山麓から城址全景を
下野皆川氏代々の要害堅固な法螺貝城も、秀吉軍の前に陥落
別名
法螺貝城
所在地
栃木県栃木市皆川城内町(公民館が建っている所が居館址、その裏山が城址)
形状
平山城
現状・遺構等
現状:城址公園、公民館
遺構等:曲輪、土塁、空堀、竪堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/06/03
歴史等
皆川氏は、小山氏初代政光の二男宗政が長沼氏の祖となった。その子時宗の長男宗員(むねかず)が、この地・
下野国都賀郡皆川荘に居館を構えた。一方、二男宗泰は芳賀郡長沼郷を領地したが、6代宗行のときの正和3年(1314)奥州岩瀬郡(福島県)
に移住した。
長沼(皆川)氏は、鎌倉の執権北条高時に背き、元享3年(1323)断絶したが、その70余年後の応永元年(1349)頃、
先に奥州に移住していた長沼宗行の5世秀光が本家小山氏を頼って下野に戻り、その子秀宗が、永享元年(1429)頃、
皆川城を築き居所とした。従って、重興皆川氏の初代は秀宗と云われている。
皆川城は、山の形をそのまま利用したもので、その形から「法螺貝城」とも呼ばれている。この皆川城を拠点にして皆川氏は漸次支配権を拡大し、
子の氏秀の代には皆川荘50余領を領する戦国大名となった。氏秀の子宗成は宇都宮氏の大軍と戦い討死した。史料によれば、この宗成が、
初めて「皆川」を氏としたとある。
戦国時代の後半になると、上杉氏、後北条氏、武田各氏や常陸の太守佐竹氏の抗争の波に揉まれ、、一族を死守することで、
凌ぎを削る毎日であった。
天正28年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で、皆川広照は後北条氏に味方をしたため、秀吉軍に攻撃され、
秀宗築城より6代170年間続いた皆川城は陥落した。
しかし、広照は密かに小田原城を抜け出し、
徳川家康を通じて降伏したので、皆川3万5千石は安堵された。
慶長8年(1603)松平忠輝が信濃川中島藩に封ぜられた時、
かつての忠輝の傅役の功により、広照は信州飯山7万5千石を賜った。
しかし、忠輝の不行跡(私は、これについてははなはだ疑問であるが)などからの責めを負い所領没収となった。
『歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)より』
現況・登城記・感想等
比高差は50mほどで、それほど巨大な城ではないが、本郭(東郭)と西郭を頂点にして、何段もの腰郭が山を取り囲んでいて、
往時を偲ぶことが出来、その形から法螺貝城と呼ばれたのもうなずける。それぞれの腰郭は幅が広く、
結構大きな建物が建てられていたのではと思われる(まるで、最近の宅地開発のような光景である)。
また、竪堀が2つと横堀(空堀)が、はっきりと分かりやすく残っている。
城の東半分は、木々に覆われているが、西半分は木々が伐採されているため、遺構や形状が分かりやすく、また眺望もよく、
手前下の段郭の向こうに、豊かな(のどかな?)田園風景が広がる。
居館跡は、公民館の敷地になっており、相当な広さ(東西250m、南北100mほど)がある。そして西側にかなり高い土塁(6m前後)と、
西から南にかけて水堀が残っている。
皆川城は、遺構が、かなり良好な形で残っている城址である。
(2007/06/03登城して)
ギャラリー
居館跡 ~クリックにて拡大画面に~
居館跡には公民館が建ち、西側空地は芝生の養成中のようであった。
その西側(写真奥)には6mほどはある土塁が残る。その土塁の外側には水堀跡が残っている。
居館跡から全景を ~クリックにて拡大画面に~
比高差は50mほどで、それほど巨大な城ではないが、本郭(東郭)と西郭を頂点にして、何段もの腰郭が山を取り囲んでいて、
往時を偲ぶことが出来、その形から法螺貝城と呼ばれたのもうなずける。
城の東半分(写真右側)は、木々に覆われているが、西半分(写真左側)は木々が伐採されているため、遺構や形状が分かりやすい。
山の中腹に木材で描かれた「城山」の文字が。
空堀(横堀)
~クリックにて拡大画面に~
空堀(横堀)は、
はっきりと分かり易い良好な形で残っている。
竪堀 ~両写真共にクリックにて拡大画面に~
㊧は下から見上げる、㊨は上から見おろしたもの
腰曲輪① ~クリックにて拡大画面に~
腰曲輪が山の周りを、何段にも取巻いているが、それらの腰郭は幅が広く、結構大きな建物が建てられていたのではと思われる(まるで、
最近の宅地造成のような光景である。
腰曲輪② ~クリックにて拡大画面に~
西半分は木々が伐採されているため、遺構や形状が分かりやすく、また眺望もよく、手前下の段郭の向こうに、
豊かな(のどかな?)田園風景が広がる。
㊧本丸(東郭)跡、㊨本丸跡に建つ「皆川城址」
の石碑
西郭跡
㊧居館南西部の水堀と、
㊨西側の水堀跡
㊧居館の南西部の水堀は、
一部が模擬石垣で囲まれて残されているが、㊨西側は自然なままに残されている。