越後 栃尾城(長岡市)

本丸跡

上杉謙信、初陣の城

別名

舞鶴城、大野城

所在地

長岡市栃尾大野町、栃尾表町(登城口は諏訪神社の他にも何箇所かある)
諏訪神社:栃尾表町2-2、電話0258-52-2806
駐車場:諏訪神社北東約200mの中央公園横に市営無料駐車場有り

形状

山城(標高227.7m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、竪堀、土橋、狼煙台、馬場跡、千人溜り、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2009/05/25

歴史等

栃尾城は、南北朝動乱時代の正平年間(729~48)、下野の武将芳賀禅可が、足利尊氏の命で、一時ここに立て籠もり、 縄張りしたと伝えられている。
室町時代には、春日山城を本拠とする守護代長尾氏の属城となり、 古志長尾氏の家臣本庄氏歴代の持城となった。
天文5年(1536)春日山城で長尾為景(上杉謙信の父)が没すると、 その子の長尾晴景が家督を継いだが、晴景は病弱であったため、守護職上杉氏の養子問題に絡む動乱をおさめきれず、 越後内の豪族たちは各地で戦いに明け暮れた。
その戦火が中越地方にも広がってきたため、晴景は春日山城下の林泉寺で修行の日々を送っていた弟長尾景虎 (後の上杉謙信)を自分の名代として、中越の要であった栃尾城に送り込むことにした。
天文12年(1543)、14歳の景虎は、腹心に守られながら春日山城より栃尾城に入った。
すると、近郷の豪族たちは景虎を若輩と侮って栃尾城に攻めかかったが、景虎は栃尾城代本庄実乃(さねより)の補佐で、見事に敵を撃退、 めざましい初陣を遂げた。
景虎の武将としての素養が並々でないことを知った豪族達は、だんだん景虎の指揮に従うようになり、 諸将の間にはこの若き英主を守護代に擁立しようとする動きが広がり、兄の晴景と骨肉の争いになる。
天文17年(1548)景虎は守護上杉定実の仲介で兄晴景に代って守護代職を相続することになり、春日山城に入った。 その後、さらに関東管領上杉憲政からその名跡を譲られ、41歳の時に名を上杉謙信と改めた。
謙信没後の天正6年(1578)の「御館の乱」の際、本庄秀綱は上杉景虎に味方し、景虎が敗れ、自刃した後も反抗を続けていたが、天正8年 (1580)4月景勝の猛攻を受けて、本庄氏は滅亡、栃尾城は落城した。
以後、景勝の家臣が交代で城代を勤めた。
慶長3年(1598)景勝の会津移封にともない、栃尾城には春日山城主となった堀秀治配下の武将神子田政友が在城したが、 慶長15年(1610)堀家の改易にともない廃城となった。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

栃尾城は、「栃尾の油揚げ」で有名な栃尾の町の西にある標高227.7mの鶴城山に築かれた山城で、 鶴が羽を広げたような姿をしていることから別名「舞鶴城」とも呼ばれた。
鶴城山は町から見上げるとさほど高い山ではないが、山頂の本丸を中心に北西に松の丸・三の丸・五島丸、南西には二の丸・中の丸・びわ丸・ 馬つなぎ場・狼煙台詰曲輪・狼煙台などを配した要害堅固な縄張りである。
この城の特徴は、各曲輪間を断ち切る堀切の多さであろう。中でも狼煙台へと続く尾根には次々と堀切が現れ、 またそこに架かる土橋と相俟って見応えがある。
最大規模の堀切は、松の丸跡と三の丸跡の間の堀切で、上部幅10mほど、深さは松の丸土塁上から8mほどあるだろう。そして、 それは竪堀となって落ちていき、さらには馬場跡と千人溜りの間まで伸び、長さ200mにも及んでいるそうだ。
登城道はハイキングコースとして良く整備され、本丸からの眺望も良く、多くの地元の方が登ってきていた。
(2009/05/25登城して)

