伝・館跡に設けられた碑と説明板
足利義政の弟政知が鎌倉に入れず留まった館、茶々丸悲劇の舞台に
別名
堀越御所(ほりごえごしょ・ほりこしごしょ)
所在地
静岡県伊豆の国市四日町・寺家
形状
館
現状・遺構等
現状:公園、宅地 【国指定史跡】
遺構等:碑、説明板
満足度
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訪城日
2004/12/25
歴史等
鎌倉幕府にとって代わった室町幕府は、京都に本拠を構えたが、武家政権の中心地であった鎌倉の存在が重要であったため、
鎌倉公方という役職を定め、足利将軍家の分家をその家格として定め、東国の押さえとした。
「*永享の乱」により、鎌倉府は、一度は4代90年余で壊滅し、その後「*結城合戦」のあと、関東の地は管領上杉氏に支配されたが、
争乱は治まらず、足利幕府は、宝徳元年(1449)4月永寿丸を鎌倉公方に復権させ成氏と名乗らせた。
ところが、成氏は、管領上杉氏と常に対立し、享徳3年(1454)管領憲忠を謀殺した。時の将軍義政は鎌倉公方の強大化を恐れ、
成氏追討を命じた。成氏は戦いに敗れ下総古河に落ち延びた。
鎌倉公方の終わり古河公方の始まりである。
幕府は、古河公方に対抗すべく長禄元年(1457)12月、8代将軍足利義政の弟政知を関東管領に任命した。政知は鎌倉に入るべく試みたが、
鎌倉は上杉氏に支配されており鎌倉公方を望んでいないこと、又、成氏の勢力も強大であったため、鎌倉に入れなかった。
そこで幕府の命により伊豆の韮山に留まり、長禄2年(1458)新たに館を築いた。堀越公方の始まりであり、その館が堀越公方館である。
延徳3年(1491)政知が57歳で病没し、長子茶々丸が後を継ぐが、政知の後妻との世継問題で内紛が絶えず、茶々丸は継母、義弟、
重臣等を殺害、御所は内乱状態になった。これを知った興国寺城の北条早雲は、伊豆に侵攻すべく御所を急襲した。
茶々丸は一旦御所の裏山に築かれた詰めの城・守山城に逃れるが、
同年10月11日、守山の麓にある願成就院で自害し(逃亡して、1498年甲斐で捕捉され、殺害されたとする説もある)、
堀越公方は33年で滅亡した。
茶々丸の墓が願成就院の本堂裏手にある。
『歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)参照』
【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。
前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円
(6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、
将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、
翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。
【結城合戦】
永享11年(1439)結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・
永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月、攻防8ヶ月の末、結城城は陥落した。春王丸と安王丸は殺されたが、
まだ8歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された。
現況・登城記・感想等
茶々丸の堀越公方御所急襲は北条早雲が関東地方への侵攻の第一歩と云えるものであろう。
早乙女貢の「北条早雲」や司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んで、この「堀越公方館」と「守山城」がどんな所か楽しみにして来た。
結構広い広場に館跡の碑があるだけではあるが、その戦に想いをはせて見るとなんとなく・・・。
すぐ裏に詰めの城・守山城がある。
また、近くにはかの悪名高き北条政子の産湯の井戸なるものもあった。ここ韮山は、「源頼朝」と「北条早雲」であり、「鎌倉時代」と
「戦国時代」という2つの歴史が同居している町だということを改めて感じた。
(2004/12/25訪れて)
ギャラリー
伝堀越御所の範囲(現地説明板より)
北条政子産湯の井戸
館跡の碑のすぐ近くに北条政子産湯の井戸が。