本丸枡形虎口の石垣
上杉謙信の信濃出陣の拠点の城
所在地
長野県飯山市飯山城山公園(市民会館:飯山市飯山2794の裏)
形状
平山城
現状・遺構等
現状:城山公園、市民会館・武道館等
遺構等:再現門、曲輪、土塁、石垣、堀、標柱、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/10/28
歴史等
飯山城は、北信濃から越後・春日山城にいたる飯山街道を押える場所に位置する、
常盤牧の豪族泉氏の居城であった。
上杉謙信は信濃出陣の主要拠点として重視し、武田軍の脅威を打ち破って城を確保した。第5回川中島の戦いの永禄7年(1564)頃には、
謙信の創意の縄張で修築した。堅牢な城で、武田軍はついに攻落できなかった。
天正10年(1582)以降は謙信の養子景勝の居城となり、城代として岩井信能が入城した。
慶長3年(1598)上杉氏の会津移封後は、
豊臣秀吉の家臣石川光吉が代官となり、千曲川両岸を支配していた。その後、関一政が信濃長沼から3万石で入城したが、翌4年(1599)、
一政は美濃土岐へ転封となった。
慶長8年(1603)、徳川家康の6男松平忠輝が信濃川中島18万石に封ぜられると、
下野皆川の皆川広照が忠輝の傳役として、
信濃国内に4万石を加増され7万5千石を領有して入城し、飯山藩が成立した。
慶長14年(1609)広照は、主君忠輝の不行跡に連座し改易となり、翌年堀直寄が越後坂戸から入封した。
元和2年(1616)直寄が越後長岡(蔵王堂城主)
に転封になり、その後、佐久間氏・松平氏・永井氏・青山氏とめまぐるしく入転封が繰り返されたが、享保2年(1717)に本多氏が入城し、
以後は本多氏が幕末を迎えた。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の時、幕府残党の旧歩兵頭古屋作左衛門が反乱を起こして飯山城下に進撃し、戦火にさらされ、
城下の半分を焼失した。
『「現地説明板」、「さわやか信州・信州道楽パンフレット」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
飯山城址は市民会館(西の館跡)の裏山(城山公園)である。
本丸跡には葵神社が鎮座し、その手前左(北)側には櫓台の石垣が残っている。
その上に登って北側を見下ろす真下の本丸枡形の石垣がかっこいい。
枡形を通って二の丸に出ると、枡形の石垣から続く本丸石垣も見える。それほど高くはないが、苔むした石垣は見応え充分である。
飯山城は本丸を頂点に北へ二の丸、三の丸と累段になっており、その東側には、国道117号線を隔てて天然の堀千曲川が流れている。
二の丸の西側の道を北へ向かって降りて行くと飯山北高校のグラウンド(調練場跡?)に出るが、
そこから見上げる切岸と登城道は往時の面影を偲ばせてくれる。
登城前はあまり期待していなかったが、想定していたよりも遺構がよく残り、城の面影もよく残る城址であった。尤も、
上杉謙信時代のものでなく、ほとんどが江戸期に入ってからのものであろうが・・・。
(2007/10/28登城して)
ギャラリー
飯山城縄張図
本丸南側の土塁と城址標柱
本丸跡
(本丸跡には葵神社が鎮座)
本丸隅(二の丸からの虎口)
の櫓台石垣
神社の手前左(北)側には櫓台の石垣が残っている。
本丸枡形
櫓台の上に登って北側を見下ろす真下の本丸枡形の石垣がかっこいい。
本丸石垣
二の丸に出ると、枡形の石垣から続く本丸石垣が見える。それほど高くはないが、苔むした石垣は見応え充分である。
二の丸(本丸虎口枡形の石垣上から撮影)
飯山城は本丸を頂点に北へ向かって二の丸、三の丸と累段になっている。
二の丸から天然の堀・千曲川を見下ろす
三の丸
桜井戸
二の丸西下の登城道の途中にある。最初に居城した泉氏が発見したという。
切岸と登城道
二の丸の西側の道を北へ向かって降りて行くと飯山北高校のグラウンド(調練場跡?)に出るが、
そこから見上げる切岸と登城道は往時の面影を偲ばせてくれる。
弓道場前の南中門跡礎石
弓道場建設に伴う調査によって発掘された。南中門跡を盛土して保存し、その
「上に礎石を配して復元展示したものである。
市民会館西側(西の館跡)
に建つ移築城門
この門は市内丸山家に残されていた長屋門で、
丸山家旧住居解体の際に市がここに移築した。どこにあった門なのかは不明であるが、規模、構造は南中門にあわせて復元された。