【余談】
今回、栃尾城址には3回登った。
最初は、諏訪神社から千人溜りを経由して二の丸、本丸、そして南方向の狼煙台へと行き、本丸下へ引き返してきた。その後、松の丸、 三の丸経由で下山するつもりであったが、道を間違えて、何と山麓の広い駐車場の所まで降りてきてしまった。
止むを得ず、三の丸等がある北西尾根上の曲輪を見るのは諦めて、そこから山麓を廻っている道路を下りて行くと、三の丸方面への登城口へ出た。 再度、登るかどうか迷った末、ほぼ一直線に伸びる坂道を登って行き、尾根伝いに本丸まで再登城。
昼食は「道の駅・とちお」で「とちお油揚げ蕎麦」を食べたが、そこで手に入れた簡単なMAPによると、南東部山麓に城主居館があったので、 捜した。すると、真新しい城山コースの階段を見付けた。640段だそうだ。ひょっとして、こちらが城主居館経由のコースかもと思い、 登っていったところ、全く何も無いまま、結局本丸下まで・・・。
さすがに疲れ果て、今日の城めぐりはこれで打ち止めにしようかとも思った。
この後、気を取り直して、栖吉城へ登り、さらに坂戸城山麓だけは行ってみたが・・・。本日の山歩きは、2万7千歩強だった・・・。 ツカレタ~!
(2009/05/25)

ギャラリー

縄張略図(現地諏訪神社横の案内板より)
この案内図じゃあネ!せめてもう少し詳しい案内図が欲しいところですよね!?

遠景(中央公園横から)
最初、この山容を見た時、想像していたよりはるかに低くて、なだらかそうな山なので拍子抜けした。


【最初の登城】
登城口
一般的には、この諏訪神社から登るのが多いようだ。㊧神社入口奥の石段手前に「栃尾城跡」 の石碑が立っている。㊨石段を登ると社が現れる。
 

登城道
社の横に、簡単な縄張図の載った案内板が設置されている。奥に、登城道がある。

金井曲輪
しばらく登って行くと、削平地へ出、そこに「←千人溜20分・長峰30分→」の看板が設置されている。 どちらも本丸へ登れるようだが、千人溜り方面を選んだ。後で分かったことだが、長峰へ進むと、三の丸等経由の道のようだった。
 

馬場跡
名前の通り、軍馬の調練が行なわれたところで、広さは2千900㎡あるそうだ。強烈な藪で、 とても入っていけるような状態ではない。

馬洗い池
馬場跡の一隅に「馬洗い池」とあったが、雑草で全く分からない。ただ、窪みになっているのが分かっただけだ。

千人溜りと馬場の間の大堀切
松の丸跡と三の丸跡の間の堀切が竪堀となって、千人溜りと馬場の間へと続いてきている。 城内を真っ二つに2分する大堀切で、当城最大の見所の一つであるが、時期が悪くご覧の通りの藪で、何がなんやら分からない。

千人溜り
㊧3千㎡に及ぶ大広場で将兵の訓練が行なわれたという千人溜りも強烈な藪。藪の中の登城道を登っていくと、 ㊨傍らに湧水がでて、コップが用意されていた。訓練の後にはGOODですね。
 

㊧本丸の城壁、㊨金銘泉
㊧千人溜りをさらに登って行くと、正面に本丸城壁が立ちはだかる。㊨城壁の下あたりに金銘泉が。 よく見ると水が溜まっていた。
 

本丸・二の丸の分岐
さらに登って行き、岩の鼻橋と本丸への分岐を本丸へ向かうと、右本丸、左二の丸の分岐点へ出る。

二の丸
二の丸は低い段差があり、三段になっている。その中央に東屋が建っており、眺望も良い。
 

二の丸からの南方面の眺望

本丸
本丸は非常に細長く、周囲は二の丸方面への道を除いて絶壁。腰巻の石垣などもあるらしいが、 藪に阻まれて全く分からなかった!
 

本丸からの眺望
天気が今ひとつで薄く靄がかかっていたが、それでも素晴らしい眺望だ。

南西へ伸びる尾根へ
二の丸の背後の堀切
この堀切をはじめとして、南西方向には次から次へと堀切が現れる。その中でも、この堀切が最も大規模である。

馬つなぎ周辺の堀切
深さや幅は小規模であるが、竪堀となって斜面を降りていっているのがよく分かった。土橋とのコラボが良い。
 

狼煙台詰曲輪
㊧次に、またまたすごい土橋が現れたと思ったら、 左の土塁兼土橋と正面奥の土塁に囲まれた狼煙台詰曲輪であった。正面奥の土塁上も右の方へ細い土橋のような道になっており、 先端部はやや広くなっていた。多分、見張り台にでもなっていたのだろう。それにしても、すごい土橋だ。左側は遥か下まで絶壁になっている。

