美濃 岩村城(恵那市)

本丸虎口石垣(六段壁)

信長に磔にされた「女城主(信長の叔母)」の城、日本三大山城の一つ

別名

霧ケ城

所在地

恵那市岩村町城山

形状

山城(標高:721m、比高差:180m)

現状・遺構等

現状:城址公園(山林)
遺構等:曲輪、石垣、堀切、井戸(霧ヶ井他)、移築旧藩校 (知新館正門)、模擬櫓、模擬城門、模擬土塀、石碑、説明板、 遺構解説板

満足度

★★★★★

訪城日

2004/08/12

歴史等

岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍源頼朝の重臣加藤景廉が文治元年(1185)に岩村遠山荘地頭に補せられたのに始まる。 景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山の改め、以後遠山氏が代々居城した。戦国時代の遠山氏は「遠山七頭」 と云われる一族の結束を保っていたが、その一族の本家が岩村城に拠る岩村遠山氏であった。
岩村は三河、尾張、信濃の3国と美濃を結ぶ街道の結節点に位置しており、織田氏・徳川氏・武田氏の3勢力の境目にあり、 その中で微妙なバランスをとっていた。
ところが、元亀元年(1570)頃から、織田氏・武田氏の間が緊張してきた。
元亀年間(1570~73)の岩村城主は遠山景任で、その妻は織田信長の叔母である。元亀2年(1571)遠山景任が病死したが、 景任とその妻、すなわち信長の叔母との間には子供がなく、信長の第四子御坊丸を遠山氏の養子としていたが、御坊丸がわずか3歳であったため、 景任の未亡人(信長の叔母)が実質上の岩村城主となった。
元亀3年(1572)、武田信玄が上洛の軍を起こした。武田軍は、山県昌景の先鋒隊と信玄本隊との軍団を2手に分けて、 東三河に向けて出発したが、この西上に際しては、もう一つ別に、信濃飯田城の城将秋山信友率いる信濃勢の別働隊があり、 この別働隊は東美濃へと侵攻し、岩村城を攻撃した。しかし堅牢な山城はなかなか落ちず、一方信長も援軍を出せずにいた。 4ヶ月を超す籠城戦で心身ともに弱っていた女城主に対し、敵将信友が和睦の条件に、「女城主を妻に迎え御坊丸も守る」と申し入れた。 開城した信長の叔母は信友と結婚したが、御坊丸は人質として甲府へ送られた。
天正3年(1575)織田・徳川連合軍は長篠合戦で武田勝頼を破ると、信長はただちに嫡男信忠に岩村城を攻めさせ、 5ヶ月余りにわたる包囲ののち開城させた。開城の条件は、籠城兵の助命であったが、信長は籠城兵を皆殺しにし、さらに叔母を許さず、 彼女は夫や三人の武将と共に逆さ磔刑に処せられた。彼女はこの時、激しく泣き悲しみ、信長に対する呪いの言葉を絶叫して息絶えたという。 女城主の悲惨な最期であった。
その後、信長は河尻秀隆を岩村城主とし、秀隆は城の大改築を行なった。天正10年(1582)河尻秀隆の甲斐移封後は森蘭丸、 その兄の森長可が相次いで居城したが、森蘭丸は同年の本能寺の変で討死し、また森長可も天正12年(1584)小牧長久手の戦いで討死した。 次いで森蘭丸・長可の末弟忠政が岩村城主となり、近世城郭に改築した。
慶長5年(1600年)田丸直昌が4万石で入封したが、関が原の戦いで西軍に属したため除封となり、代って松平(大給) 家乗が城主となり2代、その後、丹羽氏5代を経て、元禄15年(1702)信濃小諸から大給松平分家の松平乗紀 (のりただ)が入封し、以後、松平氏7代の居城として明治維新を迎え廃城となり、後明治6年(1873)に取り壊された。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」参照』

日本三大山城

岩村城は、大和高取城 備中松山城とともに日本三大山城のひとつで、 江戸諸藩の城郭の中で岩村城は日本一高いところにある山城、大和高取城は日本一比高の高い城で、備中松山城は天守が現存する山城と、 それぞれ日本一の特徴を持っている。

現況・登城記・感想等

岩村城と言えば、武田氏と織田氏の領土の境目にあり争奪戦のあった城、そして女城主(織田信長の叔母)の城として有名である。また、 信長が本能寺の変の80日前に宿営した城でもある。
そのような歴史と城址の写真を見て、以前から是非登城したいと思っていた城址である。そして、遂に叶った(^^)
城址は、期待通り曲輪や石垣、石畳、井戸等々の遺構が良好に残る素晴らしい城址であった。
岩村城址の見どころは、本丸周辺をはじめとする石垣群であろう。特に、本丸虎口石垣の六段壁は見事である。
ただ、今回の登城は
①真夏の盛りのため雑草や木々の葉に隠れ、大手門周辺の石垣をはじめとして見辛かった遺構も多かったこと。
②麓の登城口が見付からず、私の山城登城の鉄則『山城は麓から登城すべし』が守れず、 本丸すぐ下の出丸跡にある駐車場まで車で登ってきてしまい、本丸から下山していくという順路になってしまった。
の2つが心残りだ。
冬期の草や葉がない頃に、麓からじっくり時間を掛けて再登城したいものである。
また、超長期計画とのことではあるが、「本物の城復元」を主体に城と城下町の復元・再現の計画があるそうで楽しみだ。
しかし、「超長期計画」って、どれくらい??
(2004/08/12登城して)

ギャラリー

縄張略絵図(現地説明板より)   ~クリックして拡大画面に~


藤坂の険
藤坂は険しい急坂で岩村城守備の前衛の役を持ち一の門に至る約300mをいう。途中で大きく左折するが、 この地点を初門、又は仮御門と称していた。戦争となるとただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣地としたが、 ここから城下町を一望することが出来るので、敵の動静も知る事が出来た。

