越後 蔵王堂城(長岡市)

南東部の土塁と水堀

信濃川の水禍のために長岡城へ移転

所在地

新潟県長岡市蔵王一丁目、金峰神社の西
金峯神社:蔵王1丁目8-7、電話0258-32-2337

形状

平城

現状・遺構等

現状:金峰神社、安禅寺、宅地等
遺構等:曲輪、土塁、水堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/05/25

歴史等

仁治年間(1242)、蔵王権現が、この地に鎮座したと伝えられる。蔵王堂城は、 南北朝時代に越後北朝勢力の中条氏がこの蔵王権現が祀られている蔵王堂に本陣を構えたのが始まりといわれる。
その後、越後守護職上杉氏に従って越後に入った長尾景忠は、南朝軍と各地で戦った。景忠は、弟景恒に越後を譲り、自らは上野白井城に拠を構えた。
景恒の長子新左衛門尉は蒲原郡代となり三条城に、次男景春は古志郡代となり蔵王堂城に、三男高景は越後守護代となった。
景春は蔵王堂城を拠点に三島郡・古志郡・刈羽郡を領し、古志長尾氏を称した。古志長尾氏は、明応年間(15世紀末)、栖吉城に本拠を移し糙脱 (しとぬき)庄を支配した。
その後、蔵王堂城は長尾為重(謙信の叔父)が本格的な城郭として大改修し、上杉家及びその家臣が治めた。
慶長3年(1598)、上杉景勝が会津へ移され、代って堀秀治が越後へ入国し、中越の要衝蔵王堂城へは秀治の弟親良、坂戸城へは又従弟の堀直竒が入った。
親良の隠退後、その子鶴千代が蔵王堂城主となると、直竒は、その後見役となり、蔵王堂城・坂戸城両城の領地を支配した。
慶長15年(1610)、直竒は秀治の跡を継いだ忠俊と、兄直清の讒言によって突如国外に追放された。直竒は、 将軍徳川秀忠と大御所家康に直訴し、その裁定によって忠俊は改易され、直竒も坂戸城から信濃飯山城4万石へ移された。
その後、直竒は駿府で家康に仕え、大阪の陣で大功をたて、元和2年(1616)には8万石蔵王堂城主として故地へ返り咲いた。
そして、信濃川の水禍のため危険な城地を長岡の地へ移転しようと計画し、着手したが、完成しないうちに10万石村上城主に移封となった。
代って、元和4年(1618)牧野忠成が入部し、堀直竒のあとを受け長岡城を完成、 蔵王堂城を廃城とし、城下町を長岡の地に移した。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

土塁と水堀が残っているだけだが、土塁は規模(高さ・幅ともに)が大きくて迫力が感じられ、見応え充分である。
また、その土塁と水堀のコラボが何とも絵になり、いろんな角度から写真を何枚も撮ってしまった。
(2009/05/25登城して)

ギャラリー

水堀
㊧東側南部の水堀と土塁、㊨南側の水堀
土塁と水堀のコラボが素晴らしく、この他にもいろんな角度から何枚も写真を撮って廻った。

 

南東部の土塁
この南東部隅の土塁は水面からは高さ5m以上もあり、幅もかなりあり、存在感たっぷりで迫力がある。 櫓かそれなりの建物が建っていたのだろう。

南東土塁上に立つ城址碑
南東隅の土塁上には、水堀の外側からもよくみえる城址碑(写真手前)の他に、石碑(右奥)も立っている。 この土塁上の端に立って下(堀)を見ると高くて怖いほどだ。

北側の土塁(㊧土塁下から、㊨土塁上から)
北側に残っている土塁は、南東部の土塁ほど高さも幅もないが、100m近い長さの土塁は、 やはり見応え充分だ。
 

㊧曲輪内、㊨堀直竒の像
㊧南東部の土塁上から曲輪内を撮ったもので、すぐ下に堀直竒の像が見えるが、曲輪内には、他にも 「堀直竒顕彰碑」や「蔵王権現の記」の碑等々が設置されている。
 

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