くて、10人も飛び降りたら川は一杯になってしまう。ちょっと伝説にしてもなあ!?
㊧アシダ曲輪、
㊨アシダ曲輪入口手前の沢
㊧「慶安古図」に「アシダ蔵」と書かれている。2~3段の曲輪群からなり、
館や倉庫があったと考えられる。
㊨天然の要害で、非常に深く切り立った谷のようになっているが、人の手も加えられているのではと思う。
【要害地区】
「御主殿」
奥から石垣群が多く残る道を登った。この道は備え付けのパンフの地図にはないが、山王台まで、はっきりとした道ができていた。途中、
あまり大掛かりなものではないが4ヶ所ほど石垣に出会う。
最初に出会った石垣
2番目に出会った石垣
4番目に出会った石垣
上の石垣前に大きな四角い石が
山王台の慰霊塔(大正時代に建てられた)
㊧八王子神社、
㊨その隣に建つ天狗の像
北条氏照が深沢山に城を築いた時、八王子権現を城の守り神としたので、城は「八王子城」、
城下の町は「八王子」と呼ばれるようになった。
㊧本丸、㊨「八王子城本丸址」石碑
本丸は、
横地監物吉信が守っていた。非常に狭い。また木々が生い茂っているため眺望もきかない。
松木曲輪
中山家範が守っていた曲輪で、
中の丸とも二の丸とも呼ばれていた。落城時の家範の勇猛ぶりが家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった。
八王子城址は、これだけ高いにも関わらず、ここと他に1ヶ所位しか眺望の良い所がない。不思議?
松木曲輪からの眺望 ~両写真共クリックにて拡大画面に~
㊧八王子、㊨奥高尾方面
「炊井」
と呼ばれる井戸
要害地区にはもう1つ井戸が残っているそうだ。この井戸は、手押しポンプがついていて、
今でも冷たい水がたっぷりと出、コップまで用意されていたが、井戸の上に乗っているものが、あまりにも汚い感じだったので、飲むのはやめた。
石敷水路
自然の沢に手を加えた水路だろうか?
駒冷場
「馬冷し」ともいうらしいが、
意味は?そのまま素直に理解すればいいのかなあ?
非常に大きな堀切である。そして、ここから道がいくつもに分かれており、詰の城へは尾根道を登って行く。
㊧石塁?、
㊨石塁と奥上に大天守台
尾根道をしばらく歩いていくと、パンフにある「石塁」に出る。石塁というよりも、
石が無数に転がっているといった方が正しいのでは?そこを少し登って行くと「大天守台」と呼ばれる所に出る。
大天守台
確かに天守台の形はしているが、
本当にこんな奥まった所に天守があったとは信じられないが・・・。
大天守台上
周りが石塁が一部残ってやや高くなっている。
大堀切
「大天守台」の奥
(高尾山へ向かう尾根)には、岩を削り取った猛々しくて大規模な堀切があった。この堀切は凄い。深くて、しかも広すぎるので全体が写せない。
八王子神社から少し下った辺りからの眺望 ~クリックにて拡大画面に~
八王子城址からの眺望はあまりよくなく、
かなり広い眺望がきく所はここだけである。やや霞んでいるのが残念。天気が良ければ新宿の高層ビル、さらには筑波山なども見えるらしい。
金子丸
金子家重が守っていた曲輪で、
古道は、ここを通らないと上へ行けないようになっていた。
金子丸下の段曲輪(左側)と土塁(右側)