復元天守
戦国史上最大の城域面積を誇る巨大城郭
別名
小峯城
所在地
神奈川県小田原市城内ほか
形状
平山城
現状・遺構等
現状:小田原城址公園、市街地他
遺構等:【近世】復元天守、復元銅門、復元常磐木門、石垣、水堀、石碑、説明板
【中世】空堀総構え(そうがまえ)の一部:大堀切、土塁、郭跡、説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和13年8月8日、追加指定:昭和34年5月29日、52年5月4日
指定理由:中世最大の城郭であり江戸時代の縄張りとともにその遺構がよく残っており貴重
面積:22万892㎡
資料館:小田原城天守閣の中に関係資料を展示
満足度
★★★★☆
訪城日
1992/06/25
2004/06/30
2008/06/25
2009/11/05
歴史等
小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃のことと考えられている。
15世紀末の延徳3年(1491、諸説あり)、駿河興国寺城主の北条早雲
(伊勢新九郎長氏)は、伊豆国内の内紛に乗じて堀越公方館の足利茶々丸を攻め滅ぼした。
その後、諸豪族を従え、伊豆一国を手中に収め、伊豆韮山城を拠点とした。
次に早雲は相模をターゲットにしたが、相模には名将の誉れ高い大森氏頼が難攻不落の小田原城に拠っており、
さすがの早雲も手をこまねいていた。
しかし、明応3年(1494)8月、氏頼が病没し、氏頼の子藤頼が跡を継いだ。藤頼は父氏頼と較べると凡将で早雲にはくみしやすかった。
そして、明応4年(1495)、早雲は、鹿狩りと称して、ひそかに箱根山中に兵をしのばせて、
小田原城に夜襲をかけ城を乗っ取ることに成功した。
以後、小田原城は相模全土掌握の為の有力な橋頭堡となり、のちには後北条氏の関東制覇のための一大根拠地として機能する。
早雲は韮山城から動かなかったが、
早雲の子氏綱は小田原城を本拠とし、氏綱-氏康-氏政と後北条氏は版図を広げ、ついには関八州の覇者となった。
その間、小田原城は拡張を続け、ついには城下町全体を内部に持ち、総郭に囲まれる日本城郭史にも類例のない大城郭都市へと変貌していった。
上杉謙信も武田信玄もこの城を攻めあぐね、撤退を余儀なくさせられている。まさしく難攻不落の堅城であり、この城さえあれば、
怖いものなしであった。その過信が秀吉をあなどり、20万の大軍を引き寄せることになる。
天正18年(1590)豊臣秀吉率いる大軍が押し寄せたときには、小田原城は日本史上最大規模の面積を持つ巨城となり、
その頃の外郭線は総延長12kmともいわれる。
秀吉は、小田原城を攻めるにあたって、3kmほど東南の石垣山の山上に密かに城を築き、完成したところで木を切り払った。
小田原側から見れば、一夜にして城が出現したかのようで北条方は我が目を疑うことになる。いわゆる「石垣山一夜城」
である。
ここを拠点に悠然と腰を据えた秀吉はすでに北条氏の想像をはるかに超えた存在であった。結局、長い籠城と小田原評定の末、
後北条氏は5代氏直をもって滅亡する。
徳川家康が関東に入ると、三河以来の譜代の家臣大久保忠世を小田原城主とする。江戸時代に入ると、大久保氏はいったん改易されるが、阿部、
稲葉という譜代の重臣を経て、再び大久保氏が10万石で再封され、明治維新に至った。
この間、後北条氏時代の壮大な総郭は、幕府を不安にさせると見えて、破壊され、城の規模は三の丸以内に縮小された。
明治3年(1870)に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)
の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまった。
昭和35年(1960)に天守閣が復元、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門が復元された。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「小田原城内パンフレット・
小田原城関係略年表)」他参照』
現況・登城記・感想等
小田原城は、江戸時代の「近世小田原城」とそこをも含む後北条氏の巨大城郭都市「中世小田原城址」が混在している。
近世小田原城は、天守閣・櫓門(常磐木門・銅門)、平櫓が復元され、今も馬出門枡形の整備工事の最中で(2008/06/25現在)、
江戸時代の姿が蘇りつつある。
近世小田原城も悪くはないが、小田原城といえば、やはり後北条氏の中世小田原城であろう。中世小田原城の本丸は、東海道線や新幹線を挟んで、
近世小田原城の反対側の八幡山にある。
ほとんどが破壊され、市街地の中にに埋没してしまっているとはいえ、所々に遺構が残り、
中でも小峯御鐘ノ台周辺の大堀切と土塁は実に見応えがある。その深さたるや、土塁上から12mもあるというから恐れ入る。
よくぞ残っていてくれたものだ。
このような土塁と空堀が城郭(城下町)の周囲をめぐっていたんだと想像するだけで嬉しくなってくると同時に、
関東の覇者後北条氏の実力を思い知らされた。
(1992/6/25、2008/06/25登城して)