またまた堀切と土橋
狼煙台詰曲輪横の土橋を登り、尾根道をさらに進むと、またまたかっこいい堀切と土橋が現れる。 土橋を渡ってからの坂が結構急だった。
 

狼煙台への土橋
さらに進むと、最後8mほどの土橋が現れる。この土橋は結構急な坂になっており、 登り切った処が狼煙台跡である。
 

狼煙台
狼煙台跡には「薬師社」の石碑がたっている。その奥の方へと細長い削平地だ。


【二回目の登城】
狼煙台を見てから、一旦、本丸下へ戻り、三の丸方面経由で下りようと思った。 降りていく道は一つしかないと思い、降りて行ったら、何と本丸の山麓にある駐車場へ出てしまった。止むを得ず、 三の丸等の北西尾根上の曲輪を見るのは諦めて、山沿いの道路を下りて行くと、三の丸経由の登城口へ出た。どうしようか迷った末、 再登城することにした。

登城道
一度登った山を降りてきたとたん、再度登るのは結構キツイものがある。おまけに、この登城道、 何ともツマラナイ、ただただ一直線の道をひたすら登るだけである。
 

さらに登城道
㊧ひたすら登ること15分で、最後の急坂へ出る。写真以上にきつい階段だ。 ㊨登り切った処から階段下を見ると、かなりの落差に今更ながらビックリ!でも、ここから見下ろす景色はGOOD!しかし、 帰りに降りる時には、完全に膝にきた~!
 

五島丸手前の堀切
㊧上写真を登り切ると城の北西の尾根へ出る。こちらも。曲輪間の堀切の連続である。この堀切は、 規模は小さいが、㊨竪堀となって山裾まで落ちていっているのがよく分かる。
 

三の丸・五島丸間の堀切
五島丸は非常に小さな曲輪で、曲輪の中を進むと、すぐ次の堀切へと出る。この堀切も小規模なものだ。 普通の城だと、ちょっとした堀切を見付けただけで喜ぶのに、これだけ出くわすと当り前のようになってくる。

三の丸
特に何も特徴のない細長い曲輪である。

三の丸。松の丸間の大堀切
栃尾城最大規模の堀切で、竪堀となって落ちていき、千人溜りと馬場の間へと続いている。 城内を真っ二つに2分する大堀切で、当城最大の見所の一つである。㊧写真の右側上が松の丸土塁。㊨写真は、堀底から松の丸の土塁を見たもの。
 

松の丸
松の丸は非常に細長い曲輪で、三の丸側が一段高くなっている。櫓台だろう。

連続堀切
松の丸と本丸間は二重堀切になっている。

本丸下の堀切
二重堀切の本丸側の堀切は規模が大きい。本丸下の細い道を進んで行くと、 本丸と二の丸下のトイレの裏に出たが、案内板が全くなかった。先ほどは、まさかトイレの裏が三の丸への道とは思わず、 下へ下りてしまったわけだ。これじゃあ分かるわけないよなあ!案内板は必須だと思うけどなあ!


【三回目の登城】
昼食を「道の駅 とちお」でとった。そこにあったパンフによると、栃尾大野町辺りに、 城主居館があるらしいので、行ってみると、真新しい城山コースの階段を見付けた。ひょっとして、こちらが城主居館経由のコースかもと思い、 登っていったところ・・・。

真新しい登城道
㊧真新しい登城入口の案内板を見付けた。㊨入って行くと、杖が用意されており、「この先640段、 ご自由にお使い下さい」とある。城主居館の処までちょっと行くだけだからと、持たずに登りはじめたら・・・。
 

結構きつい坂道
㊧少し登れば、城主居館なり何なりへ出ると思って登っていったが、登れど登れど、階段以外何もない。しかも、 この階段結構急勾配でキツイ!何せ、今日三度目の登城だからなあ・・・。結局、本丸下辺りまで登ってしまった。さすがに、疲れた! ㊨階段上から下を見下ろすと、急傾斜がよく分かる。完全に、膝にきた。骨折り損のくたびれ儲けだった。
 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント