二の丸南下に残る石垣
京と近江を結ぶ道路封鎖を目的に森可成によって築かれた山城
所在地
滋賀県大津市錦織(宇佐八幡社の裏山)
形状
山城(標高335m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/07/05
歴史等
宇佐山城は、永禄13年(1570)3月、織田信長が、京都と大津を結ぶ道路封鎖を目的として、森可成によって築かれた。
将軍足利義昭が信長包囲戦線の結成を呼びかけ、それに呼応して兵を挙げた朝倉義景とそれに同盟した浅井長政は、同年(元亀と改元、1570)
)6月28日の「姉川の合戦」にて敗れたが、再起の機会を窺がっていた。
その後、8月中頃、三好勢が義昭に呼応し、摂津に陣を構えた。また、石山本願寺の顕如も門徒に蜂起を呼び掛け、
伊勢長島で一向一揆が蜂起した。
信長が、それらの制圧に力をとられている隙を突いて、浅井・朝倉連合軍が3万の大軍を率いて、同年(1570)9月16日、
大津坂本口に打って出た。
宇佐山城の織田信治・森可成らは、わずか千人足らずの手勢で城から打って出て、激しい戦闘の結果、信治・可成らは戦死した。浅井・
朝倉勢は宇佐山城まで攻め攻め登ったが、城兵はよく防戦して、落城は免れた。
後に、明智光秀が一時守備したが、比叡山焼き討ち後の、元亀3年(1572)、坂本城完成とともに廃城となった。
『「別冊歴史読本5・織田信長、天下布武への道(新人物往来社刊)」、「織豊系城郭見どころ事典・織豊期城郭研究会編(新人物往来社刊)」
他参照』
現況・登城記・感想等
宇佐八幡宮の裏山(宇佐山)に築かれた山城が宇佐山城である。
宇佐八幡宮までは、結構急傾斜でデコボコの道ではあるが、車で登って行くことが出来る。
登城口は、八幡宮の少し手前にある案内板の所から、山中へ入って行くが、最初は道らしき道がなく、不安になってくるが、
しばらく登って行くと、それなりに道らしき獣道へと出る。山頂の本丸へは、
要所要所の木々に結ばれたビニール紐を目印にひたすら登ること20分ほどで到着。
本丸跡は、NHKと民放のテレビアンテナの中継基地となっており、ほぼ全域を建物で占領されていて幻滅!!
本丸の南側にも、一段低くなった、狭い削平地があるが、これが二の丸であろうか?ここもアンテナが占拠していて、またまたガクッ!!。
しかし、本丸下を、曲輪沿いに裏手へ回ると石垣が随所が残っている。特に、二の丸下東南から南側にかけての石垣は比較的良好に残っている。
この石垣が、この城の最大且つ唯一の見どころと言えるのかも・・・。
(2008/07/05登城して)
ギャラリー
登城口
宇佐八幡宮の少し手前にある案内板の所から、山中へ入って行くが、写真のように案内の矢印がどうも微妙!
最初、写真左の道を登って行ったら、宇佐八幡宮の社殿へと出た。再度、戻って、右の山中へと入って行った。
登城道①
山中へ入ったものの、最初は写真のように道らしき道がなく、不安になってくる。
登城道②
しばらく登って行くと、それなりに道らしき獣道へと出る。山頂の本丸までは、
要所要所の木々に結ばれたビニール紐を目印にひたすら登る。ビニール紐は、本当に要所にのみで、見落としやすいので要注意!
㊧本丸への階段、㊨本丸跡はテレビアンテナの中継基地
㊧登城口からひたすら登ること約20分。本丸への階段へと出る。階段下を左へ廻ると石垣の所へ出る。
㊨本丸跡は、NHKと民放のテレビアンテナの中継基地となっており、ほぼ全域を建物で占領されていて幻滅!!
二の丸?
本丸の南側にも、一段低くなった、狭い削平地があるが、これが二の丸であろうか?
ここもアンテナが占拠していて、またまたガクッ!!。左側に写る土塁下には浅いものの、堀切のように少し窪みがある。
二の丸東南下に残る石垣
本丸への階段を降り、曲輪沿いに裏手へ回ると石垣が随所が残っている。特に、
二の丸下東南から南側にかけての石垣は比較的良好に残っている。
二の丸南下に残る石垣
この石垣が、この城の「最大」且つ「唯一」の見どころと言えるのかも・・・。