復元された追手東隅櫓(右)と追手向櫓(左奥)
筒井順慶が築城、豊臣秀長が百万石に相応しい城に大改修、柳沢氏が明治維新まで
別名
犬伏城
所在地
奈良県大和郡山市城内町(近鉄郡山駅の北約500m)
形状
平城
現状・遺構等
本丸跡に天守台、二の丸・毘沙門曲輪・法印曲輪・陣甫曲輪等の石垣、土塁、内堀、中堀、外堀の一部、二の丸・緑曲輪・
麒麟曲輪跡は郡山高校敷地、三の丸は市街地、
【復元】追手門(梅林門)・追手向隅櫓・追手東隅櫓、多聞櫓・続土塀・続多聞
満足度
★★★★☆
訪城日
1996/01/14
2006/09/03
歴史等
鎌倉時代の終り、正安2年(1300)には薬園庄(東大寺領庄園のひとつ)から「郡山庄」が独立した。こうした郡山の地には、中殿、
辰巳殿、薬園殿、東殿、向井殿といった「郡山衆」と称された地侍たちが割拠していた。こうした郡山衆は、だんだん力を蓄え、それぞれが
「カキ上ゲ城」と呼ばれる土を掻き揚げて築いた土塁をめぐらした館を構えていた。郡山城は明応年間(1492~1501)、
土豪の小田切氏が築城、4代にわたり居城したと云われるが定かではない。郡山衆は、筒井城に本拠を置く筒井党に属したり、
また南和の越智氏に属したりと離合集散を繰り返しながら戦乱の世を生き抜いていった。そうした中で、筒井順慶が越智氏との抗争に勝ち抜き、
統一されていった。
しかし、松永久秀が大和に侵入してくると離反するものが増えていき、一時期筒井城を捨て、
山中の椿尾城へ拠点を移した。
しかし、天正5年(1575)、織田信長の援助を得て、久秀を信貴山城にて爆死させると、郡山衆は順慶の傘下に組み込まれた。
天正8年(1580)筒井順慶が、織田信長に大和の支配を許され、筒井城から郡山城へ移ってくる。
同年、信長は破城令を出し、大和でも郡山城以外は破却することを命じた。この時に、筒井城も破却されている。
こうした中、順慶は早速翌9年(1581)から明智光秀の監督を受け郡山城を本格的な近世城郭とするため大規模な普請に着手した。その時、
廃城となった多聞山城の巨石を運んだり、
奈良中の大工を総動員したという記録が残っている。
普請着手からわずか3年後の天正12年(1584)には順慶は志なかばで死去し、その跡を継いだ定次も、翌13年(1584)
豊臣秀吉の命令で伊賀に国替えとなり、秀吉の弟・秀長が大和・和泉・紀伊3ヶ国100万石の大大名として入城し、
それに相応しい大幅な拡張工事が城下町の整備とともに急ピッチで進められた。その際、紀州根来寺の大門を運んで城門とし、また、
石垣の石が足らず大和国内から庭石や礎石から石地蔵・五輪塔などに至るまで集められ転用された。
同19年(1591)秀長死後、養子の秀保が継いだが文禄4年(1595)に17歳で夭折し、秀長家は断絶した。
そのあと増田長盛が入城したが、関ヶ原の戦で西軍に加担したため改易され、城を徳川方に明け渡し退去した。城は一旦廃城とされ、
その材木などは炎上落城した伏見城再建に使われている。
その後、幕府代官大久保長保、次いで山口直友に預けられた。こうして、しばらく代官支配の時代があったが、名家・
筒井家の断絶を惜しんだ徳川家康が筒井定慶を召しだし1万石を与え、郡山城を預けた。しかし、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、
大坂方の攻撃を受け定慶も逃亡の後自害する。こうして筒井家も滅び、城も混乱の中で荒れ果てた状態であった。
その後、元和元年(1615)三河刈谷城主・
水野勝成が6万石で入封し、大坂の陣で戦火を受けた城を修復に掛かったが、元和5年(1619)10万石で備後福山に国替えとなった。
次に、松平(奥平)忠明が入部しさらに整備を進め、ほぼ復興がなった。
その後、本多政勝、松平(藤井)信之、本多忠平と城主が交替したが、享保9年(1724)、柳沢吉保の子・吉里が入封し、以後、
柳沢氏が6代146年在城し明治を迎えた。
『参照:郡山城内柳沢文庫印刷物「郡山城と城下町」、日本城郭大辞典(新人物往来社刊)』
現況・登城記・感想等
近鉄の線路前から水堀越しに見える追手門(梅林門)・追手向隅櫓・追手東隅櫓・多聞櫓・土塀の光景は、復元建造物とは云いながらも、
漆喰による白壁でなく、形も武骨で、城郭というより中世の城郭寺院の雰囲気を醸し出していて実に良い。
昭和55年から築城400年を記念して復元されたそうである。
「秀吉の名補佐役・秀長がもう少し長生きをしていれば、豊臣家の末路もあのような結果にならなかったのでは」などと往時を思い巡らしながら、
城址を見て廻った。さすが100万石大名・秀長のお城である。高取城もそうであるが石垣の素晴らしさは格別のものがある。特に、
本丸の石垣は素晴らしい。しかし急造のためとはいいながら、石地蔵・五輪塔がかなり転用されているのは、
時代が時代とは云いながらも何となく物悲しいものがある。
また、各所に残っている堀も素晴らしい。郡山市の市街地の真ん中にありながら、遺構がよく残っているのには感動した。
ただ私の勝手な言い分だが、本丸跡に「柳沢吉保」を祀った柳沢神社があるのは嫌だなあ!?
