越後 栖吉城(長岡市)

本丸跡にたつ城址碑と説明板

上杉謙信の母虎御前の実家古志長尾家の居城

所在地

長岡市栖吉町(普済寺の裏山)
登城口:栖吉神社、普済寺の2箇所から登れる。駐車スペース有り。
普済寺:栖吉町3039(電話はあるが、未登録でナビで指定できない)

形状

山城(標高328m、比高約270m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、虎口、堀切、横堀、竪堀、石碑、木碑、遺構案内板、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2009/05/25

歴史等

栖吉城は上杉謙信の母の実家古志長尾家の居城である。
南北朝の動乱時代、越後守護上杉氏に従って越後に入った長尾景忠は、南朝軍と各地で戦った。
景忠は、弟景恒に越後を譲り、自らは上野白井城に拠を構えた。
景恒の長子新左衛門尉は蒲原郡代となり三条城に、次男景春は古志郡代となり蔵王堂城に、 三男高景は越後守護代となった。
景春は蔵王堂城を拠点に三島郡・ 古志郡・刈羽郡を領し、古志長尾氏を称した。古志長尾氏は、明応年間(15世紀末)、栖吉城に本拠を移し糙脱(しとぬき)庄を支配した。 謙信の母虎御前は長尾顕吉の娘である。
謙信時代、栖吉衆は謙信の側近として大きな役割を果たしたが、謙信死後、「御館の乱」で長尾景満は景虎に味方したため滅亡した。
栖吉城は乱の後、景勝の番城となり、慶長3年(1598)に景勝の会津若松城移封によって廃城となった。
『歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)より』

現況・登城記・感想等

登城口は栖吉神社、普済寺からの2箇所あるが、私は普済寺を少し過ぎた辺りにある登り口から登城した。 栖吉神社からの方が近道なようだった。
登城道は、ハイキングコースとしてよく整備されている。登り始めてしばらくは結構急坂を登るが、 その後は緩やかな坂道をひたすら登ること20分ほどで、やっと石碑と縄張図付きの説明板が現れる。 城内への道と八方台への道との分岐点である。
本丸は、ここからはすぐで、連珠砦を通って、三の丸、二の丸、本丸へと登っていく。
連珠砦から切岸下の道(反対側は急崖)を登っていき、虎口を入ると三の丸である。三の丸は一部土塁で囲まれている。
三の丸と二の丸間は結構規模の大きな堀切で断ち切られている。土橋を渡り虎口を入ると二の丸である。二の丸は、 本丸南と西下の空堀の一段下に、腰曲輪的にL字形で本丸を一部取り囲んでいる。
本丸は東西55m、南北34mと広く、東西南下に幅約4mの空堀が取り囲んでいる。二の丸から本丸への虎口は、 説明板にある縄張図で見ると外枡形になっていたようだが、あまりはっきりとは分からなかった。
本丸東側にも空堀を隔てて、奥のほうへと長い曲輪が見えたが、恐れおののくような藪で腰が引けてしまい突入するのを諦めた(泣)。
登城にあたって、調べたところによると、そちらの詰の城の方こそ見どころが多いとのことであったが、今日は栃尾城への3回の山登りで疲れたので、 これにて終了!
蛇やマムシが怖いし、夕方になり熊出没も気になったのが本当の理由(汗)。今冬、雪の降る前にリベンジしよう!
(2009/05/25登城して)

ギャラリー

縄張図(現地説明板より)   ~クリックにて拡大画面に~

栖吉城址遠景

㊧登城口、㊨登城道
㊧普済寺を少し過ぎた辺りにある登り口から登城。㊨登城道はよく整備されて歩きやすい。 登り始めてしばらくは結構急坂を登るが、その後は緩やかな坂道を兎に角ひたすら登る。
 

本庄清七郎(秀綱)の墓
登ること20分ほどで、本庄清七郎(秀綱)の墓へ出る。本庄秀綱は、天正6年(1578)の「御館の乱」 の際、上杉景虎に味方し、景虎が敗れ、自刃した後も反抗を続けていたが、天正8年(1580)4月景勝の猛攻を受けて、滅亡、 栃尾城は落城した。秀綱は「御館の乱」のときに栖吉城に在城していたという話があるそうで、 道理でここに墓があるのか!?

城内と八方台の分岐点にたつ城址碑と説明板
本庄秀綱の墓から少し登ったところが城内への道と八方台への道との分岐点で、そこに城址碑と説明板がある。 やっと城址らしきものに出会い、ほっとする。

連珠砦跡
分岐点から少し登ると連珠砦(畝状阻塞)へ出る。 大きな土塁と竪堀を交互に並べているが写真では分からないですよね。当城には説明板の縄張図を見ると、このような畝状阻塞が一杯あるようだ。
 

三の丸への虎口
連珠砦から切岸下の道(写真右側は急崖)を登っていき、曲がりくねった虎口を入ると三の丸である。

三の丸
三の丸は一部土塁で囲まれている。

二の丸虎口
虎口手前両側の堀切は結構大規模で見応えがある。

二の丸南下の堀切

二の丸(㊧本丸南下、㊨本丸西下)
二の丸は、本丸南と西下の空堀の一段下に、腰曲輪的にL字形で本丸下を一部取り囲んでいる。 ㊧は二の丸南部分を空堀越しに、㊨は二の丸西部分。どちらも本丸南西部から撮影。
 

本丸虎口
二の丸から本丸への虎口は、説明板にある縄張図で見ると外枡形になっていたようだが、 あまりはっきりとは分からなかった。写真右は本丸南の空堀。

本丸南側の空堀

本丸
本丸は東西55m、南北34mと、当時の山城としてはかなり広い。中央に一本だけ大きな木が立っており、 その下に城址碑と縄張図付きの説明板がある。

本丸東側の空堀(本丸上から撮影)
本丸奥(東)へ行ってみると、空堀が。その向こうの曲輪跡を見ると恐れおののくような強烈な藪・・・(無言) 。せめて、空堀下へ下りることができるようなところがないかと捜して、下りていった。

本丸東側の空堀(堀底で撮影)
空堀はそれほどの藪ではないが、それでも写真にするとこの通り・・・。とても、 詰の城方面へ突入する勇気はなかった(泣)。

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