岩代 会津若松城(会津若松市)

復元された天守閣

蒲生氏郷により本格的に築城、戊辰戦争では白虎隊の悲劇的な最期が

別名

鶴ケ城、黒川城

所在地

福島県会津若松市追手町

形状

平山城

現状・遺構等

遺構等:復元天守閣、鉄門、走長屋等、現存鐘撞堂(鐘突堂)、現存麟閣、移築現存御三階(市内七日町の阿弥陀寺に移築)、石垣、堀、石碑、説明板等々

【国指定史跡】
指定日:昭和9年12月28日
指定理由:寛永年間の築城になる若松城は内堀・石垣・各郭など、きわめて良好に保存されているわが国有数の城郭遺構である
面積:22万8,528㎡
資料館:天守閣内の郷土博物館に関係資料を展示

満足度

★★★★★

訪城日

2005/03/20
2005/03/21
2018/10/14

歴史等

会津若松城は、元は黒川城と呼ばれ、その原型を築いたのは、芦名直盛と伝えられている。直盛が南北朝時代に下向して以来、芦名氏は南奥州一帯の盟主として君臨し、伊達氏と死闘を繰り広げるが、天正17年(1589)、摺上原(すりあげはら)合戦に敗北を喫し、伊達政宗に滅ぼされてしまい、黒川城には一時政宗が移った。
翌18年(1590)小田原の役の後、政宗は岩出山へ移封となり、 伊勢松坂城より蒲生氏郷が会津42万石に封ぜられ入城、翌19年(1591)91万石9千石に加増された。
氏郷は、数年で病死するが、この際に大改修をした。7層の天守閣を建て、櫓、多聞、馬出しなどを築き、城壁を高くし、堀を深くした。本丸および二の丸・三の丸を堀で囲み、現在の若松城跡の形が出来上がった。また、城名を鶴ヶ城に改名し、黒川の町割を定め、名を若松にするなど現在の会津若松の基礎を築いた。しかし、氏郷の築いた天守閣は慶長16年(1611)の大地震で崩壊してしまったが、今に残る天守石垣は当時のものと言われる。
氏郷の死後、秀行が跡を継ぐが慶長3年(1598)宇都宮へ移封され、 越後春日山城より上杉景勝が120万石で入封した。
景勝は関が原合戦で西軍に組したため領地を削減のうえ米沢へ移封され、再び蒲生秀行が入封したが、寛永4年(1627)次の忠郷のとき、嗣子なく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予松山城に移された。代わって伊予松山城より加藤嘉明が入封した。嫡子・明成の時の寛永16年(1639)に若松城の大改修を行い、さきの大地震で傾いたままだった天守閣を7層から現在の5層へと改められた。
寛永20年(1643)、明成は重臣とのいさかいが元で領地を幕府に返上し石見へ去り、山形より将軍家光の異母弟・保科正之が23万石で入封し、その後の移動はなく、9代藩主松平容保(3代藩主正容からは姓を松平と改めた)の代に明治の動乱を迎え、会津の悲劇が起きた。
幕末の戊辰戦争では官軍に攻められ、2ヶ月にわたる籠城の末、開城・降伏を申し入れた。朝敵となった会津藩は、領地を没収されたのち、 斗南藩(青森県下北地方)3万石を与えられた。藩士たちは、斗南に移住したが、当地は寒冷で、大地もやせており、人々の生活は困窮をきわめ、その斗南への移封は「全藩流罪」とも称されている。
『参考:「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「図説・日本の史跡7」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)」』

現況・登城記・感想等

会津若松城は、湯川によって形成された扇状地の先端部を利用して築かれています。 台地と地続きの弱点の東側の防備を厚くするために、西端に本丸を置き、東に向けて二の丸・三の丸と連ねる連郭式の縄張りを基本としながら、北側と西側に(馬出し的な)出丸を配置して本丸を守っています。
内郭(本丸・二の丸・北出丸・西出丸)周囲は堀で囲まれています。中でも、本丸周囲は高い土塁で囲まれ、水堀も大規模です。
二の丸から本丸へは木橋(廊下橋)を渡らなければなりませんが、橋を落としてしまえば侵入口はなくなります。


会津若松城といえば、多くの人は幕末の戊辰戦争を思い起こすのでしょうが、私には、何といっても蒲生氏郷の会津若松です。
勿論、現在の復元天守は氏郷時代の7層の天守ではありませんが実に美しい。本丸跡の庭の松の木が雪囲い(雪づり)がされており、 それが天守に実に上手くマッチされて、さらに綺麗に見えました。
また、他にも、武者走り・鐘撞堂(鐘突堂)・月見櫓・茶壷櫓・鉄門・太鼓門跡・廊下橋脇の高石垣や水堀等々見どころが多く嬉しくなってきます。そして、氏郷が利休切腹の後、子・千少庵をかくまう為の茶室・麟閣も大変風情があります。
翌日は、天守に登りましたが、眼下に見える城内や町並み、さらには遠方に見える雪山が実に美しい。磐梯山も見えます。そしてその手前には、 あの白虎隊自刃の地・飯盛山も見えました。
(2005/03/20-21登城して)


黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ、2011年3月に竣工したと聞いて、近いうちに登城したいと思っていたのがやっと叶いました。
城には珍しい赤い屋根の色が映えて、益々綺麗になったような気がしました。
時間にあまり余裕がなかった上、今回の登城目的は、その赤い瓦に変わった城を見るだけだったので、一回りしただけで天守にも登らず下城しましたが、充分満足しましたよ。
というわけで、全ての写真を撮り替えたかったのですが、一部、2005年3月に登城した時の写真も混在しています。
(2018/10/14登城して)