(1996/01/14、2006/09/03登城して)
ギャラリー
近鉄橿原線線路脇に残る桜御門
まずは、近鉄橿原線線路を挟んで城と反対側に残る桜御門を見てから登城。今日は、旧来の友人・
増っさんに付きあってもらっての登城です。
鉄門跡(右折れになっている)
毘沙門曲輪と二の丸間の水堀(内堀としてはかなりの規模である)
復元された追手向櫓と追手門(それほど大きくはないが、なかなかかっこいい)
追手向櫓と追手門に続く多聞櫓
昭和62年(1987)復元された。追手門を守るための櫓で、一階は70.74㎡、二階は20.25㎡ある。
7つの窓のほかに矢狭間がが10ケ所、鉄砲狭間が10ケ所ある。
追手門
追手門は秀長が入城したときに、この場所に築かれたと思われる。大坂冬の陣で攻撃を受け焼失した。その後、
元和4年(1618)に松平忠明が入封したとき再建され、一庵丸門と呼ばれた。その後、享保9年(1724)柳沢吉里が入城後、
梅林門と名を変えた。明治維新で全ての建物が取り壊されたが、昭和58年(1983)に市民の寄付などにより復元された。
追手門復元に使用された台湾産檜
樹齢1400年の巨木で、追手門復元にあたり千古不抜の山中より伐木。
追手東隅櫓
昭和59年(1984)に復元された。この櫓が今の名に替えられたのは柳沢氏が入城後で、それまでは
「法印斜曲輪巽角櫓(訪印ななめのくるわたつみすみやぐら)」と呼ばれていた。秀長入城時に、
留守の多かった秀長に代り領内を治めていた筆頭家老の桑山一庵法印良慶の屋敷がこの曲輪にあったので、
法印曲輪または一庵丸と呼ぶようになった。構造としては、窓が5つ、石落としが2ヶ所、鉄砲狭間が6ヶ所設けられていた。
元奈良県立図書館
明治41年、奈良県技師・橋本卯兵衛の設計により建てられたもので、木造瓦葺二階建てで、
昭和45年にここ郡山城址法印曲輪に移築された。
玄武郭の土塁
石垣や堀があまりにも立派なので、それに目が行きがちであるが、この土塁はなかなかのものである。
毘沙門曲輪に建つ柳沢文庫
郡山藩最後の藩主の迎賓館で、現在は柳沢文庫として使用されている。
本丸・毘沙門曲輪間の堀
この堀の両側の石垣は見事であるが、今回は季節が夏で草茫々でもうひとつであった。右側写真は前回(96/
01/14)撮ったもので、その差が一目瞭然である。石垣はやはり冬場にかぎる。
本丸に建つ柳沢神社
祭神は川越・甲府城主を務めた(忠臣蔵でも出てくる)柳澤吉保。大和郡山城の柳澤家初代城主・吉里の父親。
伝天守台
天守閣は、秀長時代に建てられたが天守台に籠められた逆さ地蔵の祟りで地中に沈んだとか、
あるいは大和大地震で倒壊したといった伝説がある。しかし、この伝天守台に五層六階の天守閣は建築学上から考えて建てることは不可能であり、
もともと郡山城には天守閣はなかったというのが定説となっている。
さかさ地蔵(左)と二面石仏(右)
郡山城の石垣(特に天守台周辺)には、平城京羅城門の礎石や寺々の庭石や礎石、石地蔵、
五輪の塔などが惜しげもなく積み込まれた。さかさ地蔵や二面石仏もそのうちの一つである。
天守台上への石段
天気が良いためか、増っさんのおでこがいつもにも増して一段と輝いています。
天守台からの眺望
台所橋と竹林門跡 竹林門跡
二の丸と本丸の間に架かる橋 本丸南側の入口にあたる
表門跡(郡山高校の門前に)