大手一の門
藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが岩村城の本城である。一の門は櫓門(二階建て)で、 左側に番所があり平時でも監視の役人が出入りの時に厳重に調査してから通した、一の門は、 岩村城守備の第一線で櫓門の上から城下町を一望でき、町の動静については昼夜を問わず兵が監視に当っていた。

土岐門
土岐坂の突き当たりの石垣の約10m幅は岩村城で最も古く、中世末期のものといわれている。

大手門・三重櫓・畳橋(解説版の絵から)
畳橋は、敵が攻めてくると橋板をとってしまうので、その名がある、大手門は正門であり外枡形を構える。 枡形西側の平重門を入ると正面に八幡曲輪西端の石塁が高く立ちはだかり右折すると大手門がありその右側には三重櫓が建っていた。 この三重櫓は天守閣の如く偉容を誇り、城下町からも見栄えがした。   

畳橋
雑草と木の葉で、かなり石垣が隠れてしまい、畳橋・大手櫓門・大手三重櫓を別々にしか撮れなかったが、 下の三枚の写真を合わせると、上写真のイメージが出来上がると思うが、どうでしょうか??

大手櫓門

大手三重櫓

竜神の井
岩村城最大規模の井戸で、昭和60年に創築800年を記念して復元された。 昭和62年に岐阜県の名水50選に認定された、今も絶えることなく、味は天然の美味さがある。

霧ヶ井
この井戸は城主専用のものでお堂の中にあった。 伝説によると敵が攻めて来た時城内に秘蔵した蛇骨を霧ヶ井に投入すると惣ちにして雲霧が湧き出して全土をおおい、 敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみそこに城兵が突入して勝利を得たといわれている。 霧ヶ井はどんな日照りがつづいても決して水の涸れない不思議な井戸で江戸時代に百日余り続いた日照りにも水は豊富であったという。    

八幡櫓跡とそこに建つ絵の看板!
それにしてもちんけ!。しかし、これでも城下から見ると結構様になっているようだから面白い!?
 

菱櫓
山の地形に合わせて石垣を積んだので菱形になった山城独特のものである。 この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。菱櫓は全国城郭にも、その例はあまりなく、 中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。

㊧二の丸櫓門跡、㊨二の丸跡
草茫々で中に何とか入っていくのがやっと・・・。
 

【本丸周辺】
本丸虎口石垣(六段壁)
岩村城址の代表的な遺構であろう。実にかっこいい。

本丸埋門跡
本丸に入る搦手門であり、埋門になっている。この門の石垣は、野面積み・打込ハギ・ 切込ハギの3種類を一度に見ることが出来る。これは、岩村城の変革を示す貴重な遺構である。切込ハギは享保3年(1718) の大地震のあと修築したものである。また、門の左側の石垣は土岐坂の石垣についで古いものである。

本丸への虎口
埋門を入ってから、さらにこの虎口石段を登って本丸へと。

本丸
本丸は海抜721mある。東曲輪からも二の丸からの虎口も埋門を通してやっと進入できる。

本丸からの眺望
周りに見える山々が、この城が如何に山深い所にあり、且つ高い所に建っていたのかを物語っている。

本丸東の枡形虎口

本丸東の平重門
 

本丸西側の高石垣
この本丸西側の高石垣も見事なもので見応え充分だ。

本丸南下の帯曲輪
本丸の南下には帯曲輪がある。この本丸南側の石垣も良好に残り、なかなかのものだ。

【出丸】
㊧太鼓櫓跡、㊨出丸跡に建つ土産物屋さん
出丸は本丸南部の防衛の役目を持ち、東曲輪・帯曲輪と共に本丸を防衛していた。櫓が2つ、多門が3つあり、 門は1つのみで帯曲輪からしか入れなかった。櫓は二重櫓と太鼓櫓があり、城下町がよく見える位置にある。太鼓櫓には大太鼓があり、 非常の際には城下に知らせた。今は、出丸跡は駐車場となり、土産物屋さんの建物が建っており、「女城主の里」の幟が一杯はためいていた。
 

【南曲輪】
本丸南下の突き出た尾根にある遺構で中世の山城時代の遺構である。近世城郭へと改築するにあったって、 中世の遺構は切り捨てられ、山の中に遺構が残り、削平地と堀切、土塁、土橋が確認できるとのことであったが、 あまりの藪で入って行くのは止めた!

【山麓の藩主邸跡】
藩主居館跡

旧藩校・知新館正門(移築)

太鼓櫓および御殿門(模擬)
 

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コメント

お洒落なオヤジ(2006/02/08)

キムタクさんへ
先日はありがとうございました!
おー愛妻とのお城巡り。。いいですなー!!

友情出演の助さん(2007/05/10)

2007年5月9日の日経新聞夕刊(大阪)版の夕&Eyeの旅欄に岩村城の紹介記事が載っていました。標高は日本一とあります。城下には築200年から300年の家が残る街並みがあり、昔にタイムスクリップした気分であると記者は書いています。
また、5月10日の同新聞朝刊の文化欄には千名城巡りをされた飯塚修さんによると、本城は「心の琴線」を震わせた5番目の城であると言われています。因みに、1番は熊本城、2番は津和野城、3番は但馬竹田城、4番は岡城とあります。

タクジロー(2007/05/11)

助さん
情報ありがとうございます。
「心の琴線」を震わせた城の2番手に、津和野城がくるのは意外ですね。津和野城に、何かよほどの想い入れがあるのでしょうね。
熊本城・竹田城・岡城の順は、私も同様です。
また、いろいろ教えて下さい。
タクジロー

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