調度丸から桜馬場下の5段石垣を
畠山氏が築城、上杉謙信により開城、その後前田利家は小丸山城へ移るまで居城
別名
松尾城
所在地
石川県七尾市古城町
形状
山城(標高:380m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、石垣、土塁、空堀、石碑、説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和9年12月28日
指定理由:市街地南東方の通称城山一帯に広がりをもつ中世山岳城跡で、室町時代、能登の守護職畠山氏の居城。郭、
石垣など遺構の保存状態は良好
面積:6万3,679.32㎡
資料館:城山の麓に七尾城資料館(市立・古屋敷町)があり、関係資料を展示
満足度
★★★★★
訪城日
2005/05/05
歴史等
七尾は古代から能登の中心として栄え、国府、国分寺が置かれていた。室町幕府の三管領の一家、
畠山氏の流れを組む能登畠山氏初代畠山満慶が、応永15年(1408)に能登守護になり正長年間(1428~1432)
頃にこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。七尾とはまさに7つの尾根(松の尾、梅の尾、竹の尾、菊の尾、虎の尾、亀の尾、龍の尾)
を意味し、その複雑で急峻な地形に守られていた。その後戦国期に入ってから、次第に拡張、増強され、
以後約150年間にわたっての領国支配の本拠となった。
畠山氏は、名門であり、地理的にも他から離れていることもあり、戦国時代になっても、大きな争いに巻き込まれることなく、
比較的安定した治世が続き、京の文化人たちが流入し、文化の華を咲かせたという。特に、永正・天文(1500年代前半)
の時代は最も政治的にも安定し、文化が栄えたという。そうなると主君は時代を見る目を失い、軟弱になる。そこへ温井、遊佐、
長といった重臣たちの暗闘が畠山氏を追い詰めていく。ついには畠山義続・義綱親子は、重臣達によって追放され、上杉謙信のもとへ亡命し、
代わって幼い義慶(義綱嫡男)が擁立され、畠山氏は次第に傀儡化された。
義綱は謙信の後押しを受けて七尾城を攻めるが、攻め切れない。
天正4年(1576)織田信長征伐のために兵を挙げた謙信は、日本海沿いを南下し、越中・加賀を平定して、天正5年(1577)
七尾城も包囲した。籠城は1年にわたって持ちこたえた。しかし、最終的には遊佐続光の内応によって、
徹底抗戦を主張した長氏一族百余人が殺害され、同年9月13日に開城された。
その後、謙信は、七尾城攻略の半年後、越後春日山城で病死した。そして、天正9年(1581)
織田信長による北陸制圧後に能登一国を与えられた越前府中城主前田利家は七尾城を居城とし、翌10年(1582)
から大規模な改造が実施された。しかし、既に山城の時代ではないことを知っていた利家は、天正17年(1589)海沿いに小丸山城を築き、
七尾城は廃城となった。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「現地案内板」参照』
【日本五大山城】
七尾城は典型的な山城であり、江戸時代以降も存続していた山城の代表格「日本3大山城」に対し、
戦国期にその役割を終えた山城を選りすぐった「日本五大山城」の一つにも数えられています。
日本五大山城
月山富田城
七尾城
越後春日山城
小谷城
観音寺城
小谷城の代わりに八王子城を入れて日本5大山城という場合もある。
現況・登城記・感想等
七尾城は中世の典型的・代表的な山城で、素晴らしい城址である。とりわけ、
調度丸から見上げる桜馬場下の5段の石垣の光景には感動する(^^)
本丸近くまで車で登ることが出来たが、到着まで、「本当に城址があるのだろうか?」と、少々不安にさせられるほど、
くねくね曲がる道を随分長い時間を掛けて登った。歩いて登ったら大変な体力と時間を要するであろう。
まずは早速、写真で何度も見たあの5段になっている桜馬場の石垣の方へ向かった。その石垣は野面積みではあるが、
周りの木々との調和が素晴らしく、本当に絵になる石垣である。これが見たくて登城したようなものである。
何枚も写真をとってから、その石垣の側を登って本丸の方へ行った。本丸の石垣も3段からなっており、なかなか見応えのあるものである。
本丸から遥か眼下に見える七尾市内・七尾湾・能登半島の眺望も実に素晴らしい。
小丸山城址も見えるらしいが残念ながらどれがそれなのか分からない。
次に、桜馬場を通って、九尺石というのを見てから二の丸へ向かった。さらにその奥に三の丸等々遺構がかなりあるようだが、
かなり下の方まで降りなければならないのと、時間的なこともあり諦めた。
やはり、山城は下からゆっくり遺構を見ながら登って来るべきだったかな。とはいえ、 1日で何箇所もの城巡りをしようという身には、
登ってくるのはやっぱりきついかな。(2005/05/05登城後)
ギャラリー
七尾城絵図(現地説明板より)
調度丸から桜馬場下の5段の石垣 ~クリックにて拡大画面に~
本丸下駐車場から調度丸へ歩いて来ると、
あこがれの石垣「桜馬場北側下の石垣」が見えてくる。この石垣は5段に組まれ七尾城でも最大規模のものである。ただ規模が大きいだけでなく、
何とも絵になる。私は、これが見たくて登城したのも同然。
桜馬場北側の石垣を横上から撮る
桜馬場
この曲輪は、東西45m、
南北25mあり、軍馬の調練を行ったなどと云われる。
遊佐屋敷跡
本丸への階段と本丸の石垣
この本丸の石垣も三段からなっており、なかなか見応えがある。
本丸
本丸には城址碑が建っている。
南端は一段高くなっており城山神社が祀られている。
本丸から七尾湾方向を望む
本丸から遥か眼下に見える七尾市内・七尾湾・能登半島の眺望も実に素晴らしい。
小丸山城址も見えるらしいが残念ながらどれがそれなのか分からない。
本丸西側の土塁
本丸西側には土塁があり、裏側には石垣が積まれている。写真は裏側から撮ったもの。
温井屋敷跡の九尺石
桜馬場から二の丸方面へ行く途中温井屋敷跡に、この九尺石というのが崖っぷちにある。
この石は城の保護の要石で、石の大きさにちなんで、この名がある。