大和 高取城(高取町)

天守台石垣(手前)と本丸石垣(奥)

日本三大山城の一つ、豊臣秀長大和支配時は郡山城の詰の城、植村氏230年の居城

別名

越智城

所在地

奈良県高市郡高取町高取

形状

山城(標高583m、比高390m)

現状・遺構

現状:山林(国指定史跡)
遺構等:曲輪、石垣、堀、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★★

歴史等

南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が正慶元年(1332)に築城したといわれる。 当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。永正15年(1519)越智氏は越智党の子嶋氏が守る高取城を攻め取り、以後、 越智氏の本城となる。
天正11年(1583)越智氏滅亡後、郡山城の詰の城として筒井順慶の家臣・ 松蔵氏が入城。
天正13年(1585))筒井氏が伊賀国上野に転封となり、大和国は豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)の配下となり、秀長は郡山城に入城し、 高取城には秀長の家臣・本多正俊が入り、城を大改修した。秀長死後、高取城主となった。
寛永14年(1637)、嗣子がいないことから本多家が断絶後、同17年(1640)植村家政が2万5千石で入封し、以後、 植村氏が14代230年在城した。
『日本城郭大辞典(新人物往来社刊)参照』

日本三大山城

高取城は、岩村城 備中松山城とともに日本三大山城の一つで、高取城は日本一比高の高い城、岩村城は (江戸諸藩の城郭の中で)日本一標高が高いところにある山城で、備中松山城は天守が現存する唯一の山城と、 それぞれ日本一の特徴を持っている。

訪城日

1996/05/12
2007/11/18

現況・登城記・感想

車でかなり上の方まで登れる。そこからはしばらく山道を歩いて登って行くと見事な石垣群が次々と現れ、圧倒される。また、 それらの石垣群がほとんど復元整備もされていないことで、かえって往時を忍ばせてくれるような気がする。
こんな山奥にこれだけ大量の石を運ぶのは大変なことであったろう。
本丸まで登ると、結構多くの人がいた。今では、格好のハイキングコースになっているのであろう。
何といっても日本三大山城のひとつ、私も本来なら山麓から歩いて登るべきであろうが、途中から歩いて登って来ただけでも、 この城の素晴らしさは充分感じ取ることが出来た。実に素晴らしい山城であった。
(1996/05/12、2007/11/17登城して)

ギャラリー

千早門跡
高取城 千早門跡

大手門跡
高取城 大手門跡

十三間多聞跡
高取城 十三間多聞跡

二の丸跡
高取城 二の丸跡

十五間多聞跡から本丸下曲輪へ(右石垣は太鼓櫓跡)
高取城 十五間多聞跡

㊧新櫓、㊨太鼓櫓跡(本丸下曲輪にて)     ~クリックにて拡大画面に~
高取城 新櫓と太鼓櫓跡

天守台石垣(左)と本丸石垣(右)  ~クリックにて拡大画面に~
高取城 天守台と本丸石垣

天守台石垣(手前)と本丸石垣(奥)  ~クリックにて拡大画面に~
高取城 天守台と本丸石垣

本丸への枡形虎口
高取城 本丸虎口枡形

本丸への枡形虎口(本丸上から撮影、一番奥の石垣は天守台)
高取城 本丸虎口枡形

本丸(右は本丸への虎口石垣、中央奥は天守台)

天守台穴蔵入口と前に残る井戸

七つ井戸から新櫓を見上げる  ~クリックにて拡大画面に~
新櫓横の虎口から七つ井戸方面は大変な急崖になっており、石垣が何段にもなっており、 かなり崩れている所もある。
高取城 七つ井戸方面から新櫓を見上げる

七つ井戸の一つ
七つ井戸のすぐ下の所に数台停めることが出来る駐車場がある。
高取城 七つ井戸

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