ギャラリー

会津若松城縄張絵図(現地案内板より) ~画面をクリックにて拡大~
会津若松城縄張絵図

【北出丸】
(北出丸脇にある櫓台)
蒲生氏が松山に去った後、代わって寛永4年(1627)加藤嘉明が40万石で鶴ヶ城へ入城しました。嘉明の後を継いだ嗣子の明成は、寛永16年(1639)に鶴ヶ城に大改修に着手しました。
まず、北と西にあった馬出が拡張されて北出丸と西出丸となり、本丸への進入を一層困難にしました。さらには、これまで東に向いていた(廊下橋の方向)大手口も、滝沢峠の開通に伴って北へ改め、甲賀町通りから北出丸、椿坂、太鼓門(大手門)、帯郭を経て本丸へいたる順路が確保されました。
北出丸脇櫓台

太鼓門(北出丸から本丸に通じる大手門)
ここには多聞櫓が建てられ胴の径1.8mの大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態等の合図に使用されていたことから太鼓門と呼ばれていました。
太鼓門

【本丸内】
鶴ケ城歴代藩主の家紋

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鐘撞堂
鐘撞堂は、時守をおいて昼夜時刻を城下に知らせていました。
戊辰戦争の時にはここに西軍の砲火が集中し、時守が相次いで斃れたにも関わらず開城の最後まで正確に時を報じ大いに三方の志気を鼓舞しました。

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太鼓門の所にある武者走り
太鼓門の枡形の敵を上から攻撃するために、兵が昇降するための階段
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本丸埋門
天守閣の北東にあり、本丸御殿の北側から本丸帯曲輪に通じる枡形の城門。蒲生時代の表門であった。
蒲生氏時代の表門

本丸埋門手前から天守を
蒲生氏時代の表門手前から眺める天守

御三階跡
建物は市内阿弥陀寺に移築されています。
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天守閣の石門
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天守閣と本丸御殿跡(手前)
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天守閣と走長屋と鉄門(くろがねもん)
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鉄門
北出丸から本丸帯郭を経て本丸に通じる堅固な櫓門形式の表門
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麟閣
千利休が豊臣秀吉を怒らせ、死を命じられた際、 茶道の道が途絶えることを悔やんだ蒲生氏郷が千利休の子小庵を会津に保護した。麟閣は、小庵が蒲生氏郷のために造った茶室と言われています。
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麟閣茶室
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【本丸周囲を取り囲む土塁上にて】
茶壺櫓跡
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茶壷櫓脇から天守閣を
茶壺櫓脇から天守を

月見櫓跡
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月見櫓跡脇から天守閣を
月見櫓脇から天守を

干飯櫓
干飯櫓

干飯櫓脇から天守閣・鉄門・走り長屋を
干飯櫓脇から天守・鉄門・多聞櫓を

【二の丸跡から本丸へ】
本丸と二の丸間の堀と廊下橋
廊下橋

廊下橋と本丸虎口枡形
枡形

茶壺櫓跡脇から本丸東側の高石垣と廊下橋を
茶壺櫓から廊下橋を

【天守閣上から】
今回(2018/10/14)の登城では、天守に登らなかったので前回(2005/03/21)の写真を掲載します。
天守から見た走長屋・鉄門・干飯櫓
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天守閣からの景色
やや右の遠くの高い山が磐梯山、手前の低い小山が白虎隊自刃の地・飯盛山
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【城下町に残る遺構】
蒲生氏郷墓所
会津若松市神明通りの東裏、「興徳寺」の本堂東側にあり、ここには蒲生氏郷の遺髪が奉られています。
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御三階
若松市・阿弥陀寺内に移築されています。
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コメント

お洒落なオヤジ(2006/01/03)

鶴ヶ城へは行かれましたか?飯盛山から白虎隊を見て、お城が焼け落ちたと勘違いし、白虎隊が自害しましたが「鈴木源吉」という会津藩氏、白虎隊、は母方の親戚になるそうです。

お洒落なオヤジ(2007/08/19)

7月に行っててきました。白虎隊の鈴木源吉は母方の親戚にあたります。母は会津新鶴の出身ですよ~^^

タクジロー(2007/08/19)

お洒落なオヤジさん
鶴ケ城は、鉄筋による復元とはいえ、やはりかっこいいですね~。
私が行ったときは、雪囲いと天守閣のコラボレーションが実に良かったですよ。
白虎隊と言えば、というよりも会津藩士と言えば、先日、下北半島の「斗南陣屋跡」へ行って来ました。「会津藩士上陸の地」というのも行ってきました。
あまりの暑さで、当時のことはとても偲ばせるといった状況ではなかったですがね。

りんご(2013/10/18)


初めまして
私は鈴木源吉の子孫になるらしいです
もう 祖父がなくなり 繋がりが分かりませんが
もしかしたら どこかで繋がりがあるのかもしれませんね

小さい頃 よく祖父から 白虎隊の事など
聞かされてました
もっと しっかり聞いてればと
後悔しています…

タクジロー(2013/10/19)

りんご様
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
白虎隊の鈴木源吉氏のご子孫とは、すごいですね。
鈴木源吉氏は、文武に優れていたようで、17歳で亡くなったのが本当に惜しいですよね。
これからも、当サイトに時々寄って戴けると幸いです。

ごり子(2014/02/16)

はじめまして(*´∀`)♪
私の父方の祖母は鈴木源吉の子孫だと聞いてます。
中学の修学旅行で鶴ケ城は訪れましたがそれ以来会津には行けてません。
源吉さんのお墓を撮った写真は持ってます♪

タクジロー(2014/02/24)

ごり子様
当サイトへのご訪問とコメントを有難うございます。
鈴木源吉氏のご子孫の方からのコメントをかなり戴いて嬉しいです。
また、時々、当サイトへのご訪問をお待ちしております。
今後とも宜しくお願い致します。

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