学生時代の仲間との箱根旅行のついでに寄ってみた。
前回(2008/06/25)は、復元工事中だった馬出し門が完成していた。
また、今日は七五三で報徳二宮神社への参拝の家族連れとも重なり、大変な人出だった。
(2009/11/05登城)
ギャラリー
【近世小田原城】
小田原城址公園案内図 ~クリックにて拡大画面に~
現在の城址公園は、ほぼ本丸、二の丸である。かつては大手門から三の丸に入り、さらに馬出曲輪に入り、
銅門を経て二の丸に、さらに常盤木門から本丸に入った。
馬出門枡形復元イメージ図(現地工事案内板より) 2008/06/25
小田原市では、「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」を定め、
江戸時代の曲輪の配置を明確にすることを目標に、小田原城の整備を進めている。この整備事業の一環として、
馬出門一帯の復元工事を行っている。馬出門が復元されると、住吉橋・銅(あかがね)門と合わせて、この一帯に江戸時代の姿が蘇る。
御茶壷曲輪
御茶壷曲輪は南と西側を土塁に囲まれている。写真奥は銅門。
銅(あかがね)門 ~平成9年復元~
二の丸の正門にあたる。渡櫓門と内仕切門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持つ。
銅門枡形内から渡櫓門を
渡櫓門は、その名の由来となった銅板の装飾が映える。
復元された馬出し門
本丸東堀
本丸東堀跡は菖蒲園になっている。また、土塁斜面一面には紫陽花が。
常盤木門を本丸東堀手前(東側)から
常盤木門 ~昭和46年復興~
本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていた。周囲の多聞櫓と渡櫓を配した枡形門の構造を持ち、
傍にある巨松になぞらえてその名が付けられたという。
天守閣
江戸時代に造られた雛形や引き図を基に、大久保氏時代の三層四階の天守閣が昭和35年に復興した。尚、
天守は後北条氏時代の二重のものが、寛永10年(1633)に地震で倒壊したので、三重にして再建されたが、これも元禄16年(1703)
の地震で炎上した。3度目の天守は、明治維新まで残ったが、明治3年(1870)に取り壊された。江戸城でさえ、
2度目の焼失後は再建されなかったのに、2度も再建された天守は珍しい。東海道を見張る物見としての役目が重視され、
特別に許されたのであろう。「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)参照」
天守閣上から石垣山を
こんなすぐ目の前の山上に、総石垣の城郭が突然現れたら、誰しも驚くよねえ。
【中世小田原城】
近世小田原城も悪くはないが、小田原城といえば、やはり後北条氏の中世小田原城であろう。
中世小田原城の本丸は、東海道線や新幹線を挟んで、近世小田原城の反対側の八幡山にある。
八幡山
(後北条氏時代の本丸)
右正面の山。こちらより、急崖で堅固な感じがするね。それにしても、
小田原も随分山の上まで家や学校が建っているよねえ。若いとはいえ、毎日の通学は大変そうだ。
小田原駅前(新幹線口)の北条早雲像
小田原城と言えば「北条氏」、「北条氏」と言えば、やっぱり、箱根を越えてやって来たこの人「北条早雲」
でしょう。
八幡曲輪跡
小田原駅(新幹線側)の近くにある「城山中学校入口信号」のところに、この「八幡曲輪碑」がたっている。
近世では「八幡曲輪」と呼ばれた武家屋敷地で、東西に延びる坂道には中堅武士の屋敷があった。後北条氏時代には、
この上の城山が中核であった。
小峯御鐘ノ台周辺の遺構の図 ~クリックにて拡大画面に~
ほとんどが破壊され、市街地の中にに埋没してしまっているとはいえ、所々に遺構が残り、中でも
「小峯御鐘ノ台の大堀切と土塁」は実に見応えがある。小峯御鐘ノ台大堀切は、東堀と、現在道路になっている中堀、そして、
その西側にある西堀の3本の堀切全体の名称である。この堀切は、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断し、敵の攻撃を防御したもので、
後北条氏時代末期に構築されたもので、小田原城の西側を防衛する最も重要な場所であったと考えられる。
小峯御鐘ノ台大堀切東堀の土塁①
このような大規模な土塁と空堀が城郭(城下町)の周囲をめぐっていたんだと想像するだけで嬉しくなってきて、
ついつい何枚も写真を撮ってしまった、それらの何枚かを紹介。
小峯御鐘ノ台大堀切東堀の土塁②
小峯御鐘ノ台大堀切東堀①
この見事な大堀切。ついつい見とれてしまった。この東堀は、幅が約20~30m、
深さは土塁の頂上から約12m、堀の法面は50度という急勾配だというから恐れ入る。空堀としては全国的にも最大規模のものといえる。
発掘調査によれば、障子堀や土橋状の掘り残し部分のほか、横矢が設けられていることが確認されたとのことである。まさに、「北条氏の城だ」
と嬉しくなってくる。
小峯御鐘ノ台大堀切東堀②
これだけの見事な大堀切が残っているとは想像だにしていなかった。この写真は、
堀底近くから撮ったものであるが、「素晴らしい」と勝手に満足!!
小峯御鐘ノ台大堀切東堀③
この折りのある土塁と空堀も見応え充分だ。